史料判読能力養成講座012のための下調べ 明治天皇崩御〜大正天皇即位礼まで

【時系列整理】 明治天皇崩御大正天皇即位礼

1909(明治42)年2月11日
1912年(明治45/大正元)年
  • 7月30日 午後5時 枢密院で元号に関する会議
    • (登極令第二条 天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム 元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス)
    • (登極令第三条 元号詔書ヲ以テ之ヲ公布ス)
  • 7月30日?〜9月13日? 殯(もがり)
    • 殯とは、「〔……〕人が没した後、死者に対して親族・従者等が哀悼の気持ちから慎む状態を喪という。殯は「喪上がり」の略ともいい、死体を棺におさめて安置することで、その建造物を喪屋という。殯の目的は肉体から離れた魂をよびもどす再生儀礼と言われるが、死者に付着する「凶癘魂」を鎮める儀式ともいう。古代では喪葬令に規定された。」(『角川 新版 日本史辞典』角川書店、1996)。
大正天皇の即位礼は1915(大正4)年11月10日なのだが、即位礼までのタイムラグがよくわからない問題。
  • 諒闇の期間は即位礼をしない
    • まず登極令の第十八条には「諒闇中ハ即位ノ礼及大嘗祭ヲ行ハス」とあるので、諒闇の期間は即位礼をしないことが分かる。
  • 諒闇の期間はいつか
    • 次に、諒闇の期間とはいつかが問題になるが、これは1909(明治42)年に制定された皇室服喪令に規定がある。皇室服喪令の第二十条では「天皇ハ〔……〕大行天皇(※)引用者註:天皇崩御した後、追号が贈られるまでの呼称)及皇太后ノ為ニハ一年ノ喪ヲ服シ〔……〕」とあり、第二十一条では「大行天皇及皇太后ノ為ニスル大喪ヲ諒闇トス〔……〕」とある。つまり、諒闇の期間は1年である。
      • wikipediaの諒闇の項目には「儒教では『礼記』における父の死の3年、母の死の三年の服喪の期間を言う。現在の日本の天皇即位の礼が先代天皇の数え年で崩御後3年目に行われるのも、この「諒闇」の観念によっている(ただし今上天皇即位の礼昭和天皇崩御の翌年に行われた)」(2018年7月6日14時7分閲覧)とあるが、これは皇室服喪令の規定とは異なる。
  • 服喪の日数の起算はいつからか。
    • 服喪はいつからカウントするかだが、皇室服喪令では第十四条「服喪ノ日数ハ崩御薨去又ハ死亡ノ日ヨリ起算ス」とある。
  • 明治天皇の諒闇があけるのは
    • 以上により明治天皇の諒闇が明けるのは、1913年の7月30日以降となる。即位の礼を行う時期は、登極令の第四条では「即位ノ礼及大嘗祭ハ秋冬ノ間ニ於テ之ヲ行フ」とあるので、1913年の秋冬にやってもよさそうなものである。なぜやらなかったのかは定かではない。
  • 昭憲皇太后崩御と諒闇
    • 大正天皇の即位礼は1914年に予定されていたらしい【要出典】
    • しかし、1914年の4月9日に明治天皇の皇后である昭憲皇太后崩御した。よってまた1年間の諒闇が発生した。この諒闇が明けるのは、1915年4月9日以降である。
  • 大正天皇即位礼
    • 最終的に、1915年11月10日に大正天皇の即位礼が、11月14〜15日に大嘗祭が行われた。
  • ※参考:皇室服喪令

用語チェック

  • 匪躬之節(ひきゅうのせつ)
    • 自身の損得は考えずに、君主や国家への忠義を尽くすこと。「匪躬」は自身の損得を考えないこと。
  • 覆奏
    • 詔や勅の作成手続き上、天皇の意向を再確認するために行う奏上。
  • 詔書と勅旨の違い
    • 天皇の命令を伝える文書様式を詔書、勅旨という。
      • 詔書は格式が高く用途が限られている。
      • 勅旨は日常的な政務に広く用いられた。