- 概略
- 【1】更新世の旧石器時代は狩猟採集生活を行う移動社会であり、完新世になり縄文時代に入ると温暖化により食糧事情が豊かになり定住社会が始まる。だが獲得経済であったことは同様であり、貧富の差や身分の上下は無かったとされる。
- 【2】弥生時代に入り農耕社会が成立すると余剰生産物の蓄積が発生し、小国の形成が進んでいく。その様子は中国の歴史書から紐解くことができる。だが3世紀中頃(266年)を最後に5世紀まで中国の歴史書から倭国に関する記述は姿を消してしまう。そのため「謎の4世紀」と言われるが、古墳の広がりからヤマト政権による日本列島の支配の広がりが分かる。
- 【3】5世紀になると中国の歴史書に倭の五王が記述されるようになり、朝鮮半島に進出し、そこでの優位を獲得しようと朝貢を重ねていたことが分かる。しかし6世紀初頭に皇統が断絶してしまい、応神天皇5世孫とされる継体朝が始まる。
- 【4】6世紀末~7世紀初め、東アジアは激動の時代に入る。589年に分裂していた中国を隋が統一し、618年に成立した唐が朝鮮半島への侵略を始めると、ヤマト政権もその危機に対処するため、律令国家の建設を目指すことになった。
- 王権早見表
【目次】
0.旧石器・縄文・弥生時代における社会と政治
(1)旧石器時代
- 狩猟・採集生活
- 獲物や植物性の食糧を求めて絶えず小河川の下流域など一定の範囲内を移動。
- 小集団と部族社会
- 10人前後の小規模集団を形成。小集団がいくつか集まり遠隔地交易で入手した石器の原材料等を分配する部族的な集団を形成。
(2)縄文時代
2.5世紀のヤマト政権
2-1.倭の五王
- 讃(応神天皇or仁徳天皇or履中天皇)
- 421年、宋に朝貢。宋の武帝から除授(おそらくは安東将軍倭国王とする)の詔を受ける(宋書倭国伝)
- 425年、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる(宋書倭国伝)
- 応神天皇…記紀では15代。4世紀末から5世紀初頭とされる天皇。父の仲哀天皇没後、母の神功皇后が新羅征討を行い、その帰途九州で生んだとされる。それ以前の皇統とは隔絶した新王朝の創始者としての性格が濃厚。難波に大隅宮(大阪府大阪市)を営み、陵墓が誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)に比定されることから、応神に始まる王朝を河内朝とよぶ説もある。百済と密接な関係を築き、渡来系氏族阿知使主、弓月君、王仁などが渡来した時代ともされる。
- 仁徳天皇…記紀では16代。応神天皇の皇子。5世紀前半頃の在位という。記紀では聖帝として描かれ、大規模開発の伝承がある。陵墓は大阪府堺市にある日本最大である大山古墳(大仙陵古墳)に比定される。
- 履中天皇…記紀では17代。仁徳天皇第一子。5世紀前半頃の在位という。即位前、黒媛をめぐり同母弟の瑞歯別(みずはわけ/後の反正天皇)に同母弟の住吉仲(すみのえのなかつ)皇子を殺させた。陵墓は大阪府堺市の石津丘古墳が比定される。
- 済(允恭天皇)
- 興(安康天皇)
- 武(雄略天皇)
- 471年、「辛亥年七月中」の干支銘をもつ鉄剣(埼玉県稲荷山古墳出土)の銘に「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)とある。熊本県江田船山古墳出土の太刀の銘の「獲□□□鹵大王」も同一人物と考えられている。
- 477年、倭国、宋に朝貢(宋書順帝紀)。武は自ら「使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と称する(宋書倭国伝)。
- 478年、倭国王の武、上表して父祖の功業と父兄の志を述べ、高句麗の無道を糾弾。自ら開府儀同三司と称し、正式の任命を求める。宋の順帝は武を「使持節 都督 倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 倭王」とする(宋書順帝紀、宋書倭国伝)
- 479年、南斉の高帝、王朝樹立にともない、倭王の武を鎮東大将軍に進号(南斉書倭国伝)
- 502年、梁の武帝、王朝樹立にともない、倭王の武を征東将軍に進号する(梁書武帝紀)
2-2.皇統断絶
3.6世紀のヤマト政権
4.唐帝国の対外進出に対する律令国家建設
4-1.ポスト推古~蘇我氏から中大兄(天智)への権力転換期~
4-2.唐の朝鮮半島侵攻開始(644)とその対応
- 皇極天皇(在位642~645)35代
- 孝徳天皇(在位645~654)36代
- 斉明天皇(皇極重祚655~661)37代
- 孝徳天皇死没により皇極が重祚(退位した天皇が再び即位すること)して斉明天皇となる。
- 658年、阿倍比羅夫の蝦夷征討。
- 同年、有間皇子の変…中大兄皇子の策謀で有間皇子が絞殺された事件。有間皇子は孝徳天皇の皇子で、有力な皇位継承候補であったが、反体制派の豪族の拠り所として中大兄に危険視されていた。そのため狂人を装い、牟婁(むろ)温泉に逃れていたが、中大兄の意を受けた蘇我赤兄の訪問を受けた際、現体制への批判を聞かされて叛乱を決意してしまう。そのために捕らえられ、中大兄の訊問を受けたのち、絞殺された。護送中に有間皇子が詠んだ歌や皇子の死を悼んだ後人の歌が「万葉集」におさめられている。
- 660年、唐・新羅、百済を滅ぼす
- 661年、百済遺臣救援のため軍を指揮して九州に赴くが病により筑紫朝倉宮で死没。