鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』(東京大学出版会、2011) 第三章「鈴木貫太郎内閣と対ソ外交」(109-149頁)

  • 第3章の趣旨
    • 米ソの軍事的圧力が、日本をソ連に接近させたという観点から、日本の軍事・外交政策の双方を再検討する。
    • そして、その政策は戦争終結の時期や条件の問題とどのような関係にあり、その中で、昭和天皇はどのような政治的役割を果たしたのかについて扱う。
  • 対ソ終戦外交
    • 「1945年6月22日、昭和天皇の発意により、秘密御前会議が開催された。この会議では出席者の意見が割れ、外相東郷茂徳海相米内光正が対ソ外交交渉の開始を主張し、陸軍の梅津美次郎参謀総長は暗に反対論を述べたが、昭和天皇の強い発言もあり、対ソ外交交渉を開始することが決定した。6月29日、重臣広田弘毅はマリク駐日大使に日ソ関係改善の申し入れを行い、7月13日にはモスクワの佐藤尚武大使が使節派遣をソ連政府に申し入れた。しかしながら、周知のように、8月8日、ソ連は日本に対日宣戦を通告する。」(109-110頁)
  • 第3章で明らかになったこと
    • 鈴木貫太郎内閣期の対ソ外交には、継戦外交と終戦外交の両方の側面があり、対米終戦論と日ソ提携継戦論とが奇妙な形で混じり合っていた。
    • 昭和天皇の態度が大きく転換したのは、沖縄戦の後。
      • 沖縄の陥落によって本土決戦が現実味を帯びると、昭和天皇は、軍上層部や査察使などから戦備の実態を聞き、本土決戦不能論者となった。そして、米軍に本土の一部を占領された後では国体は護持できないと考え、国体の護持を目的として本土決戦を回避しようとした。
    • 戦争の終盤段階では、米ソの軍事的外圧は、陸海軍に軍事が半壊状態にあることを認識させた。
      • 陸海軍は本土上陸の第一波には勝てると考えたが、第二波、第三波には負けると考えた。このように勝利と敗北が並立する見通しは、軍事指導者の行動に二重性をもたらした。対外的には勝利を前提として和を乞う強気な外交を行い、対内的には内心の弱音をかくして強硬論を主張した。

以下本文 抜き書き

  • ソ連への接近を図るが、すでにソ連は2月10日のヤルタ会談で対日参戦の約束をしていた
    • 「陸軍が対米戦争を遂行するためには、ソ連の中立を維持することが絶対不可欠であった。関東軍の精鋭部隊はすでに南方に転用されており、その戦力は前年の半分位であった。そこで、陸軍上層部は、左官クラスをモスクワに伝書使として派遣し、ソ連軍の実情を探ろうとした。〔……〕2月26日、重臣東条英機は、昭和天皇に拝謁した際、「二週間前二西伯利亜経由帰朝セシ者」の観測として「日本弱マリタリト見ルナラバ、一部ノ兵力ヲ持来ル」だろうと語り、ソ連参戦の可能性は五分五分とした、〔……〕この時、日本は知る由もなかったが、スターリンは、すでに2月10日のヤルタ会談において、対日参戦を約束していたのである。」(114-115頁)
  • 陸軍の対ソ接近論1 種村佐孝大佐 
    • 参謀本部の戦争指導班長の種村佐孝大佐(のち軍務課高級課員)は、対ソ戦を回避するためには、ソ連の「言ヒナリ放題」になって条件を大幅に譲歩し、「日清戦争以前ノ態勢」に立ち返ってでも対米英戦争を完遂すべきだと主張していた。種村大佐が起案した「今後ノ対ソ施策二対スル意見」という意見書では、米国は「偽装停戦」した後に「皇室ヲ抹殺」する可能性があると対米不信感を露わにし、むしろ、日ソ提携による戦争完遂をうたっている。」(115頁)
  • 陸軍の対ソ接近論2 松谷誠大佐
    • 「元戦争指導班長の松谷誠大佐(首相秘書官)も「ソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん」、「ソ連は国防・地政学上、われを将来親ソ国家たらしむるを希望しあるならん」という対ソ信頼感を持ち、「戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん」、「米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」と対ソ接近を考えていた。」(115頁)
  • ソ連の対日参戦は予測できていた
    • 「4月5日、ソ連は日本に対し、日ソ中立条約の不延長を通告した。条約はなおも1年間有効であったが、参謀本部は対ソ情報判断を行い、ソ連参戦の時期を夏、秋以降と判断した。6月8日の「世界情勢判断」においても、「其ノ時期ハ敵ノ本土又ハ中北支方面上陸ノ時期、北満ノ作戦的気象条件及東「ソ」兵力集中ノ状況等ヨリ本年夏秋ノ候以降特二警戒ヲ要スベシ」と説明されている。」(119頁)
  • ドイツ降伏後の最高戦争指導会議構成員会議における対ソ外交方針
    • 「5月7日、ドイツ軍は連合国に無条件降伏し、日独伊単独不講和条約が消滅した。政府・大本営は、5月11日、12日、14日の3日間にわたり最高戦争指導会議構成員会議(六巨頭会議)を開催して、善後策を討議した。会議の出席者は首相、外相、陸海軍大臣、両統帥部長の6人に限定され、陸海軍の軍務局長は出席を許されなかった。これは、対ソ外交・軍事上の機密が漏れることをおそれたための措置であった。そしてこの会議では、ソ連参戦の場合には「死命ヲ制セラル」という前提の下に、?ソ連の参戦防止、?ソ連の好意的態度の誘致、?ソ連への和平斡旋の依頼、という3つの項目が検討された。そして、第一項。第二項を目的として対ソ交渉が開始することとなり、第三項は当面の間は留保されることとなった。また、日露戦争以前に近い状態に戻ることを前提とし、南満洲の中立化などが譲歩の限度とされた。さらに、ソ連を説得する際のロジックとして米ソ対立の必然性と日ソ提携の必要性が次のように説かれた。「将来蘇連が米国と抵抗するに至るべき関係上日本に相当の国際的地位を保たしむるの有利なるを説き、且又日蘇支三国団結して英米に当るの必要あるを説示し、もってソ連を前期諸目的に誘導するに努るべきなるも、蘇連が対独戦争終了後その国際的地位向上せるとの自覚並びに近来帝国の国力著しく低下せりとの判断を有し居ること想像に難からざるをもって、その要求大なるを覚悟する必要あり」。また、ソ連を米英から引き離し、日本に接近させる外交尾を行うためには、「土産」を持参する必要があるとも考えられた。5月22日、米内海相は腹心の高木惣吉少将に対して、「元来対ソ問題ヲ考ヘルニハ土産ヲ持ツテ行カネバナラヌ」として、「和平斡旋ノ為二蘇二土産ヲ出シテ、更二戦争終結ノ為二何ヲ犠牲二スルカトイフコトハ、考ヘテ置カネバナラヌ」と研究を命じた。」(120-121頁)
  • 広田・マリク会談
    • 「6月3日、広田は〔……〕マリク大使を訪問し、ソ連側の意向を打診した。翌日、マリクは〔……〕日本が米英に対して直接交渉を試みようとしているかどうかを探ろうとした。他方、広田は、日本側の具体的な和平要求をマリクに提示せずに、ソ連の意向を探ろうとした。日本側がより踏み込んだ発言をしていたならば、マリクは興味を示したかもしれなかった。6月7日、マリクは外務人民委員部への電報の中で「日本側は、最大限の譲歩として、南サハリンをわれわれに返還すること、ソ連の協定水域内の漁業を放棄すること、おそらく千島列島の一部をわれわれに引き渡すことに応ずるかもしれないと考えるのは当然であろう。われわれにとって有利となる何らかの本質的な変更、つまり満洲、朝鮮、関東州、華北における日本の立場の変更に日本側が自発的に応じることを期待するのは難しい。日本が完全に軍事的に敗北し、無条件降伏する結果にならなければ、このようなことは起こりそうにない」と報告している。具体的和平条件を提示しない広田の態度は、マリクには曖昧なものに映った。モスクワはマリクに一般的なことを話すように指示し、日本側に明確な回答を与えない方針をとった。苛立った広田は、6月24日と29日にマリクと会談し、?満洲国の中立化、?漁業権の解消、?「日本側は、ソ連側が検討を希望するその他のすべての問題を検討する用意がある」ことを伝えたが、ここでも具体的条件は提示されなかった。〔……〕この広田・マリク会談が失敗に終わったのは、日本側の和平条件が決まっておらず、日本側から具体的な提案を行わなかったからである。また、軍事的にも若干の時間的余裕があると考えられていた。日本は、本土水際決戦前後のぎりぎりの時期に、なるべく良い条件で戦争を終わらせようとしていたのである。」(121-122頁)
  • 木戸幸一「時局収拾の対策試案」によるソ連交渉の提案
    • 「〔……〕6月8日の御前会議の終了後、昭和天皇から会議の模様を聞いた木戸内大臣は、同日、早期交渉・撤兵を骨子とする「時局収拾の対策試案」を起草した。この木戸試案は、国力の観点から軍は7月以降戦争を継続できず、国民も冬には食糧・衣料の不足に動揺すると説き、「独乙の運命」と同じ轍を踏まないためにも、天皇の「御親書を奉じて」ソ連と交渉すべきであると主張した。」(125頁)
  • 6月22日秘密御前会議における昭和天皇によるソ連交渉の発動
    • 「6月22日、昭和天皇は、天皇自らの発意で最高戦争指導会議の構成員を集めて、「懇談会」(秘密御前会議)を開催した。天皇が自らのイニシアティブで会議を開くことは異例のことであり、〔……〕会議の冒頭、昭和天皇が戦争終結の問題について発言し、米内海相が最高戦争指導会議の申し合わせ事項について説明した。その内容は「第三項[ソ連への和平斡旋依頼]は発動すべし、但し発動するとしても発動迄の順序と方法には至大の注意を払ふの要あるべく、何れにしても之に関するソ側の意向を先以てサウンドせざるべからず」というものであった。ソ連に和平斡旋を依頼することでは原則的に一致していたが、時期や方法については明確に決まっておらず、広田・マリク会談によってソ連の意向を探っている段階であったのである」
  • 昭和天皇によるモスクワへの特使派遣提案
    • 昭和天皇は7月上旬になっても対ソ外交に進展がないのに不満を持ち、7月7日、モスクワへの特使派遣を提案して政府を督促した。さらには、特使派遣が決定すると、7月12日、近衛文麿を呼んで特使を引き受けるよう依頼した。この時、昭和天皇近衛文麿との間で、和平の条件や方法について何らかの話し合いが行われたものと考えられる。近衛の戦後の手記によれば、「ソ連へ対しては何らの条件をも提示せずモスコーで話合の上そこできめた条件をもつて陛下の勅裁を仰ぎ、これを決定することとし、このことを特に陛下から御許を得た次第であった」という。近衛は無条件降伏に近い条件で条約を締結し、昭和天皇の「聖断」によって、モスクワから日本国内の反対論を封じ込めようとしていたのだろう。だが、特使派遣は実現することはなかった。スターリンポツダム会談への参加を理由に、回答を引き延ばしたからである。」(130頁)
  • モスクワ大使佐藤尚武による特使の受け入れ申し入れ
    • 「7月13日、モスクワの佐藤尚武大使は、ソ連側に対し、「天皇陛下の於かせられては今次戦争が交戦各国を通じ国民の惨禍と犠牲を日々増大せしめつつあるを御心痛あらせられ戦争が速かに終結せられんことを念願せられ居る次第なるが大東亜戦争に於て米英が無条件降伏を固執する限り帝国は祖国の名誉と生存の為一切を挙げ戦い抜く外無く、之が為彼我交戦国民の流血を大ならしむるは誠に不本意にして人類の幸福の為成るべく速かに平和の克服せられんことを希望せらる」という天皇の親書を手渡し、特使の受け入れを申し入れた。当初、佐藤大使はモロトフ外相に面会を求めたが、モロトフポツダムに出発直前を理由に面会せず、外務人民委員代理のロゾフスキーが代わりに対応した。そして、7月18日、ロゾフスキー代理は、日本側の特使派遣の提案が「一般形式を有し何等具体的提議を包含し居らざる」として、明確な回答を避けた。」(133頁)