遠山茂樹『明治維新』(岩波文庫、2018年) 第四章「天皇制統一政権の成立」(225-312頁)

  • 概要
    • 王政復古の大号令の思想は公議政体論と共通するため、慶喜の新政府への参加の是非が問われたが、薩長は強行的に旧幕府との戦争を引き起こした。故に新政府は批判を受けたため、自己の権力を正当化するため五箇条の御誓文や政体書を出した。だが、それらは過渡期的措置であり、公議輿論政治は終焉を迎え、絶対主義化が進められていった。戊辰戦争の論功行賞で権力を得た新政府指導者層は、版籍奉還に続き、藩主を無視して廃藩置県を強行した。これは王政復古に続く第二のクーデターといえる。明治5年以降に行われる開明的政策も絶対主義を貫徹するものであった。地租改正も徴兵制も学制も文明開化も殖産興業も絶対主義権力によるものであった。
  • 【章立て】第四章「天皇制統一政権の成立」
    • 第一節 五箇条の誓文・政体書
    • 第二節 版籍奉還廃藩置県
    • 第三節 地租改正・徴兵令
    • 第四節 学生頒布・文明開化・殖産興業

第一節 五箇条の誓文・政体書

  • 王政復古の大号令(225頁)
    • 慶應3年12月9日(1868年1月3日)発布された王政復古の大号令の内容は、(一)徳川慶喜の大政返上および将軍職辞退の許容、(二)摂政・関白および幕府の廃絶とそれに代わる総裁・議定・参与の三職の設置、(三)施政の根本方針を「諸事神武創業の始に原づき、搢紳・武弁・堂上・地下の別なく、至当の公議を竭し、天下と休戚を同可被遊」においたこと、以上の諸点であった。」
  • 武力討幕派の強行(226頁)
    • 「この大号令にあらわれた政治思想は、むしろ大政奉還運動の公議政体論と共通するものであった。それだけにこの後の政争−薩摩の指導する武力倒幕派と、土藩の指導する公議政体派との争いは、この新政権に、慶喜を参加せしめるか否かの問題に集中した。武力討幕派は、薩長の武力の優位を背景に、強引に徳川氏の領土の大幅の削減を要求し、この目的を達成するために、旧幕府側の反抗を誘発し、ついに鳥羽・伏見の戦から、戊辰戦役にまで追い込んだ。」
  • 武力討幕派への批判(226-227頁)
    • 「武力倒幕派のかかる強行な行動は、必然的に封建支配者間の摩擦を激しくした。薩長は幼天子を擁して私心を図るものである、その奉戴する叡慮は真正の叡慮ではないとの意見は、佐幕派のみならず、中立派諸藩にも広汎に信ぜられた。〔……〕幕府倒壊前後には、草莽不逞の徒は、陽に尊王を唱えるが、その実将軍の廃止を越えて、天皇の廃止に及ぶ危険があると幕府側からしきりに喧伝された。その真偽はともかく、これが政敵の攻撃材料とされたことは、少なくとも、かかる流説を受け入れる一般の社会的雰囲気が存在していたからである。〔……〕王政復古のクーデターをあえておこなった倒幕派は、それを完全に打ち消すだけの名分を持ちえなかったのである。」
  • 武力討幕派の自己正当化(227頁)
    • 「〔……〕武力倒幕派は自派の基礎を固めるために、三つの方法をとった。第一は五藩連合政権を形の上で一応全国的な連合政権に拡げることであった。明治元年正月の三職七科の制施行、同年閏四月の政体書発布に伴う官制改革の主要な狙いの一はそこにあった。第二は公議輿論の尊重を標榜することによって、叡慮の「公明正大」を主張することであった。そして第三は、王政復古の大号令にも言及しているごとく、「民は王者の大宝」人民の困苦を救わんとの仁政主義をもって、人民へのアッピールを行い、形式的にもせよ、民心をえた政権たらしめるにあった。〔……〕それは、天皇制が幕府制と争い、薩長が諸藩の離反を喰い止めながら、天皇制絶対主義をこの世に送り出す陣痛期の麻痺剤であったにすぎず、かの啓蒙専制主義以前のものであった。〔……〕天皇制権威の樹立と共に、消え去るものであった。」
  • 五箇条の御誓文(228-229頁)
    • 明治元年3月14日の五箇条の誓文は〔……〕超時代的な抽象理念を提示したものではなく、明治元年3月14日の特殊時点において具体的かつ現実的な効果を求めて作成されたものであった。〔……〕新政の基本綱領は、内に公議輿論、外に開国和親にある旨を明らかにした五箇条の国是を遵守を、天皇・公卿・諸侯が宣誓することとした。諸侯中にはなお徳川氏の恩義を思って、去就を明らかにせぬもの少なからず、この時に当って、慶喜追討の協力体制を作りあげることが、五箇条の誓文に課せられた任務であった。」
  • 政体書(231頁)
    • 「この誓文の方針を官制に具体化したのが、閏四月発布された政体書であった。すなわち中央政府たる太政官は、議定・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の七官より成り、議定官は立法権を、行政以下五官は行政権を、刑法官は司法権を分掌するとされた。〔……〕政体書に表現された政権の形態は、列藩同盟的政権であり、それは純粋封建制から絶対主義制へ急速に移行する過渡期的政権であり、封建諸勢力(公家と武家武家内部の各藩および藩主階級と下士階級)の対立均衡の時点に成立したものであって、三権分立、議会制度、官吏公選の外来知識は対立の緩和と権力の統一、そして天皇制官僚の創出に巧みに役立たしめられたのであった。」
  • 公議輿論政治の終焉(232頁)
    • 「このすぐれて過渡期的な公議輿論政治は、9月の奥羽・北越の平定、翌年5月の旧幕軍最後の拠点たる箱館の陥落を経て、その翌月の版籍奉還を生み落とすことで、その生命を終った。すでに政体書発布から五箇月後、奥羽鎮定の月には、議定官を廃止して、これを行政官に吸収してしまった。「私論」を排する「公議」の支援によって、ようやく育成された絶対主義権力は、古い封建諸勢力にわずらわされることなく、独断専行する自信を次第に固めうる段階に立っていたからである。」

第二節 版籍奉還廃藩置県

  • 新政府の指導分子の権力確立(233頁)
    • 戊辰戦争終結は、あらゆる意味で明治政権の最初の転換期となった。戦後の論功行賞では、昨日まで一介の藩士として、藩主の威光を楯にすることによって活躍することができた新政府の指導分子(西郷・大久保・木戸ら)は、今日は主君と肩を並べる位階の朝臣たる身分を誇ることができた。もはや彼らは、必ずしも藩力を頼むことなく、藩主・藩士の意向にこだわることなく、自由に「天下後世に対し皇国を憶の至忠」を、「皇国御維持、海外までも御国威相輝」すべき「御一新の大御主意」(すなわち絶対主義の立場)を語ることができるようになった。」
  • 明治政権の危機(234頁)
    • 「〔……〕かつて倒幕を実現した下級武士階級のエネルギーを、この場になって、いかに統制するか、これが政府首脳部の苦悩の核心となっていた。〔……〕かかる明治政権の政治的危機のもっとも根本的な原因は、いうまでもなく、明治元年以来、再びもりあがってきた農民一揆であった〔……〕明治政権は、この政治的危機突破の途を、ひたすらに権力の統一、いうところの朝権の確立に追い求めた。明治元年末以来、政府の中心に、公議輿論政治の無力を嘆じ、独断専行の必要を説く空気がようやく濃くなってきた。そして諸藩連合政権の外装を脱ぎ捨てようとする意図が、次第に現れてきた。」
  • 版籍奉還(236頁)
    • 「諸侯をして、封土・人民を朝廷に返上せしめようとする版籍奉還の議は、大久保利通木戸孝允板垣退助らの薩・長・土三藩出身の官僚の協議で決せられ、後にこれに佐賀藩(肥前)が加わって、明治2(1869)年正月四藩主の奉還建白書となった。この場合注意さるべきは、再び幕末の雄藩連合(といっても、少数の代表者の提携であったのだが)の藩閥感情が復活したこと、および奉還の理論づけとして、王土王民的名分論が強く強調されたことであった。かくて四藩に先頭を切られると、ほとんどすべての藩主が先を争って奉還を建白した。その心理は、いかにしても新事態に自藩の脱落を防ぎたいという焦燥の競合であった。」
  • 藩閥化(238頁)
    • 「〔……〕中央政府の改革も行われ、その専制化、神権化が進行し、反動的色彩が表面に出てきた。〔……〕2年(明治2年−引用者)七月の官制改革では政体書のごとき外来的影響を払拭し、大宝令以降の古来の官名を踏襲することとなり、祭政一致の形式をとって、神祇官太政官の上位に置き、従来の太政官が行政官以下七官の総称にすぎなかったのを実質あらしめて、ここに左右大臣・大納言・参議を置いて、政府中枢部を構成せしめた。そして太政官、各省の首脳部がほとんど公卿と薩・長・土・肥出身者をもって独占されたことは、特に注意に値することであった。」
  • 廃藩置県における藩主の無視(239-240頁)
    • 版籍奉還から廃藩置県へ、それは統一的国家権力形成の目標の上での一歩前進であったごとく、その推進勢力の上でも前進が見られた。版籍奉還は、薩・長・土・肥四藩の代表的藩士の協議協定にもとづくとはいえ、一応四藩主の同意をえて、その上表の形式をとった。ところが廃藩置県では、藩主の意志ははるかに無視されていた。」
  • 廃藩置県 第二のクーデター(240-241頁)
    • 「明治4(1871)年2月薩長土三藩の兵を徴して、御親兵一万の兵力を東京に集中、なかんずくその中核をなした薩兵の指導者西郷と、木戸とを参議に立て、大久保は退いて行政の実権を大蔵卿として掌握、この下に着々準備を進め、ついに、政府大官の大交迭を断行した。すなわち板垣退助大隈重信を参議に挙げて、ここに薩長土肥藩閥勢力の均衡を計り、右大臣三条、外務卿岩倉以外は、公卿・諸侯をことごとく要路から去らしめた。この政府の「根軸」の確定成った7月14日、天皇は在京の諸知藩事(旧藩主)を招集して、「汝群臣其れ朕が意を体せよ」と強圧的に廃藩置県を令したのであった。これはまさに第二の王政復古クーデターであった。」

第三節 地租改正・徴兵令

  • 開明的政策もブルジョワ政権化ではなく絶対主義の貫徹(244頁)
    • 「明治5年以降、地租改正令・徴兵令・学制の発布を中核に、矢継ぎ早に遂行される、いわゆる開明的諸政策の本質は、いかなる意味でも絶対主義のブルジョワ政権化を表現するものではなく、専制権力のあらわな圧力の下に強行される、絶対主義の貫徹以外の何物でもなかった。」
  • 地租改正の本質をめぐる命題(244頁)
    • 「地租改正の本質はいかん、封建的貢租の統一的規模での継承を実現したにすぎぬと見るべきか、それとも地租の重さになお封建的性格を濃厚に残しながらも、本質的には近代的租税化したものと考えるべきであるか」
  • 封建的収奪の手段としての地券発行(245-246頁)
    • 「〔……〕幕末以来の商品経済の発展、農民層の分解の進行は、封建的貢租徴収の基礎条件を破壊しており、特に藩権力による直接的な人民統制が失われて後は、封建的収奪の単純な継承は不可能であった。〔……〕財政の安定には定免制の確立は必須であり、それを実現するためには検地の実施は不可避の前提条件であった。〔……〕そこに集議院判官神田孝平・大蔵卿大久保利通・大蔵大輔井上馨らの地券税法提唱の意味があった。すなわち土地売買を公認して、地価によって税額を決定し、地券を交附して、土地所有権=地租納入義務者を確認することによって、税額算定の不平均を正し、かつ隠田を摘出するという検地の実効を、検地を行うことなくして収めようとするにあった。」
  • 地租改正の本質は封建(248-249頁)
    • 「地租改正の本質が封建的なる理由は、単に負担の軽重の量の問題ではない。それを実現せしめた力が、天皇制の経済外強制であり、地租改正の全過程の核心にこれが貫通していたからである。しかも農民にとっては、地租納付の義務は、次に述べる徴兵服務の義務と相俟って、絶対主義的抑圧として作用したのであった。」
  • 絶対主義へ忠誠献身を誓う兵たることによって、絶対主義から許容される「自由平等」(248-249頁)
    • 「「上下を平均し、人権を斉一にする道」こそ、兵農合一、国民皆兵の基であるとする、この徴兵制の宣言は、諸藩割拠の根源をなす封建武士団武力の粉砕のための最後の一撃にまっしぐらに突き進んだ、絶対主義権力の昂揚した改革精神の所産であった。それと共に絶対主義の支柱たる軍隊の創出の故に、人民の自由平等を安んじて語ることができたのでもあった。それはあたかも天皇制官僚を生み出すために、封建的身分制を一応否定して、「四民平等」の、華族・士族・平民の新しい身分制を作り上げたのと相応ずるものであった。「此の兵あり、然後、民初て自由に業を営むべし。(中略)人々自由を欲る上は、兵役は人々勉めざるべからず」−絶対主義へ忠誠献身を誓う兵たることによって、絶対主義から許容される「自由平等」、それが徴兵制を支える思想的基盤であった。」
  • 家父長制と徴兵制(250-251頁)
    • 「家父長制こそ、天皇制の社会的・思想的基盤であった。すでに江戸時代後期、商品経済の発展によって、農村にあっては、多数の傍系血族を含む封建的大家族形態は分解しつつあった。この分解を法によって阻止しようとするところに、4年4月の戸籍法発布および兵役法の戸主免疫の意義があった。〔……〕法の権威を背景とする戸主権の確立・擁護は、農村にあっては、本家・分家関係の保持、地主制度の擁護の役割を果たし、封建的な親族家族関係、社会関係の存続を支える力となった。〔……〕戸主にたいする隷属的地位を規定された「余夫」のみが負担する兵役は、地租が家に課せられた封建的貢租(生産物地代)的性格を持っていたことに対応し、それは同様家に課せられた封建的賦役労働(労働地代)的性格を持つものとして、両者が互いに補足し合いながら、農民にたいする絶対主義的強制として作用したのであった。」
  • 【徴兵制】明治新政府は絶対主義国家であって国民国家ではない(252頁)
    • 天皇制軍隊が表面四民平等・国民皆兵を建前としたことは、絶対主義が国民的基礎をもっていた証拠であると考えることはできない。〔……〕少なくとも、規則の上では、当初から身分にこだわらぬ実力試験に開放されていたことも、より広き地盤からの幹部の抜擢、そしてその「長上」への「事大小となく」「不条理なりと思ふ事も」絶対服従することを強制する天皇制軍隊秩序の自由な創出のための、ひとまずの幕藩階層制からの平等の実現であったのである。」

第四節 学生頒布・文明開化・殖産興業

  • 学制(253、254頁)
    • 「政府があえて「実用の学」の必要を強調した理由は、国家の富強が、一般人民の才芸の進長にもとづくを意識していたからであった。しかも庶政改革の政府布告文を理解できず、いたずらに疑惑恐怖する人民の「頑愚無智」をなくすことは、新政の遂行の上にも必要不可欠であり、人民の保護者をもって任ずる当局者にふさわしい仕事であった。」
    • 「その山地僻地にまで普及した目覚ましさは、当局の「頗る強圧手段を用いた」強制と、「政府の命令といえば、一も是に抵抗する者なく、皆慎んで命を奉」じた人民の盲従との、専制主義的支配・被支配関係によって支えられていた。新しい学制の意義は、旧藩以来の学校を一切廃絶せしめ、私塾もすべて国家の認可を要すと規定した、教育の国家統制の確立にあった。かくて一にして二なき国家権力の下に完全に従属せしめられたからこそ、政府は安んじて教育を政教一致、仁義忠孝の絆から解き放って、「身を立てる」「実用の学」たらしめることができた。」
  • 文明開化(256,257頁)
    • 「〔……〕文明開化の勝利は、結局絶対主義権力の勝利であった。お上の手による欧米文化の移植が、人民の貧しい現実生活とかけ離れたものであればある程、それはお上の権威の誇示として人民には受け取られたのであった。」
    • 「〔……〕最も節操ある在野的立場を堅持し、それだけに封建への批判が徹底していた福沢にあっても、彼の本質は近代市民革命的なものではなく、やはりあくまでも啓蒙専制主義的なものであった。ただ欧米思想をすぐれて主体的に取り入れ、原理原則ある体系思想たらしめ、かく思想を日本の現実の諸条件に密着した生きた思想たらしめることによって、明治国家の前進を内側から能動的に支える国民的(庶民的)精神を創り出したところに、その独自の意義があった。福沢をしてこの限界にとどまらしめたものは、人民の革命的な力を結集する近代市民階級の欠如であった。」
  • 殖産興業(259、261頁)
    • 「封建的制限=幕藩的統制の撤廃が、必ずしも直ちに資本主義的発展の途を招くに至らず、否むしろ幕藩的統制・保護に代わる、新たなる統制・保護を必要としたのであった。このような情況の下にあって、政府は大規模機械工業を移植するためには、民間企業を保護育成すると共に、直接官営企業を経営するに主力を置いた。3年閏10月の工部省の設置、その下での鉄道・電信・電話の敷設、各種模範工場の設営、鉱山の官行など、軍事工業に重点を置く、富国策が強力に推し進められた。」
    • 「〔……〕三都両替商資本は、幕府から朝廷へ馬を乗り換えることによって、いよいよ巨大となった。在野の中小資本のマニュファクチュア生産にたいする、国営ないし政府の保護を独占する大資本の機械工場生産。共に前期的資本の主導する近代的転化でありながら、国家権力の保護をめぐる日本的に矮小化した形で、上からと「下」からの対抗が十年代の原始的蓄積過程に争われる端を開きつつあった。」