雑録

遠山茂樹『明治維新』(2018年、岩波文庫) 雑考

戦後歴史学階級闘争史観・明治維新は単なる封建勢力内の権力移動という論調の明治維新
この1冊だけ講読するのではなく、近年の新書などではどのように明治維新が描かれているかとかの対比をすればよかったかもしれない。
大衆向け新書⇒講談社現代新書(板野・大野)岩波(藤田)岩波新書(井上)

第一章「天保期の意義」

  • 幕府の農民支配
    • 幕府の農民支配に関し、個別自身支配はできようもなかったが、寺社などの中間団体を通して間接的な支配(檀家制度など)をしていたと認識している(世界史的に言えば近世ヨーロッパの社団国家)。江戸時代の民衆支配は本当に民草程度の放任的な扱いだったのか?
    • 民草扱いに関して。現代日本の議会制度も見せかけ上、国民の同意を得ている風に思わせているだけで、実質的には政治指導者層は同じ出身層の母胎の内部の移動であり、大多数の国民など民草程度の扱いである気がする。
  • 民衆の成長とその一方での無力さ
    • 「要するに、下層武士層が、封建支配者内部の絶対主義改革派に成長してゆく過程が、幕末政治史の主流をなした」とある通り、結局のところ封建支配者層内部での権力者のスライドであり社会体制の変革というわけではない。このことを考えた時、民衆の役割が余りにも無力ではないか。主体的な活動が評価できる点はないのか。

第二章「尊王攘夷運動の展開」

  • 同治中興の失敗の要因について
    • 著者は、明治維新と同治中興を比較し、その差異性は民衆のブルジョワ的発展に求めている。しかし、世界史的には同治中興の失敗は、中体西用の思想もとで社会体制は変革せず技術導入などの表面的な近代化に終ったからだと説明される。また洋務運動の担い手は太平天国の乱の鎮圧に貢献した郷勇出身の李鴻章らであり、実質的に日清戦争は北洋軍閥率いる李鴻章国民国家としての明治政府の戦いであった。故に、民衆のブルジョワ的発展のみに求められないのではないか。
  • 反幕府のイデオロギーとしての尊攘思想
    • 要するに尊王攘夷思想は、幕府の政争において反幕府派のイデオロギーとして利用されただけ。そう考えると、この時期、幕府を批判するための思想は尊王攘夷思想以外にはなかったのか?

第三章「幕府の倒壊」

  • 歴史の中の個人の役割
    • 本文139頁に、「〔……〕個人の才能・識見・人格の生長が、それだけで政治闘争の飛躍的発展をもたらす原動力とはなりえない。逆に一定の政治家的資質は、特定の歴史的な政治闘争の形態に規定され、育まれるものである。」と述べられている。唯物史観である以上、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」という立場なのであろうが、そうすると余りにも個人の役割が軽視されているのではないか。
  • 農兵隊そのものの歴史的意義
    • 結局農兵といっても豪農・豪商層であり、耕作農民の革命的エネルギーを組織したものではない。141頁に「彼ら指導部(下級武士改革派−引用者)の強さは、特に藩内戦において、そのいわゆる「正義」の貫徹のために、あえて藩主を擁する藩庁軍に銃火を浴びせた、その封建道徳的名分論を踏み越える実践力を豪農・豪商層の支持激励の中から学び取った点にあった。」とあるが、これは下級武士改革派の立ち位置の評価。農兵そのものの歴史的意義はどのようなものがあるか。
  • 農民的農業革命に至らなかった原因
    • 156頁において「民衆の反抗も、なお組織統一されることなく、自らの意志を代表する革命的政治勢力を結集せしめるまでには至っていないが、しかもそれは明らかに農民的農業革命を指向する農民戦争段階の前夜にまで到達しており、幕府の倒壊に決定的な一打を与えた客観的役割の意義は、充分評価されなければならない。」とあるが、農民的農業革命にはいたらなかった。なぜ革命にいたらなかったのか。革命に至るには何が必要であったのか。(163頁の説明においては「不幸にも彼らは自ら政治運動をなす能力なく、自らの意志を志士の行動によって代表される術も求めえなかった」、「一揆・うちこわしの闘争を政治闘争にまで結集する意識と手段とを持たず、いいかえれば小ブルジョアの指導をはっきりとつかむことのできなかった」とある。)
  • 権力の簒奪 諸藩が新政府側についた理由
    • 明治維新が封建勢力内部の政権の移動にしかすぎず、慶応の改革による幕府の絶対主義化をみて焦った倒幕派が強行的にクーデターを行った。明治維新は単なる権力の簒奪。そう考えると、明治新政府側に多くの藩がついたのは何故か。鳥羽伏見の戦い慶喜が兵を見捨てたから?

第四章「天皇制統一政権の成立」

  • 慶喜政権は絶対主義化できたか
    • 王政復古はクーデターであり、薩長は幼天子を掲げて私心を図るものとの風潮が広汎に持たれたため、それを正当化するために五箇条の御誓文や政体書を出し、敵(佐幕派)を倒した後、絶対主義化した。一方、慶喜慶應の改革で近代化を図っており、慶喜政権が絶対主義化することはできなかったのか。(イギリスが薩長についた時点で無理?)
  • 大久保や西郷に権力を奪われた公卿や諸侯たちは不満を持たなかったのか?
    • 廃藩置県は第二のクーデターであり、右大臣三条・外務卿岩倉以外の公卿・諸侯はことごとく権力を奪取されたが、論功行賞以前は藩主の威光を楯に行動していた大久保・西郷・木戸らに出し抜かれても、不満や反発は起きなかったのか?
  • 公教育 国家・社会に対する盲従・隷属 近代的自我の芽生え
    • 教育は諸刃の剣であり、国家に有用な人材を育てる一方で国家に盲従・隷属しない知識階級を形成させることになるはずである。欧米列強の植民地教育では植民地の中下級官吏を育成するため原住民を教育したが民族意識を昂揚させる母胎をも作っていることになった。
    • だがしかし、現代日本を見ても、教育により政治参加の主体、国家の形成者、主権者としての意識を持っている大衆は稀である。日本の場合、教育がそのまま国家に盲従・隷属させるための装置となってしまっている。初等教育で盲従・隷属させたままでも、中等教育や高等教育を受ければ近代的自我が芽生えようものである。なぜ日本では中等教育や高等教育の門戸が広がっても国家・社会に対する隷属意識はそのままなのか。

第五章「明治維新の終幕」

  • 天皇親政・万世一系・神国思想のイメージはどのようにして形成されたのか?
    • 明治維新において支配の正統性を神武天皇以来の万世一系思想の伝統に求めたけれども、その実質は大久保独裁ないしは藩閥政府であった。しかし明治国家に対するイメージとして、天皇親政の神の国というものがある。こうしたイメージはどのようにして形成されたのか?
  • 現代日本における国民の政治参加者としての意識
    • 世界史
      • 世界史的な理解だと、絶対主義国家は主権国家の確立。それまでの国家というものは非常に曖昧なものであり、明確な領域で囲い込まれているという国境の意識は薄かった。国王の直轄地の他に国内には諸侯が支配する領地が存在していたし諸侯は双務的契約関係により国王以外とも契約を結んでいた。さらに王権の上位概念としては教皇権や皇帝権があり外部からの干渉も受けた。そのような状況に対し、次第に王権が伸長していき、明確な国境で囲い込まれた領域内において諸侯よりも上位の至高の存在となり、対外的には内政干渉を防ぎ、最終的に国王が国家の政治を決定するようになった。こうして主権国家が確立したが、今度は、誰が主権を握るかで支配の正統性が問われることとなる。国王主権の下で、市民(ブルジョワ民主主義勢力)が成長していくと、市民革命が発生し、国民主権の議会政治と移行する。
    • 日本史
      • 遠山氏の主張だと、西南戦争後にブルジョワ民主主義勢力が登場し、それゆえ絶対主義勢力が法的な防壁とするために大日本帝国憲法を制定したとある。日本では市民革命が起こらず、政府の譲歩により臣民の選挙権が拡大されていった。つまり広汎な大衆に政治参加者としての意識が広まったとは言い難い。現代日本の国民においても政治参加者の主体としての意識を持っているとは言い難い。それを考えると、現代の日本でもブルジョワ民主主義勢力は育たず、依然として特権階層による政治状況なのではないか。