遠山茂樹『明治維新』(岩波文庫、2018年) 第五章「明治維新の終幕」(313-334頁)

明治維新を、天保12(1841)年の幕政改革から明治10(1877)年の西南の役の期間における、絶対主義形成過程と捉える歴史叙述。

  • 概要
    • 倒幕派の背景には尊攘思想があったので、明治新政府は対外膨張を孕んでいた。征韓論は、対外膨張VS国内統治の対立ではなく、権力闘争であり、結果として大久保独裁が成立した。不平士族・農民一揆自由民権運動藩閥絶対主義政府と対決したが、西南の役により倒幕派は終焉を迎えた。西南の役後、インフレにより農民は成長し、小ブルジョワ化した士族・退職官吏・教員や都市商工業者とも結びつき、参政権を要求するようになった。ここへきてブルジョワ民主主義勢力がはじめて絶対主義の敵ととして現れたのであった。こうして絶対主義勢力は、大日本国憲法という法の防壁により、自己の正当化をはかることとなった。

以下本文より

  • 攘夷意識と対外膨張(313頁)
    • 「やむをえぬ開国の裏には、攘夷意識が、富国強兵思想、朝鮮・中国侵略策と姿を変えて持ち続けられた。わが国経済力の弱さを自覚するが故に、貿易の利を収めるためにも、強大な軍事力の援助を必要とし、その軍事力を創出するためには、「欧州強国普通の比例に則」り、歳入の三分の一を充当せねばならず、それは貧弱な財政の耐ええぬところ、殖産興業もまたそれに災いされて思うに任せず、かくて思いはいよいよ東亜経略の「壮志」にこめられた。文明開化政策による上からの近代化遂行の成果を、あくまでも絶対主義の側で確保しようとするならば、勢い富国強兵思想、ないし国体観念・尚武思想を鼓吹せざるをえず、それはまた対外危機の煽動へと赴かせる力となった。」
  • 征韓論と大久保独裁の成立(314頁)
    • 「征韓の必要を認める点では、大久保も西郷も、木戸も板垣も、岩倉も江藤も全く意見を同じくしていた。ただいずれの側が、征韓断行を唱え、いずれの側がその尚早を論ずるかは、彼らの内部の派閥争いの経過が偶然に決したにすぎない。〔……〕岩倉=大久保政権が、その反対派に征韓の功を収められるのを阻止したというのが、征韓論紛議の真相であった。諸藩連合政権から、薩長土肥出身官僚の連合政権へ、さらに岩倉=大久保政権、その実、大久保の独裁へ、絶対主義の確立は、かく政権構成者の単独化へ進んでゆく、その最後の仕上げの摩擦が、この事件であった。」
  • 民衆の意識の成長(318頁)
    • 「〔……〕板垣らの民選議院設立建白書は、政界に大きな波紋を生じた。その賛否をめぐる論議は、国民の政治的関心を強く刺戟し、各地に自由民権を主張する政社が生れた。〔……〕一旦口外された「自由」の思想は、一旦輸入された西欧近代思想は、やはり独立した思想として、己れの本質を貫徹し、国民の思想を近代に開眼せずにはやまなかった。」
  • 大久保独裁(319-320頁)
    • 「〔……〕難局に直面して、大久保政権の打った最初の石は、7年4月の征台の役であった。内治の急務を説いて征韓に反対した舌の根かわかぬ半年後には、〔……〕台湾に出した。〔……〕征韓の挙と全く同質のもの〔……〕大久保は自ら渡清して、対清交渉に当り、償金50万両をえ、12月ようやく局を結び出征軍の撤兵を完了するや、彼は息をつかせず、翌8年2月大阪会議を開催、木戸・板垣・井上馨伊藤博文と相会し、立憲政体への漸進主義をとることに妥協を成立させ、木戸(先に征台に反対し下野)・板垣を参議に列せしめて政府を強化し、ついで4月、元老・大審二院を設置して、漸次立憲の政体を立つべしとの詔勅を発した。これは明らかに自由民権運動の攻勢をそらす糊塗策であり、詔勅は、立憲制への漸進を宣言しつつも、その後に続けて、「進むに軽く、為すに級なること莫く」と急進主義に釘を指していた。〔……〕実体は依然として、天皇の万機親裁の大権の蔭に、廟堂専制、実は大久保の独裁は継続された。」
  • 明治9年春〜明治10年初めにかけての情況(324頁)
    • 「〔……〕反政府勢力は、右は不平士族の反動的暴動、左は農民的農業革命を未だ充分自覚せぬままに本能的に目指す農民一揆、この中間に、士族暴動にも農民騒擾にもある程度関連を持ちつつ、しかもそのいずれからも独立する自由民権運動、この三勢力の、なおルーズではあったが、連合戦線として結成され、これが廃藩置県成就の余勢をかって確立を急ぐ藩閥絶対主義政府と、がっしと四つに組み、まさに勝敗の予断の許さざる緊迫に立ち至ったのが、9年の暮れから10年初めにかけての情況であった。」
  • 倒幕派の終焉(327-328頁)
    • 西南の役終結は、明治維新の主体勢力であった倒幕派の政治的生命が終末したことを意味した。この時までの政治過程を貫く法則は、幕末政治史の延長であった。士族暴動はいわずもがな、自由民権運動さえもが、闘争の白熱下に、近代市民革命への光閃をひらめかせながら、その実体は、倒幕派の社会的基礎、政治意識、その解体過程の上に立つとはいえ、なおそれを本質的に超えるものではなかった。」
  • 自由民権運動の再出発(328頁)
    • 「〔……〕立志社は再出発を行った。〔……〕ブルジョワ的要求をはっきりつかんだ愛国者再興趣意書を掲げて、全国に向かって遊説員を派遣したのは、11(1878)年4月であり、ついに13年4月〔……〕国会期成同盟の「国会を開設する允許を上願するの書」を提出、ついに翌14年の政変を惹き起すまでに昂揚した自由民権運動は、明らかに前代のそれとは異質のものであった。」
  • ようやく!ブルジョワ民主主義勢力が発生!!(328-329頁)
    • 西南の役から13年に至る、インフレーションが米価の騰貴をもたらし、地主層のみならず、中農層の上向を促した。かくてこの中農層の擡頭を中核に、地主・貧農層を含めて全農民層の協同戦線が、地租軽減のスローガンの下に結成され、これに、より小ブルジョワ化した士族・退職官吏・教員、また都市商工業者、すなわち全人民層の参政要求の運動がもりあがったのである。ここに始めて絶対主義政権は、己の真の敵を発見した。それは日本的な歪みを少なからずもったとはいえ、またいくばくもなく分裂解体を余儀なくされる弱味を内部に包含していたとはいえ、ブルジョワ民主主義勢力であった。」
  • 絶対主義VSブルジョワ民主主義(329頁)
    • 「この後の絶対主義は、すでに形成途上のものではなく、この敵対勢力(ブルジョワ民主主義勢力−引用者)に対抗し、これを圧迫しつつ、己れを保持してゆく過程である。明治22(1889)年の大日本帝国憲法発布は、立憲制によって絶対主義を粉飾したものにほかならないが、法の防壁によって己れを守らなければならなかったのは、近代的革命勢力の攻勢の洗礼を受けたからであった。」