【駄ぽえむ】目的が手段になり、手段が目的になるという話【散漫な文章】 → 群馬県館林市民が南極にいくやつを見て

ある目的・目標があるとする。その目的・目標は達成困難である。
人間は、無意味な生に耐えられない。
故に人生を生きるために、何らかの目的・目標を設定する。

ただ漫然と時間を浪費するより目的のために努力をしている方が有意義に感じられるからだ。


しかし、その目的・目標には、なんら必然性はない。


その目的が、個人のエゴを叶えるための手段と化してしまっている。
登場人物たちに共通するエゴは、過去への個人的な復讐。
あくまでも「個人的な過去の呪縛」から解き放たれること。
目的達成はあくまでもその手段と化してしまっているのだ。

日常生活で設定できる目的・目標にはどうしても制限がある。
だからこそ、お話の中でしか到底達成できない目標を設定させたのかもしれない。

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確かに、過去を乗り越えた登場人物たちは幸せになったのであろう。

新しい事をして失敗するのを恐れてしまうことを克服したのかもしれない。
無理だと決めつけていた周囲の人間を見返すことができたのかもしれない。
部員仲間の裏切りにあい高校を退学した過去と決別できたのかもしれない。
人間関係作りが下手で友達がいない中、友情を確信できたのかもしれない。

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しかし、過去の呪縛から解放されるのに、その目的・目標である必然性はなかったかもしれない。
別に「他のこと」を通してでも、過去の呪縛から解き放たれたのかもしれない。


登場人物たちが本当に自分たちの力だけで、目的を達成しえたのなら感動はあったのかもしれない。
けれどもフィクションのシナリオのご都合主義いってしまえばそれまでだが「棚ぼた」的要素が強い。
確かに努力はしていたのかもしれないが。
(努力という手段をすることが目的になってしまうことも考えさせられた)


登場人物たちが目的を達成した時に、視聴者が見せられたものは何か。
それは、本当に大切なのは目的を達成することではなかったということ。
目的を達成するための過程で得た仲間たちだったんだよ!!と友情エンドを迎える。


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けど、そうすると、なんでその目的じゃなきゃダメだったんだ?という必然性を考えてしまう。