ロスト・エコーズ「共通√〜神代琥珀シナリオ」の感想・レビュー

戦国時代の九州地方の話。
時間軸としては、大友が島津に攻められ秀吉の九州征伐の時間稼ぎをしているところあたり。
過去にタイムリープしてメインヒロインの前世:立花裎千代の悲劇を解消し救済することが目的。
700の手勢で島津軍3万を釘付けにした岩屋城の戦いがメインとなっている。
戦国時代は面白いが、現代編は設定倒れの要素が多くシナリオに活かしきれていなかった。
主人公くんの写真店カメラマン要素とか、琥珀の考古学要素とか話を紡ぐための設定という感じ。

過去改編して立花裎千代を救え!

  • 前世の因縁
    • メインヒロインは、戦国時代に大友氏に仕えていた立花道雪(戸次鑑連・べっきあきつら)の娘:立花裎千代の生まれ変わりです。前世において、親友であった神代千羽耶を殺してしまった悔恨に囚われ、その魂は輪廻をしても前世の業を背負うことになってしまいます。それゆえ立花裎千代の生まれ変わりである立花結佳の周囲では、何故か関係を持った人たちが怪我をしてしまうという現象が起こってしまいます。このことに気づいた結佳はセルフぼっちを発動し、他者との交わりを立つのでした。こうして孤独に陥ってしまった結佳を救うために、主人公くんたち考古学同好会チームが奮闘することになります。主人公くんは、立花裎千代に魂を分けたという神の導きにより、過去へとタイムリープ。戦国時代で安武方清として活躍することになります。

  • 戦国時代編はそれなりに面白い
    • 時代設定は戦国時代末期、秀吉が九州征伐を行う直前です。九州地方を統一するため島津氏が北上を開始。大友宗麟は秀吉に恭順し、秀吉軍が来るまでに時間稼ぎを行っているという状況です。メインイベントは岩屋城の戦いとなります。大友軍の高橋紹運率いる700の兵が、島津軍3万の侵攻を妨げ、結局は城を枕に討ち死にするのですが、島津軍はこの戦いで手間取り、秀吉の介入を受け九州を統一することができませんでした。この岩屋城の戦いを前後して、裎千代は立花山城にて島津に寝返った筑紫家と相対しています。筑紫家は、戦国時代の習いとして風見鶏的立ち位置にあり、大友についたり島津についたりしていたのです。この時は、高橋紹運を通じて大友側に帰参しているのですが、ブラフとして島津側についており、裎千代と戦っているわけです。筑紫家の姫:加弥姫、それに仕える神代千羽耶、そして裎千代は幼馴染であり、ホントウは戦いたくありません。しかし裎千代は岩屋城を救うために、打って出た際に、神代千羽耶を殺してしまったのでした。以上により、幼馴染の親友を殺してしまったという自責の念が、裎千代の魂にとり憑き、転生した後の立花結佳にもまとわりついていたのでした。主人公くんは、過去改編して裎千代が千羽耶を殺すのを防ぎます。

  • 個別√は微妙
    • 琥珀√では、なぜか急に琥珀が過去へと飛ばされてしまいます。そして琥珀は記憶を失い、千羽耶として生きていたのです。主人公くんはこれに気づき、もう一度過去へ飛ぶと、千羽耶を覚醒させて琥珀に戻します。そしてタイムリープをするための最後の1回を琥珀に使い、自分は過去へ残ったのでした。狼狽する琥珀でしたが、ご都合展開発動!過去において神々の力を得た主人公くんは現代に働きかけ、タイムリープのエネルギーを回復させると、現代に呼び戻してもらうのでした。こうして平和になった後に、ヒロインとのイチャラブがオマケ程度に挿入されてエンドとなります。琥珀が考古学好きで発掘しているというのが、物語の導入の機能として付与されていただけで、ちょっと残念だったかもしれません。もっと考古学要素とか発掘描写があればよかったかもね。

国史大辞典より

  • 戸次鑑連 べっきあきつら 一五一六 - 八五
    • 概要
      • 戦国時代、豊後大友氏の年寄。入道名道雪、麟伯軒と号す。永正十三年(一五一六)に生まれる。豊後の戸次氏の惣領で、父は戸次親家。官途は伯耆守。大友義鎮の時代の年寄。のちに筑前立花東西、松尾・白岳の城督。近世柳川立花氏の祖。
    • 年寄〜立花城城督まで
      • 永禄四年(一五六一)に戸次氏としてははじめて年寄に就任。毛利氏との対決のため、軍事的能力の高い年寄が必要となったためではないかと考えられる。史料で知られる軍事行動は弘治三年(一五五七)に秋月氏・筑紫氏の宅所を攻めた時である。永禄五年には門司関の攻防で指揮官の一人となり、門司周辺で攻防を繰り返したが、同五年末に敗戦。永禄十年には毛利氏に通じて筑前で反乱を起した秋月種実の鎮圧のため筑前に派遣され、種実と秋月休松で戦い激戦の末敗軍。種実に「多年の鬱憤を散じた」といわれた。しかし同年七月七日には宝満城の九ノ峯を直接攻め落として面目を保った。同十一年には立花城攻略を指揮、立花鑑載を倒した。永禄十二年には筑前の支配権をめぐって大友氏と毛利氏とが全面対決し、前線指揮官として攻防の中心の筑前立花城周辺を転戦。五月十八日には立花城西側の長尾で小早川隆景の陣を攻めたが、隆景指揮下の鉄砲隊・弓隊のために指揮下の筑後・豊後の軍勢は接近を阻まれ敗退。鑑連の直属軍のみが白兵戦に持込んだが及ばず敗れた。その後毛利氏は大内輝弘に山口を急襲されて急ぎ撤退し、落城した立花城は同僚の年寄吉弘鑑理が城督になった。ところが鑑理は急死したために鑑連があとを襲うこととなった。これと同時に豊後を勤務地とする年寄は勤務不能になり、解任されたようである。
    • 裎千代に所領を譲る
      • 鑑連には子息がなかったために弟鎮連の子を養子にする約束をしたが、何かの事情でこれは成立せず、天正三年(一五七五)五月、娘千代(千世)に立花東西・松尾・白岳城督と筑後・肥後の所領などを譲り、宝満・岩屋城督高橋鎮種の子統虎を養子とし、娘闇千代を結婚させた。譲り状の写しを見ると本拠地豊後の所領がみえず、あるいはこの分は鎮連かその子に譲ったのかも知れない。
    • 島津・竜造寺との戦い
      • 天正六年十二月に大友義統が日向耳川で島津氏に大敗すると、翌年早々に筑前で反乱が起り、以後道雪(永禄五年に主義鎮の剃髪の際、一度剃髪。天正三年に再び剃髪、道雪と名乗る)は筑前の反乱鎮圧のため高橋鎮種とともに東奔西走する。天正十二年豊後と共同作戦を計画し鎮種とともに、佐賀の竜造寺氏の勢力下にほぼ陥った筑後に攻めいるが、竜造寺側の抵抗は強く、一度豊後勢を残して筑前に帰り、翌年再び筑後に侵入したが、同年九月筑後高良山(福岡県久留米市御井町)近くで病死した。七十歳。梅岳寺(福岡県粕屋郡新宮町立花口)に葬られる。
  • 高橋紹運 たかはしじょううん ? - 一五八六
    • 概要
      • 戦国・安土桃山時代の武将。筑後の大蔵姓高橋氏の主。大友氏の重臣吉弘鑑理の子。高橋鑑種が大友氏によって追放されたあとに高橋氏を継いだ。実名は鎮種。官途は三河守、入道して三河入道紹運と名乗る。鑑種のあとを受けて、元亀元年(一五七〇)に筑前御笠郡の岩屋・宝満両城の城督に就任。御笠郡を中心に筑前南部の軍事、行政権を握った。子に戸次(べっき)家に養子に出した統虎(立花宗茂)と後継者の統増(立花直次)がある。
    • 筑紫家との関係
      • 天正七年(一五七九)筑前で秋月種実・原田信種宗像氏貞らが反乱を起すと、立花城督戸次鑑連(道雪)とともに鎮圧にあたったが、制圧することができなかった。天正十二年には道雪とともに竜造寺氏の抑える筑後への遠征軍を組織、豊後の大友勢と共同行動を取ったが、翌年九月同僚戸次道雪が病に倒れたために撤退した。筑後出兵中に筑紫広門に統増の守る宝満城を奇襲で奪われたが、統増と広門の娘を婚姻させ、婿引出物として統増夫妻が宝満城を守ることとなり、紹運は岩屋城に入った。
    • 岩屋城の戦い
      • 天正十四年島津氏が筑後を制圧して筑前に迫り、紹運に降伏を勧めたが、はじめ偽って降伏条件の調整を行なって引き延ばし、結局籠城して降伏を拒んだ。島津勢は一ヵ月以上岩屋城を包囲して本国の残留部隊まで呼び寄せ、紹運の籠る岩屋城への攻撃に備え、七月二十七日早暁、島津直属軍を全面に立てて一斉に攻め掛かり、同日夕刻には岩屋城は落城し、紹運は自害した。岩屋城には統増の守る宝満城からの人質が取ってあったために、この勝利で隣接の宝満城はすぐに降参した。しかしこの戦闘のために日向から呼び寄せた宮崎衆は地頭の上井覚兼(うわいかっけん)をはじめほとんどが負傷あるいは討死し、ほかの島津主力軍も同様に大打撃を受けた。そのため以後島津勢は積極的な軍事行動を行うことができなくなり、紹運の息子の一人立花宗茂の守る大友氏の筑前北部の最大拠点立花城は、攻勢を掛けながらも攻め落とせず、豊臣秀吉の九州来攻を容易なものとした。
  • 岩屋城 いわやじょう
    • 概要
      • 福岡県筑紫郡太宰府町にあった戦国時代の城。大宰府の背後に連なる大野山の東南隅に突出する標高二七八メートルの尾根上に築かれた山城。城址は本丸・二ノ丸・三ノ丸の数段に削平され三方いずれも人工的な急斜面である。小規模であるが岩屋城は大宰府を眼下に、遠く博多湾から筑後平野まで一望に収めうるとともに、九州の筑後以南より博多へ出るには必ず通過せねばならない筑紫野地溝の要衝にあたる。
    • 高橋鑑種の支配
      • 文明十二年(一四八〇)ごろすでに大内氏の御笠郡支配の拠点として、この城に防長の将士が派遣されていた(山口県『讃井文書』)。岩屋城は元来大野城の一画を占めていたが、城として整備されたのは戦国時代である。当時、筑前では少弐氏が敗退し、大内氏も滅び国人層が互いに争っていた。豊後から進出した大友氏の属将高橋鑑種が、筑後より宝満山城に移ってその出城として岩屋山に築いたのである。鑑種は永禄十年(一五六七)毛利氏と結び大友宗麟に反したが敗れて、岩屋・宝満は落城し、鑑種は豊前に移った。
    • 高橋紹運の支配
      • 元亀二年(一五七一)宗麟の一族吉弘鑑理の男鎮種が高橋の家をつぎ、宝満・岩屋城督となって大友氏の筑前支配にあたった。天正六年(一五七八)大友氏が島津軍に大敗してのち、北九州の国人層の間に反大友の動きが強まってくるが、岩屋城は立花・宝満城とともに、この時期における大友勢力の拠点であった。同十四年、豊臣秀吉が九州平定を期して西下すると、島津氏はこれに対抗して大軍を率いて筑前に入り、高橋氏を宝満・岩屋に包囲した。鎮種(当時出家して紹運)は、わずか七百の兵で岩屋城に島津軍三万五千の総攻撃を受け、十三日の攻防戦の末七月二十七日、紹運以下全員壮烈な最期を遂げ落城した。しかしこの戦闘による島津軍の打撃も大きく、結局秀吉の九州入部までに筑前制圧を了えんとした島津氏の意図は挫折した。その後城郭として利用されず廃城となった。その二ノ丸址に鎮種の墓がある。→高橋鑑種(たかはしあきたね),→高橋紹運(たかはしじょううん)[参考文献]『福岡県史』一下、『太宰府小史』、箭内健次編『北・九州』、貝原篤信『筑前国風土記』二四(『福岡県史資料』続四)