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  • 石山賢吉「満洲篇」(『満洲・台湾・海南島』ダイヤモンド社、1942年)

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    経済雑誌で有名なダイヤモンド社の創業者による満洲の視察旅行記
    1940年5月~6月にかけて朝鮮と満洲を旅行したもの。
    特に満洲における石炭と鉄鉱石に関する状況を強調している。
    東洋経済』の石橋(※石橋湛山のことか?)に誘われて朝鮮と満洲を見学する。
    関釜連絡船で下関から釜山へ渡り朝鮮半島を経由して満洲国へ入る。

    • 旅行の意義を満洲国の資源と国防に見出している(1-3頁)
      • 「私は、一昨年5月末から6月へ掛けて四十日間、朝鮮と満洲を旅行し、更に昨年一月と三月に、台湾、沖縄、海南島に旅行した。〔……〕私は、貴重な年月をそれだけ費やして、その代償を得たであろうか。得た、得た、大いに得た。私は、鞍山の貧鉱が、経済的には富鉱になつて居る事実を知つただけでも、その代償は充分であつたと思ふ。〔……〕斯うした事実は、現地を視ないと、確実な認識を得られない。これが旅行のお陰である。鉄は文明の基礎であり、又、国防の基礎である。鉄の如何は、その国の強弱に関係する。友邦満洲国に、鞍山の如き製鉄所があるといふ事は、心強い限りである。私は、その事実を知つて、広く之を同胞に伝える事が出来た。旅行の有意義を感ぜずには居られないのである。」

    旅程

    新京

    • 5月8日 
      • 図們駅から京図線で満洲に入る。
      • 22時50分 満洲の首都、新京に到着。
    • 5月9日
      • 新京視察
      • 星野長官を訪問。
      • 「眼に入れる新京の街は、目の覚めるほど美しい。」(73頁)
      • 関東軍司令部へ挨拶。秦参謀次長と面会。
      • 開拓総庁で移民の話を聞く。
      • 星野氏、満洲政府と特殊会社の首脳部を全部集めて、座談会を開催。

    吉林

    • 5月10日
      • 吉林視察
        • 副市長貞松恒郎氏の出迎え
        • 松花江、北山の見物
        • 光都吉林→「吉林市は、小白山、北山、龍潭山の三山と、之を繋ぐ九つの連邦に囲まれている。そして、一方に、松花江が流れて居る。山と河の都市である。〔……〕満洲では、山と河が一緒にあるのは珍しい。そこで、吉林は、古来、観光都市になつている。」(80頁)
        • 吉林の水力ダム建設。吉林市より、24キロの上流の大豊満。

    異郷の経験

    • 5月11日
      • 夕方、ハルピンに向かって出発。満洲北部の移民地視察へ。
      • 21時30分。ハルピン着。24時間制を満洲に対し、午前・午後で時間表記する日本本国の差異性について。

    北満に散つた日本人

    • 5月12日(前半)
        • 博物館(詳述なし)
        • 忠霊塔
        • 絵葉書と、小冊子「北満の落花」購入。

    ハルピン見物

    • 5月12日(後半)
      • ハルピン見物。
        • ハルピン市内の祭りで輪投げ
        • キタイスカヤ街モデルンでロシア料理
        • 満人街見物、魔窟(私娼窟、ハルピン観光案内では土娼)
        • 料亭武蔵野で日本料理

    移民地視察

    • 5月13日
      • ハルピンを離れて移民地へ。佳木斯方面の弥栄、千振へ向かおうとする。
      • 当初は船でハルピンから佳木斯へ行き、千振へ行くルートだったが、著者が鉄道を望みキャンセル。
      • しかし夜行が取れず、翌朝ハルピンから牡丹江を経て佳木斯へ向かうことに。
    • 5月14日
      • 8時15分ハルピン発、20時牡丹江着、散髪、大和ホテル
    • 5月15日
      • 朝、すぐに佳木斯行の汽車に乗る。
      • 弥栄駅着、停車場前の宿屋に泊まる。
    • 5月16日
      • 朝5時、開拓団訪問。弥栄
        • 新潟屯。手製で醸造した清酒「弥栄正宗」。
        • 初期開拓団の苦労(140頁)
          • 「布施君(※引用者註―新潟屯屯長。石山健吉は新潟県出身)は第一次開拓団―即ち最初の満洲開拓団である。最初は、第一次も第二次も命懸けであつた。現に、命を失つた人が相当にある。布施君は、当時の苦心を語つた。佳木斯へ到着しても、半年間、警備を務めて居た事、土竜山事件が起こつて、一万人の土匪に包囲されて奮戦した事、など話した。」
        • 満蒙移民の土地利用に関する諸問題(141頁)
          • 「布施君は〔……〕一家五人暮らしである。満洲国から土地を10町貰つた。その三分の一弱を自分で耕作し、他を小作に出して居る。それだけでも、一家の力では足りない。満人を二人雇つて居る。それから、副業に酒の酒造をやつて居る。これは、もう一人と、共同事業である。貰つた耕地を小作に出したり、副業をやつたりする事には、随分議論がある。この辺の事は、満洲国政府と開拓団諸君と考え方が違ふようだ。」
      • 千振
        • 千振開拓団部落は商店街から発展している。
        • 千振協和会理事長、小出藤吉氏の話。開拓団の来歴、開拓団の施設案内、種畜所、農事試験所、物産販売所、高粱酒製造所等
        • 開拓団宗団長による千振開拓団来歴の説明(146頁)
          • 「千振開拓団は、第二次である。第一次は、昭和7年10月15日に佳木斯へ到着した。第二次の千振開拓団は、それより9ケ月遅れ、8年7月に、佳木斯へ到着した。佳木斯から南方に向かつて歩いた。第一の弥栄を通り越し、千振に到着した。それに3日を要した。距離は、大体、80キロである。汽車ならば、二時間前後の処であつた。今日の千振は、2万8千人の人口を擁して居るが、その当時は湖南省から移住して来た支那人家が80戸ばかりあるだけだつた。宗団長は其処を開拓地と定めた。〔……〕」
          • 土地買収をめぐる諸問題と現地人の蜂起、匪賊の襲撃
        • 地酒「千振正宗」
    • 5月17日
      • 国境視察について(153頁)
        • 「私達の北満視察に、国境視察といふものがある。国境へ行つて、ソ連を見るのである。ソ連は、問題の国である。それを望見したなら、どんな感想が起るか。私が、満洲視察に対して、最も多くの興味をそそられたのは、それであつた。国境視察は、虎頭に於てするものである。」
      • 虎頭までの流れ:千振-佳木斯-林口-虎頭。林口で1泊するので、林口の次の駅である龍爪を視察することになる。
      • 夕方、龍爪に着き、1時間視察して林口に戻り宿泊

    ソ満国境を行く。

    • 5月18日
      • 林口から東安へ。東安に朝、荷物を預けて出発し、日帰りで戻ってくる。
      • 虎頭
        • 遠藤沿いの苦力の長屋。苦力の悲惨な状況と指導民族としての日本人。
        • 虎頭近くで汽車のカーテンが降ろされる。
        • 虎頭着。国境へ。ウスリー江。ソ連の方から流れてくるイマン江との合流地点。
        • 国境正面の町。イマン。
        • ソ連の国境警備
          • ソ連は対敵用意が厳重である。対日満関係が緊張して以来、国境から50キロの間は、一般人を居住させなくなつた。居住して居た者は、全部引き払わせて了つた。それから、国境から三百米の間は、一般人の歩行を禁じた。目前にあるイマン町にも、一般人は居ないそうである。」(164頁)
    • 5月19日
      • 国境が引かれている興凱湖を見物する予定だったが、雨天の為中止。省庁を訪ねて話を聞く。
      • 夜、東安を出発してハルピンへ。

    再びハルピン

    • 5月20日
      • 19日夜東安を出発し、一昼夜汽車に乗り続け、20日の夕方、ハルピン着。
      • ハルピン、明暗が隣り合わせた町。西洋式近代都市と典型的旧式な支那町(傳家旬)。
    • 5月21日
      • 王兆屯
        • 白系露人の集団部落。東支鉄道がソ連から満洲国に譲渡されたが、露人の鉄道従業員のうちロシアに引き揚げないものがでた。彼等を1ヵ所に集めて特殊技能を発揮させようということになったが、王兆屯の集団部落はその副業組合の一機能。
        • 勤め人と副業という事に着目する。ドイツの国内植民の紹介「独逸は、国内植民を行い、一家族に対して、住宅地を三百坪与えた。そして、その空地に菜園を作らせた。菜園は、主として留守を守る女房が担当する。だが、工場に通う主人も、朝夕はその手助けをする。斯くして、その一家は、野菜を買わないで済む。趣味にもなるし、家計の助けにもなる。発展すれば、家畜も飼育し得る。さうすれば、更に一段、趣味と実益が増す。」(179頁)
      • 開拓団幹部訓練所
      • ロシア革命に追われた孤児院
    • 5月22日
      • 天理村の視察
        • ハルピン東方22キロ。ハルピンの次駅三棵樹で天理村特設の軽便鉄道に乗り換え15キロ走って到着する。
        • 軽便鉄道が故障中だったので、トラックで出かける。
        • 開拓団の特色→(1)政府の補助を受けない事、(2)都会に近い所を開拓し、その作物を都会に売る事。
        • 都会に売る野菜を試作するうち、西瓜が当たり、「天理西瓜」がハルピン名物の一つとなる。
        • 鉄道を敷いた理由もハルピン市へ作った野菜を売るため。鉄道は20万円の株式会社、一切の資金は天理教本部から出る。
      • 15時頃ハルピンに戻る
        • キタイスカヤ街ロシア料理店モデルンでお茶
    • 5月23日(前半)
      • 朝ハルピンを出発して同日昼過ぎに新京へ帰着。

    満洲開拓論

    • 5月23日(後半)
      • 北満視察を終えての満州開拓論 
        • 日本人の移民は経済だけでなく政治と国防(196-197頁)
          • 「日本人の満洲開拓民は、支那人朝鮮人とは、逆である。日本の方が生活程度が高い。これを満洲へ移住させるのは、水を高い処へ導くと、同一である。自然的には行かない。人工を以てしなければならぬ。その力が、弱ければ失敗し、強ければ成功するのである。支那及び朝鮮人満洲移住は、経済関係の一途に支配されて居る。だが、日本人の満洲開拓は、それに政治関係と国防関係が加わる。然も、この方の意義が経済関係よりも強い。従つて、日本の満洲開拓民移植は、必ず成功させねばならぬ。事の成否は、満洲国の将来に影響する。同時に、日本の将来にも影響する。」
          • 支那から来た満洲人も、満洲固有の満洲人も、更に又、朝鮮から移住した朝鮮人も、その本体は、遊牧の民である。彼等は、共同心がない。国家を形成する理念も、力もない。従つて、彼等が、如何ほど多く満洲へ移住しても、満洲国を固める要素とはならない。日本人が移住して、要所要所を固めなければならぬ。特に、ソ連の侵略を防止する、国境に於ては、その必要が強い。日本人の満洲移住は、絶対である。だが、その実行は、順逆処を変えるもので、難中の難事である。」
        • 土地10町歩付与について(198頁)
          • 「〔……〕総べての開拓民にやる土地は、十町歩である。これが多いか、少いか。収入の基本は、土地だから、先づ、これから先に決めなければならぬ。今日の実績から云へば開拓民は、十町歩の土地を耕作しきれない。その三分の一が精々である。それでも、夫婦二人の開拓民だけでは、手が足りない。満人を二人位雇つて居る。そして、剰つた土地を、小作に出して居る。これが、問題である。小作に出せば、搾取だ。政府から貰つた土地を、小作に出して搾取するのは、怪しからぬ―といつて非難の声が高まつて居るのである。」
        • 北海道農業の可能性(199頁)
          • 「〔……〕考ふ可きは、日本の農民が、未だ、満洲農業に馴れないといふ事である。馴れたら、モツと、耕地面積が増す。それまでの中間策だとすれば、それは大目に見てやつてよい訳である。そこで、問題は、能力になる。開拓民は、馴れたら、どれだけの土地を耕し得るか。その能力である。之に、二つの見方がある。馴れても、十町歩は駄目だ、といふのと、馴れれば、其処まで行く、といふのと、二つに別れるのである。満洲国政府の開拓総局は、後者の考え方に傾いて居る。やれば、やれる、といふ考え方である。その論拠は北海道の実績にある。北海道の農民は、耕作技術が優れて居る。十勝あたりでは、一戸で十町歩を耕作して居る農民が、いくらもある。開拓総局は、之に倣はせようといふ、計画を樹てた。その結果、北海道農民の中から、耕作力の強い、模範的なものを十戸ばかり選抜し、満洲へ引張つて来た。そして、それに十町歩の耕作をやらせた。これが、うまく行けば、この問題は、比較的簡単に解決する。何分、昨年、始めたばかりだから、今、二三年経なければ、開拓総局の見込み通りであるか、否か、わからない。」
        • 満人農業>内地農業農業(200頁)
          • 満洲へ行つて、耕地の状況を見ると、満人の耕作だつて、余り馬鹿にされない。彼等の耕作法は、或点では、日本人より優れて居る。彼らは、家畜を巧みに利用する。日本人の耕作は、徹頭徹尾人力である。人力以外の利用は、殆どない。彼等は、地を掘り返す為にも、畝を作る為にも、種を蒔く為めにも、家畜を利用する。家畜は馬と牛である〔……〕一人の農夫が、広い耕地に立つて、一本の鍬を振り上げ、日暮れて道遠し、といふような、耕作の仕方をして居る内地農業に比較すれば、著しい進歩を感ずる。従つて、彼等の可耕地面積は内地の農民より遥に広い。それには、水田と畑地の相違もある。だが、それを割引しても彼等の方が、遥に広い。それであつて、彼等の可耕地面積は、十町歩に達しない。精々5町歩位である。〔……〕満人の成績を基準にすれば、十町歩の耕作は、無理である。それ以上にするには、機械の応用が必要になるやうである。」
        • 満洲で米国式機械化農業はできない(201-202頁)
          • 「機械化農業となると、我々は、直ぐに、米国農業を思ひ出す。機械化農業の可耕地面積は広い。それは、米国農民の一人当たり耕地が、12町歩半である事に依つてもわかる。日本は、一戸当たり一町弱、一人当りは二段強に過ぎない。ザツト、米国の50分の1である。満洲は一人当たり5段である。日本に比較すれば、二倍強に当るが、米国に比較すれば、25分の1に過ぎない。〔……〕米国流の大農法は、人力の節約は非常であるが、段当たり収穫は、極めて少ないらしい。〔……〕極めて大ザツパな遣り方である。満洲が、若し、この遣り方を真似れば、人力が節約される代わりに、収穫が激減し、満洲人の生活を維持することが出来なくなるであらう。満洲は、米国流の大農法を真似ても、駄目である。」
        • 満洲の土地利権問題(202-203頁)
          • 「元来、満洲の耕地に対しては、内地人は一般に、誤解している。白状すれば、私なども、誤解組の一人であつた。私達は、満洲へ行く前まで、土地が広くて、耕地など幾らもあるものと思つて居た。処が、行つて見ると、大違ひであつた。開拓民に与える土地は、買つたものだ、といふ事を聞いて、先づ驚いた。〔……〕所有権が附いて居る。無償で手に入れる訳に行かない。買わなければならぬ。買うには、高くもなく、安くもなくする事が、必要である。その為めに、中央と省と県とに、それぞれの機関を設けてある。その手続は、可なり複雑して居る。それといふのは、土地が、既に、誰かの所有になつて居るからだ。要するに、漢民族が一ぱいになつて、剰つた耕地があつたのは、今から二百年前の事だつた。今日は、漢民族は一ぱいになつて、剰つた土地は、殆どないのである。同行の石橋君は、満洲視察の感想記に「満洲に土地なし」と書いて居る。全く、その通りである。満洲の耕地―といふ角度から見れば、開拓民一戸に対して、十町歩の土地をやるのは、やり過ぎである。もつと、少くすべきである。」
        • 日本農民の根本的欠陥は耕地が少ない事。その解決策。(204-205頁)
          • 「私は、日本農民の根本的欠陥は、耕地の少ない事にあると思ふ。前に比較対照をした米国は、暫く別として、之を欧州に比較しても、日本農民の耕地は、余りにも少な過ぎる。〔……〕列国中、最も耕地の少い、伊太利でも、一人当たり一町三畝である。日本の一戸当たりより多い。日本農民の耕地は伊太利の五分の一である。それで、一家が生活して行けるだけの収入を挙げなければならぬ。収穫物を、高く売らなければならぬ事になる。それを、その反対に、安く売つても、引合うやうにするには、耕地面積を増してやるより外ない。耕地面積を増してやるには、農民の数を減らす外ない。それに、二つの途がある。一は工業に転向する事、二は他国へ移住させる事である。他国へ移住となれば、満洲である。満洲は、国防の関係から、一人でも多く、日本人を入れたいのだ。彼我の要求は、一致して居る。日本人の満洲移住は、どちらから考えても、よい事である。〔……〕日本の人口の半分位、満洲へやるべきである。それを実行すれば、満洲の土地は一層余裕が少くなる。この点から見ても、開拓民一戸当たり十町歩の土地は、やり過ぎである。」
        • 満人の農法を真似しても上手くいかないから地主化(206-207頁)
          • 満洲の農法は、日本と米国との中間位が、適度であるまいか。現在の満洲農民は、耕地を広く耕す事には、可なりの技能を持つて居る。この点は、日本の開拓民より遥に優れて居る。だが、それ以外に、何物もない。彼等は、肥料の製造を知らない。従つて、彼等は、肥料を碌々やらない。堆肥を少しばかりやるだけである。そこで、彼等の耕地は、年々痩せていく。〔……〕それであるのに、現在の日本開拓民は、欠点の多い満人の農法を、その儘真似て居る。そして能率は満人より悪いのだ。だから、成績が挙らない。自己耕作だけでは、食つて行けない。剰つた土地を小作に出して、収入の補ひにするのである。」
        • 科学農業の必要性(212頁)
          • 満洲国政府も、日本の拓務省も、これまで、開拓民の精神方面にのみ力を入れた。少年の義勇隊を募り、先づ以て、精神的の訓練をした。勿論、それも、大切な事である。異郷へ踏み入つて、匪賊と戦いながら、不毛の原野を開拓し、国防を強化するのだから、健全な精神を持つて居る人でなければ、駄目である。そういふ人を養成するのは、元より必要である。それと同時に、私は科学農業を発達させる事に、もつと、力を入れて貰ひたいのだ。そして、満洲開拓民の生活を高めて貰ひたい。そうすれば、日本から満洲へ移住する事は、水が低い処へ流れると同じ結果になるから、余り骨を折らないで、成績が挙がる。今日の移民は、金が掛り過ぎる。そして、その数が少な過ぎる。国費の負担をもつと少くし、そして、開拓民の数をもつと多くして貰ひたいのである。」

    安東

    • 5月24日 
      • 北満の視察の次は南部。大体に於て満洲の工業地帯。同時に資源地帯。著者(石川氏)は、この方の視察に興味。
      • 朝8時、新京出発。奉天を経由し、16時、安東着。
    • 5月25日
      • 大東港と鴨緑江水力ダムの視察
        • 大東港
          • 資本金15億円を注入。商工次官岸信介による計画。著者による大東港開発案が提示される。
        • 鴨緑江ダム
          • まずは橋を視察。日満を連絡する大切な橋で、渡ると朝鮮の新義州となる。橋で税関にひっかかったため、日満間に関税があることを非難する。「一体、日本と満洲の間に、関税を設けるのが間違つてゐる。「日満一如」と云いながら、両国の往来に障害を与えるような政策は、矛盾である。外国へ遠慮の必要がなくなつた今日、速に之を撤退すべきである。」(244頁)
          • ダム建設は松花江より進む。来年(※引用者註-1941年)春になれば、一部発電開始の予定。満洲工業化の基礎。
      • 満重の総裁鮎川義介氏は、大東港を自動車製作の適地とし、この大地域に自動車工場を建設する胸算。
      • プロペラー船で鴨緑江を下り安東市へ。

    本渓湖

    • 5月26日
      • 午前7時、安東を出発。11時半に本渓湖着。
      • 媒鉄公司の大崎理事長と面会。媒鉄公司とは石炭と鉄の会社という意味。
      • 豊富な資源→「ビツクリした第一の原因は、鉄鉱石と石炭が、同一場所にあるといふ事であつた。鉄鉱石は、石炭とくつつかなければ物にならない。〔……〕その密接不離の関係にある鉄鉱石と石炭とは、同一場所に存在しない。遠く離れ放れ(ママ)になつて居る。〔……〕本渓湖は、その鉄鉱石と石炭が、同一場所に存在するのだから、ビツクリするではないか。それから、今一つ、ビツクリしたのは、その鉄鉱石と石炭の中に、極めて良質のものが、或数量存在して居る事である。」

    撫順

    • 5月27日
      • 炭鉱、オイルシエール工業、石炭液化工業、製鉄試験工場、軽金属会社を見学。
      • 大規模な露天掘り。

    鞍山

    • 5月28日
      • 駆け足見学。
      • 昭和14年度に大欠損をした昭和製鋼所の擁護

    奉天と旅順

    • 5月29日~
      • 鞍山から大連へ。3日間滞在。うち1日は旅順へ行く
      • 新京へ引き返す途中で奉天へ寄る。1時間ほど奉天の工業地帯を自動車で廻る。
      • 旅順の戦跡。我が軍の武勇に頭が下がる。科学的戦術について思う。「日本が、兵器に於て、外国に劣るやうな事であつてはならぬ。それには、国防産業の発達に全力を注がなければならぬ。どうでもよい産業はやめて、その力を国防産業に廻はさなければならぬ。所謂、重点主義の生産が必要である。私は、常に、其の事を考へて居るものであるが、旅順を見物して、一層、その事を痛感したのであつた。」(310頁)

    満洲国所感

    • 何よりも嬉しく感じたのは、大規模の水力建設。
    • 鞍山の貧鉱が、南洋の富鉱よりも、経済的である実際の計算を知ったことも嬉しく思う(南洋から輸入する際には費用がかかること)
    • 資本と技術の導入の必要性
      • 満洲へは、もつと、資本と技術を入れなければならぬ。でないと、満洲の開発が遅れる。満洲の開発が遅れるといふ事は、日本へ強味の加わる事が遅れるといふ事である。結局、それは、満洲国の問題でなくて、日本の問題である。」(314頁)
    • 満洲国の工業化の必要性を唱える。