進捗メモ
- 史料づくり中。
- 現在の進捗
指導教授の御助言
- 研究の意義及びto doなど
以上により、新京・奉天・哈爾濱・移民村の様相をまとめていくこととする。
-研究目的
以上の研究を行うために、まずは各種旅行記の読み込みを行った。
各種旅行記一覧
- 進捗メモ
- 指導教授の御助言
- 1932
- 1933
- 1934
- 1935
- 1936
- 1937
- 1938
- 岩崎晴子『満鮮に旅して』、竹柏会 1938 【1208149】
- 大橋克『満鮮北支紀行』、小寺印刷所 1938 【1034225】
- 志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938 【1257960】
- 田中智学『渡満紀行』獅子王文庫、1938
- マルサン織物工業組合『北支満鮮視察報告日記』、マルサン織物工業組合 1938
- 中島真雄『双月旅日記』、自費、1938 【一般閲覧可能】
- 新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938 【1245618】
- 日本旅行会『鮮満北支の旅 : 皇軍慰問・戦跡巡礼』、日本旅行会 1938
- 平野亮平『満支旅行日記』、自費、1938 【一般閲覧可能】
- 松本佐太郎『鮮満北支たび日記 : 附・鮮・満・北支の陶業調査報告』、自費、1938
- 村松益造『黄塵紀行』南塘文庫、1938 【1228746】
- 森田福市『満鮮視察記』、自費、1938 【1257948】
- 山形県教育会視察団『満鮮の旅 昭和13年度』、山形県教育会視察団 1938 【一般閲覧可能】
- 長與善郎『少年滿洲讀本』、日本文化協會 : 新潮社、1938.5
- 保田與重郎『蒙疆』、生活社 1938.12
- 1939
- 1940
- 1941
- 1942
- 1943
- 1944
1932
山本実彦『満鮮』、改造社、1932
【改造社社長】
満洲国の要人との面会。一旗揚げようとして渡満する日本人を快く思わず、歓楽街で堕する同胞に苦言を呈している。
新京
- 「新京は馬車の都であり、俥の都であり、そして森の都でもある」(310頁)
- ヤマトホテル訪問
- 新京 朝寝の街
- 西公園
- 満鉄運動会開催 雨の中をおおはしゃぎする人々を遠巻きに見る。
- 「十万坪もある公園としては、釣堀、スケートなどの設備もあるにはあつたが、まだ公園としての丹精もすこしもこらされてはゐないやういもあつた。」(316-317頁)
- 満鉄文化住宅、文化兵営の前を過ぎる。
- 南嶺から砲撃を受けたとしたらたまったものではなかったらうと長谷部少将、大島大佐などを賛美。
- 伊藤博文がハルビンへ行く際に一泊したという民家に立ち寄る
- 城内
- 「今後3年たち、5年経てば奉天、哈爾濱を凌ぐ大都市となるであらうことを思へば、今のうちにこの壊れかかつた城門や、せまくるしい城内の隅々までを見物しておくのも一興と思つた。」(318頁)
- 支那人文化の拡散
- 「〔……〕このごろは城内よりは商埠地、附属地の方へだんだん移り行く支那人文化を見るのではあつた。」(318頁)
奉天
「彼等の都!三千万大衆の政治的、軍国的首都であつた奉天街!その奉天街の有する最大の百貨店!哈爾濱のチュウリンであり、東京の三越である吉順絲房五層楼の屋頂からこの一帯を展望すれば、殆んど眼界を遮るものもない広い広い広野である。」(山本実彦『満鮮』、改造社、1932、196頁)
「私は、その日、吉順絲房にすこしばかりの土産ものを求めた。故国にのこせる子供のために支那土産の細筆と、墨と、蠅逐ひとを若干錢を投じて手に入れたのであつた。ところが、その領収書には中華民国の収入印紙を用ゐてあるのはいいとして、「年号」のところは空欄とし、そして、奉天とか遼陽とか書くべき欄には、張学良によりて改名せられた「遼陽」の文字を殊更に用ゐてあるのが目に入つた。彼等は満洲国政府によりて定められた「大同」の年号が、また近く変乱のために改元さるるとでも思つてゐるのか、それとも、張学良の勢威を恐れての所為か、何れもしても彼等の腹黒い用心深さの一面を窺ふことができるではないだろうか。奉天第一のデパートにしてかくの如くである。」(山本実彦『満鮮』、改造社、1932、207-208頁)
哈爾濱
「私は哈爾濱についた翌日、ロシアの墓地や、中央寺院、ソフスキー寺院をも訪れて見た。そこに行けば、宗教は阿片のごとしといふ、宗教否定の蘇連の威力が、どれほどぐらゐ哈市に浸潤してをるであらうかが分るためであつた。〔……〕寺院の門前には、果してボロボロ服をまとへる白系の廃人どもがいくたりもゴロついてをるのであつた。彼等はその参詣者皆に出すような手つきで私どもに哀を乞ふのである。今までは信仰の鐘を自分達の神聖な救ひの声のやうにきいてゐた彼等が、その神聖であらうと信じた宗門の人口に醜骸を毎日、毎日横へなくてはならぬ現状を見るとき亡国白系の落ちゆく姿がまざまざと脳裡に描かるるのである。そして私どもが街頭を散歩するとき花売娘、自動車の運転手、馭者、活動の切符売り、さうした階級のものは大抵白系露人の成れの果てであるのが多いのである。道行く人は彼等を見て一抹の哀愁をそそられる……」(山本実彦『満鮮』、改造社、1932、349-350頁)
1933
石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933 (1241804)
【米沢新聞記者】
料理の比較などにおいて米沢の視点が出てくる。食事、歓楽街についての記述もあり。
新京
- 駅前の旭ホテルに宿泊
- 正面のヤマトホテルの大きさに感慨
- 自動車で移動 宇佐美公館訪問
- 仕事が決まらないまま新京に流れて来る日本人の多さに関する指摘
- 支那馬車で移動 関東軍司令部 武藤信義大佐と面会
- 熱河についての注意を受ける
- 新京市中見物
- 最下等の女郎屋 棟割り長屋のような支那古風の軒の低い建物 ピンカンリ
- 三等の遊郭に比べると、1、2等の芸者屋は体裁が良い。
- 五拍子揃った道楽
- 酒
- 最下等の女郎屋
- 「〔……〕盛り場の小路を入つて、裏町に出ると、そこには見るべからざるものがある、即ち最下等の女郎屋だ。棟割り長屋のやうな支那古風の軒の低い建物が続いていて、路行く人の目には、雙合堂、永楽堂、花郷堂、天楽堂などの屋号の貼紙が読まれる、庇を入ると三尺通りの土間の廊下、閨房のドアは開かれて夜具を敷いた六畳間位の室が見える様にしてゐる、ドアの傍らには赤い紙に源氏名を記して貼つて垂れ、後方の髪をうなじの上に束ね、毒々しい口紅、白粉を塗り、腰から下には日本のもんぺに似てゐる雨肢のものを穿き、腰まではターコワといふ詰襟洋服に似たものを着けてゐる、上流の婦女は必ず腰にチユンツ(裙子)とかウェチユン(圍裙)と呼ぶスカートに似た袴をつけるが、元来花柳界ではいかな名妓でもチユンツを着けないことが不文律になつてゐる。」
- 「商い最中の室のドアだけは閉ざされて、上から腰巻みたいなカーテンで覆うてゐる、日本人は夜襲を以て本領とするが、支那の男は大概日中に失敬して平気でゐる、おてんとう様の罰が当たることを知らないと見える、之等肉を鬻ぐ女の素性こそは想像外に猟奇的なもので、大抵はかつさらはれて来て売られたもの、もとはといへば水吞百姓や裏店の蒜臭いクーニヤン(姑娘)で育ち、馬賊の片割れや人泥棒に捕へられて、斯うしたピンカンリー(遊郭)に売られたものである。彼等には戸籍がない。彼等ばかりか、支那満洲人には戸籍がないのだから、これこそ何処の馬の骨だか判つたものでない、で、汚いとか醜いとかはあたりまへ、その日の生活があつて明日の理想のないドン底に落ちた彼等だ。」(43-44頁)
- まだ第一期五ヶ年計画は途中。人口50万の新都市を建設しようとしている。
- 新京の街路で馬車を雇い事変の戦跡を見学する。
- 寛城子戦跡を見て 「満蒙の新天地は、今や陰惨の暗から黎明の暁に移ったが、そこに至つたのも実に我が同胞の尊き犠牲の賜物であつて、今日のあたりに戦跡の一部を視る時、ましてカーキ色の畑の中にさびしく立つ所の墓標を見る時、誰れか、感慨無量、地下の霊魂に感謝の涙を注がぬ者はあらうか。」(51頁)
- 新京旧城内 支那人街
- 「新京旧城内の支那人街を見物したが、春先の道路の泥濘は少しも乾かず、中央は全く泥の川で町の両側に漸く人が通り得るだけ乾いた所がある、それでも満洲人はメーフアーツと言つた平気な顔で一生懸命に商いをしてゐる〔……〕で、中央を通るものは馬車ばかり、徒歩者は露天の雑沓する軒下を通る、腐れかかつた果物を売るもの、蠅が飛んでゐる生魚を商ひするもの、南京豆や林檎を並べてゐるもの、さては大きな丼に葱や肉をまぜた飯を山盛りにして売つてゐるもの、内地の香具師に類する奴が大声を張り上げていかさまものを宣伝してゐるもの等々、中に紫色のした唐きびのやうな甘蔗の棒茎を売つてゐるのは、これを五、六寸位に切断してお菓子代りに子供に与へるもの、凡ては紛然雑然たる原始的商ひのオンパレードだ。」(42頁)
- 新京旧場内 女郎屋
- 「棟割長屋のやうな支那古風の軒の低い建物がつづいてゐて、路行く人の目には、雙合堂、永楽堂、華郷堂、天楽堂などの屋号の貼紙が読まれる、庇を入ると三尺通りの土間の廊下、閨房のドアは開かれて夜具を敷いた六畳間位の室が見える様にしてゐる、ドアの傍には赤い紙に源氏名を記して貼つておき、源氏の君はドアの外に佇立して、てんでてんでに遊冶郎のおいでを待つてゐる。前髪を額の上に垂れ、後方の髪をうなじの上に束ね、毒々しい口紅、白粉を塗り、膝から下には日本のもんぺに似てゐる両肢のものを穿き、腰まではターコワといふ詰襟洋服に似たものを着けてゐる、上流の婦女は必ず腰にチユンツ(裙子)とかウエチユン(囲裙)と呼ぶスカートに似た袴をつけるが、元来花柳界ではいかな名妓でもチユンツをつけないことが不文律となつてゐる。商い最中の室のドアだけは閉ざされていて、上から腰巻みたいなカーテンで覆うてゐる、日本人は夜襲を以て本領とするが、支那の男は大概日中に失敬して平気でゐる、おてんとう様の罰が当ることを知らないと見える、之等肉を鬻ぐ女の素性こそは想像外に猟奇的なもので、大抵はかつさらはれて来て売られたもの、もとはといへば水呑百姓や裏店の蒜臭いクーニヤン(姑娘)で育ち、馬賊の片割れや盗棒に捕へられて、斯うしたピンカンリ―(遊郭)に売られたものである」(42-43頁)
哈爾濱
- 哈爾賓市街の様子、日鮮露満蒙の人種の混在(64頁/58コマ)
- 傅家甸の様子・泥棒市場(64-65頁/58コマ)
- 哈爾濱の歓楽街(66-67頁/59コマ)
- 哈爾濱のデパート(72-73頁/62コマ)
臼井亀雄『開けゆく満洲』日東書院、1933
※満洲国の旅行記ではなく、20年後の満洲がどうなるかを予想した創作。旅行記分析としては使えないので注意。
【神戸新聞記者】
- 新京駅、大和大街、新京ヤマトホテル、
- 新京について
- 「満洲の大都市のうちで、根本的にやり直したのはここ(※引用者註-新京)だけでせう。この日本街のこの辺から北は旧の通りですが南に広がった部分は全く新計画ですし、旧城内は殆ど変わりませんが、商埠地は新政庁の大建築を廻つて全く面目を一新しましたし、南嶺は戦跡記念の地を残すだけで、すツかり市街地に入りました。」(193頁)
川上隆正『黎明の満蒙』帝国在郷軍人会大分市大道分会、1933
【軍関係者】
- 歩兵第四連隊兵営の屋上で新京を一望する、車を徴収して南嶺戦跡を見学、執政溥儀との会見
新京市街地
- 支那人の風呂と床屋
哈爾濱市街地
- キタイスカヤー見学
- 「〔……〕自由見学といふ予定になつてをるので〔……〕キタイスカヤーに立ち戻つて来た。松浦商会の毛皮、雑貨を捻ね繰り廻すもの、重いロシア飴を買い込むもの、さてはモストワヤに進出して、岩間商会の宝石部に雪崩れ込んで之は彼氏に、之は彼女にと相談して、トツパーズ、アレキサンドリーツを買い込む連中もあつた〔……〕」(123-124頁)
信楽真純『柳絮』松倉友之助、1933 【永続的識別子1226719】
橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、1933 【永続的識別端子1095753】
【経済人】
新京
- 新京で北清鉄道に乗り換え、先に哈爾濱を見てから新京に戻ってきて市内を見学。
- 三井物産新京支店 所長代理長枝吉実氏と面会
- 「新京に満洲国が都したのは北部にソビエツトロシヤと接近し、将来ソビエツトの対抗交渉が一層多き事を予想して建てられた所の都である。所謂軍事上の見地のみに立脚して建設する事になつたので、経済上の価値は満洲国内の大連、ハルビン、奉天等に到底対比する事は出来ない。然も水便悪しく、水質も随つて不良であつて、大都市を建設すべき条件は一つも具備して居らぬと云ふ事であつた。」(31-32頁)
- 「事変前は芸者の総数が百名足らずであつたものが、目下四百人以上居るそうである。内地人は2万人しか居らぬのに芸者400人女給200人と云ふ数字を聴かされると、景気が良いと馬鹿に内地で大騒ぎしてゐるのは、即ち之れ等の建築工事等があればこそだと断定するより外はないと云ふ長枝氏の議論は、此処に永く居られるだけに正論だと思つた。」
- 市中見物
- 一人自動車で南嶺戦跡へ行く。
- 馬車で西公園の夜景を見る。
- 溥儀執政の居所
哈爾濱
- 夜の哈爾濱(18-19頁/14コマ)
- 車で市中見物(23-24頁/16,17コマ)
- 満人商店での買い物(26-29頁・/18,19コマ)
橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933【1055427】
【岐阜農林学校の校長】
新京
- ハルピンから公主嶺へ行くまでに新京に立ち寄る。新京を活気があると評す。新京日本橋通りの写真とキャプション
- 市街の様子に関しては記述なし
哈爾濱
- 傅家甸・支那芝居・阿片荘(78-79頁、47コマ)
渡辺房吉『満洲から朝鮮へ』、自費、1933【1214321】
【学童の引率】
全国連合小学校教員会、東京日日新聞社、大阪毎日新聞社共同主催の学童使節団。
- 夜の8時半に新京に着き、旅館富士屋投ず
- 満洲の馬車に乗りたくてたまらない著者
- →新京内の移動「私は此の馬車に乗つてみたい誘惑にそそられてたまらないので、或る日一行が懇談会に臨んでいる1時間を利して、町の端れまで試乗した。ピシッと軽く当てられた鞭を合図に、優々と頭に快い蹄の音を感じ乍ら、大路小路を曲折し、商埠地や城内までも普く歩き廻つた。此馬車の幾台となく行き交ひ連り合ふ様は、確に満洲市街の一風景を特色づけてゐる。」(60頁)
- 寛城子に残る露人たちの様子
- 学童使節団は市内を車で移動
- 溥儀執政、鄭国務総理、謝外交総長と会見
- 第四連隊を訪問
- 寛城子・南嶺を見学
- 郊外の二鳥路女学校に立ち寄る
- 新京商埠地で新京戯院を見学
- →「〔……〕極めて貧弱で、田舎の活動小屋を稍々大きくした位に過ぎぬ」
- 日満合同の学芸会と座談会
※追記
1934
大貫将「満洲の農業と産業組合」、日本産業組合研究会、1934 【1028640】
【農業関係者】
- 新京駅、西公園、日本橋、新京銀座
- 満洲の誇り 西公園
- 内地の延長 新京銀座
- 「新京銀座の夜は内地の延長だ。浴衣がけの日本人が大半だ、ネオンの光眼眩しく、ヂャズの音高き軒並のカフェー、鈴蘭形の電燈、夜店、どうしても満洲と思はれない。」
奉天
忠霊塔、同善堂、北稜、北大営、吉順絲房、宮殿等
哈爾濱
- 3時間かけて哈爾濱見学 都市景観の異国情緒、油房、横川・沖志士の記念碑、極楽寺・文廟、
全国社会教育主事協会 編 『社会教育者は満鮮を斯く見る』、社会教育会、1934
【教育主事ら22名による慰問と視察の旅】
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934 【1255478】
【高等女学校教諭の私費旅行】
- 新京駅、西公園、附属地、執政府、国務院、南嶺戦跡
- 西公園の描写
哈爾濱
- 哈爾濱市街の風景 131-141 88-93コマ
1935
石川磐彦『鮮満視察旅行』、自費、1935
【JTB視察団参加者】
旅行経験よりも概要を述べるだけのような感じ。
- 最もスピーディーな変化に富んだ都市の形態。
- 驚異的な人口増加、建築熱の旺盛さ。
- 近代的建築群 官衙
- 西公園 風光明媚 入場料2銭 ルンペン対策
- 計画都市と公園の配置
白須皓『我が観たる鮮満』、林風社、1935
【JTB視察団参加者】
杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、1935 【1259641】
【教育者】
視察の他に石鹸の関税を引き下げる陳情が目的。
- 金泰洋行を訪問。石鹸其他雑貨に就いて商況を聴問、
- 旅行目的に附随した用件は満洲国政府に対して日本から輸出される石鹸の関税を引き下げる陳情。
- 市内見学
- 南嶺戦跡訪問 倉本少佐以下将卒の墓標
- 寛城子駅 露国全盛時代を偲ばす建物
- 宿の太陽ホテルには名古屋近辺の女学校の生徒が120人見学旅行の滞在中。
- 支那料理 第一流濱宴楼で支那料理を飽食
- 新京で行きつけのお店 天平という凍京流の天ぷら屋に通い詰める。いつも大入り満員。この店以外の古くからやっていた天ぷら屋は満洲事変の時に引上げたので天平は独占的人気。
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哈爾濱
- キタイスカヤ街 百貨店で買い物 171-172頁 94-95コマ
- 傅家甸の様子 支那料理屋に入る 174-176頁 96-97コマ
新京
- 新京城内の様子 190-191頁 104コマ
園田銈『満鮮旅行記』、自費、1935
- 全23頁であり、新京に関する記述はない。
電気学会『携手同行』、電気学会、1935
林安繁『満鮮遊記』、自費、1935
【電気会社】
藤山雷太 『満鮮遊記』、千倉書房 1935
【資産家】
満洲産業建設学徒研究団 編『満洲産業建設学徒研究団報告』学徒至誠会、1935
【大学生による満洲視察】
- 「国都新新京に観る「日本」の氾濫」というサブタイトルで、新京における日本人の入植の様子を描写している。
- 「誰れか、これ〔※新京日本橋通りのおでん屋の描写〕を満洲国の一風景と思ふだらうか。宛然、芝か駒込あたりのおでん屋情情緒そつくりである。」(398頁)
- 「バー香蘭の、旅芸妓崩れらしい女将と、小唄レコードと、いわしの味淋乾しをむやみと掴む女給群と、-さうした雰囲気裡、日本カフエーの安価趣味にひたれば、虚無僧の流しが来る。おにいさん買つてよ、と辻うら売りの栄養不良も来る。おおここも「日本」の氾濫だつた。一歩、そとへ出れば、プロレタリアの標本みたいな満洲人の馬車屋が、鵜の目鷹の目で客を待つ風景―そこに、僅かに、「満洲」を見出すけれど、屋内は、かくのとほり、「日本」の生活の延長だつた。」(398頁)
- 「盛り場、吉野町の通りには、街頭に鈴らん燈をつけて、その名も「新京銀座」-夜店の行列に、軒並みのカフエー、そこを、浴衣掛けの内地婦人が団扇片手に、インチキ翡翠を値切つてゐる。門限におくれまいと日本の兵隊が颯爽と通る。ねぢ鉢巻きでバナナをたたき売ってゐる。お嬢さんがお花の稽古から、花の包みをかかへて、ゆるやかな御散歩。ものみな一切が「日本」の氾濫だ。おまけに、そこの裏通りに入れば「長唄師匠」岡安なにがしの看板や、盆石師匠の看板に、「あんま」「マッサーヂ」「女かみゆひ」-おお、なんと、日本人は自己生活を、他人の国に拡張展開することの巧妙にして、無遠慮な民族であることよ。清楚な満洲婦人が、おのぼり日本人に、ぢろりと見られるのを機恥かしげに、伏し目勝ちで夜店をあさるところ、ここは今、横浜か神戸かとの主客倒錯を与へぬものでもない。それほど「日本」は、今、新京に力強くして、根太い呼吸をつづけてゐるのだ。〔……〕かくてここ一年そこそこ以来の新京は、満洲街の城内に行かぬ限り、その風物の一切が「日本」の氾濫であり「日本」の躍動だ。底知れぬわが国威国権の伸長は、まさに、瞠目に値ひする。」(398-399頁)
- 関東軍司令部
- 西公園
1936
長與善郎『滿支このごろ』、岡倉書房、1936.8 【1257855】
【作家】
国境視察。哈爾濱から記述が始まり、新京については記されていない。
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哈爾濱
- キタイスカヤ街 119-121頁 76-77コマ
大房暁 『鮮満紀行』、岡文社、1936 【1104244】
【静岡県教委委託】
- 馬丁を雇い宮内府へ
- お粗末な宮内府
- 実際に見た心象より第一期五ヶ年計画を紹介するだけという論調。
- 商店街、官舎、南嶺戦跡
東海商工会議所聯合会満鮮視察団 『満鮮旅の思ひ出』、名古屋商工会議所、1936 【1028739】
【商工会議所】
哈爾濱
- 69-70頁 49、50コマ
中根環堂『鮮満見聞記』、中央仏教社、1936
【曹洞宗僧侶】
- 近代建築と日本人の誇り
- 南嶺と寛城子の戦跡
- 「殊に南嶺に殊勲を立てられた倉本少佐始め4基の記念碑が並列するのを観て一層その感を強くし、心から崇敬の念を深くし、皆様の犠牲に因つて吾々日本国民は今日の位置を得、枕を高くして寝ることが出来るのであると感謝の礼拝を捧げ、何となく去るに忍び難かつた。」(42頁)
- 忠霊塔
- 「〔……〕その荘厳なるに驚嘆し我国民の偉大なる力あるに感泣した。」(42頁)
広瀬為久 『普選より非常時まで』、自費、1936 【一般閲覧可能】
【満洲電気大会に参加】
- 駅前ヤマトホテルに休憩、寛城子無線送電所見学、忠霊塔、関東軍司令部、大同大街、大同広場、文教部、文教部内・建設局(屋上で計画大要の説明 建設局周囲は、国都建設の中心地にして、大同広場より大道路を放射す。近代式建築物を観る)、南嶺戦跡、満洲国事業部、宮内府、国務院、関東軍司令部、午餐会の会場は「大陸春」、ヤマトホテル、満洲国皇帝陛下拝謁
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奉天
- 見物 城内の記述 21頁 99コマ
哈爾濱
- 見物 周遊及び博物館の様子 37頁、107コマ
本多辰次郎『北支満鮮旅行記 第2輯』日満仏教協会本部、1936 【一般閲覧可能】
【宗教史研究者】
- 外交部、日本領事館、大使館、大谷派本願寺別院、鄭孝胥総理邸、羅監察院長邸、文教部、本願寺でロシアパンを食す、長春県立女子中学校、新京特別市第三小学校、「純然たる漢人の生活」(漢人の資産家の家の見学、富裕層)、露西亜レストラン、ロシアダンス。市街散策
- ロシア人消費
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奉天
- 博物館 46頁、26コマ
新京
- 満人上流階級の生活、54-55頁、30コマ
満支視察団記編輯部『大阪より満鮮北支へ』、満支視察団記編輯部、1936
国会図書館内部でのみ閲覧可能
1937
有田芳太郎『鮮満北支の旅』、自費、1937
国立国会図書館でのみ閲覧可能
石川敬介『満洲をのぞく』カニヤ書店、1937 【1231894】
- 訪問場所
- 近代性
- 「先づ駅頭の感じは、唯馬車が多い以外には余り異郷に来たとは思へないやうな近代都市」(17頁)
- 歓楽街と日本人都市
- 新京内の交通インフラ
- 「広い街路には全く電車は通さず、大衆の交通機関としてはバスが用ひられるとの事です。しかし今日では馬車が一番多く、又最も安価な乗物として広く利用されてゐます。しかも彼等馬車仲間には決してお客争奪の競争もなく、到つてのんびりと所謂大陸的にやつてゐます。大体4人迄10銭か20銭で何処へでも行ける程度です。」(21頁)
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新京
- 附属地の西公園に満人の利用者が多い様子 19-20頁 25-26コマ
- ダイヤ街、新京銀座 20頁、26コマ
- 寛城子 20頁、26コマ
岐阜県社会教育課『鮮満視察輯録』共栄印刷所 1937【一般閲覧可能】
【岐阜県青年連合】
哈爾濱
- 歓楽の哈爾濱
- 各視察団が夜の哈爾濱のみを目的に数日を哈爾濱に暮らす 80頁、43コマ
- 露西亜人街・満人街・日本人街及びそのサービスの視察
中島正国『鮮満雑記』、自費、1937 【一般閲覧可能】
- 新京神社に額づく
- 関東軍司令部訪問(40-41頁)
- 「西公園の緑を距てて巍々として聳ゆる大建築、本館を中心に前後・左右・中央に羽翼にの陣を張り、三層の上に天守の櫓めいた単層若くは重層の高楼があつて堂々たる偉容で、仰ぎ見れば菊花御紋章が燦として輝き尊厳の感にうたれる」
- 「屋上に昇つて市街を展望するに東西南北際涯を知らず、無数の大建築が或は成り或は営まれつつあつてその大観は想像以上で、これが人力で行われつつあることかと思ふばかりであつた。」
- 市中見物
- 国務院、宮内府、清眞寺、関帝廟、南嶺戦跡、観光廟造営地、交通部、財政部、学政部、世界紅卍学会、皇宮予定地
- 予定地の東西に萬壽大街、前面に順天広場、順天大街が其処より起こり安民広場に連り、安民広場は安民大街に通じる。
- 西萬壽街を廻り、国務総理官邸、外交部、電々会社(丸ビル等よりはるかに大)、文教部、国都建設局、中央銀行、康徳会館、忠霊塔
- 忠霊塔
- 忠霊塔の遺骨について→「遺骨は内地家庭に送りたるものの一部の分骨を、一柱毎に高さ5寸に三寸角の木箱に納め、正面に所属部隊官位氏名、行年、右側に死亡年月日、場所、死因、右側に本籍地遺骨発送稀先及其の宛名が明記してあるとのことであつた」(46頁)
- 新京の孔子廟はどこにあるか分からず視察できず
- 新京で夕食
福徳生命保険 『鮮満事情 : 文部省推選派遣教育家の見たる 昭和12年版』福徳生命保険 1937
吉岡栄亮『鮮満紀行』、自費、1937
【鮮満視察旅行団に参加した回想録】
- 都ホテル宿泊
- 自動車で移動、新京神社へ
- 寛城子戦跡へ
- 南嶺戦跡
- 「忠勇護国ノ鬼トナレル英霊ヲ祀レル高碑ノ前二佇立シテ涕涙滂沱タルヲ近セサルモノアリ」(5頁)
- 国都建設局
- 市中観察(詳述なし)
1938
岩崎晴子『満鮮に旅して』、竹柏会 1938 【1208149】
- 大和ホテル
- 満鉄会社社宅訪問
- 自動車で市中見物→官庁諸会社の建物の立派さ、整然と広い道路、高低を利用した土地利用(低地を公園として灌木を植える。)
- ロシア料理
- 新京飛行場、航空機で哈爾濱へ
奉天
哈爾濱
- 飛行機にて新京から哈爾濱へ
- キタイスカヤ街のモデルンホテル キャバレー・ファンタジア 56頁、43コマ 58-59頁、46コマ
大橋克『満鮮北支紀行』、小寺印刷所 1938 【1034225】
【三重県農会】
移民視察の記述あり
哈爾濱
- 犬と支那人は入るべからず 27頁、26コマ
- ハルピン満蒙拓殖訓練所・天理村 28-30頁 27、28コマ
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938 【1257960】
【経済人・新興鉱業研究家】
- 新京駅、満蒙ホテル、各中央機関官公署、在満銀行会社地帯、中央大路、大厦高楼、関東軍司令部
- 関東軍司令部を見て誇りを感じる描写
- 「宛ら守護神の如くある我関東軍司令部の、アノ燦たる菊花御紋章を仰ぎ見る時、如何に日本人たる事の幸福と誇を感じる事か、私は暫し雨の路上を門前に胸を張つて立つたのであつた。」(89頁)
- 新京の歓楽街について
奉天
- 城内の様子 満人街 46-48頁 33、34コマ
新京
- 新京夜話 98-99頁 63コマ
哈爾濱
- 傅家甸の様子 104-105頁 66コマ
- キタイスカヤ 106-110頁 67-71コマ
田中智学『渡満紀行』獅子王文庫、1938
【宗教家】
- 新京観光
- 「〔……〕新京の観光といふことになツた、劈頭第一に新京神社に参拝し、忠霊塔にもお詣りをすまして、市中の見物もやりたいはやりたいけれども、兎に角満洲事変について生々しい物語を事実に結晶した戦跡ともいふべき南嶺に赴いた。〔……〕目の辺り其の兵舎や何かの現状を見て、生生しき戦死者の墓を展するに及んで、其の感慨は一層深いものがあツた」(159-160頁)
- 軍司令部
- 「特に目につくのは軍司令部の建物で、これは城郭に擬したやうな建物で如何にも新京の全体を睥睨して巍然として建ツて居る姿は、非常に要領を得たものだと思ツた」(163頁)
マルサン織物工業組合『北支満鮮視察報告日記』、マルサン織物工業組合 1938
主に人絹の話が中心である。
新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938 【1245618】
【キリスト教信者/盲聾とあるが全く見えず聴こえないわけではない。ぼんやりと見えているし、聴こえている】
新京
- 新京駅 → 駅舎の壮大さ、駅前の様子(馬車あり、人力車あり、自動車あり、それぞれ金切声を挙げて客を呼ぶ)
- 朝日通の新京日日新聞
- 日本総領事館
- 中央大通の大新京日報社
- 新京聖教会
- ヤマトホテル
- 「満鉄直属のホテル丈あつて其の構えは堂々たるものだ。欧米の先進国のそれと比較して何等の遜色はない。外観の美は内部の整然たる設備と相俟つて、欧米人に対するプラウドである」(121頁)
- 満鉄白菊倶楽部(講演を行う)
- 忠霊塔
- 寛城子
- 戦跡
- ロシア人街(「市街は純ロシア式で、風俗も新京が満洲風であるのとは非常な相違である。布で頭から頬冠りしたロシア婦人や栄養不良らしい老人なども多く見受け、民族衰退国家滅亡の悲壮な状態をまざまざと見せ付けられた」(129頁))
- ロシア人経営のレストランにて食事
- 南嶺へ移動(興安大路、大同大街、官庁街の諸官衙、)
- 南嶺戦跡
- 当時の戦況を偲んで感激する様子。
- 大同大街
- 官庁を建設するために盛んにおこなわれている工事の様子。
- 安民広場
- 順天広場
- 関東軍司令部
- 「上部は古代の天守閣の優美を備え、下部は洋風の現代的な堅牢なものである。思ふに東西文化の特有性を採つた事であらう。而かも堂々たる威容は他を圧せずんば止まぬ一種の権威である」(142-143頁)
- 商埠地
- 人馬の来往が盛ん、各国各人種の人々が交わる、ビジネスセンターとしては米国ロサンゼルスよりも殷賑、日本総領事館の所在地、国都の商業中心地としてまだまだ膨張する期待性。
- 附属地
- 城内
- 青年会館で講演
新京
- 商埠地の様子 142-143頁 91コマ
日本旅行会『鮮満北支の旅 : 皇軍慰問・戦跡巡礼』、日本旅行会 1938
基本的に訪問先を羅列的に書き並べているだけである。
- 新京駅
- 駅前の国際観光局で一休み、自動車に分乗して見物
- 後藤総裁の発起で建てたヤマトホテル、日本橋通、金泰洋行、記念公会堂、伊藤公が哈爾濱に行く時の宴会場であった東公園、創業館、立法院、国都防衛司令部、満洲国監獄、宮内府、満洲中央銀行、紙の大房を軒端に下げた飲食店、赤煉瓦の満人中学校、軽便鉄道、新京総合運動場、白亜の新京気象台、野球場、赤屋根の中央警察学校、司法部法学校、南嶺、新京大同学院、陸軍官舎、建国大学、新京大陸科学院、中央庁、新京満洲国産業部、最高法院、安民広場、周囲1周半皇居予定地、交通部、司法部、国務院、順天公園、治安部、参議府、諸大臣官邸、高さ45米の給水塔、西北高等学校、総務庁官邸、総理大臣官邸、外務局、新京中央幹線道路、忠霊塔、満洲電々会社、満洲中央銀行、大同広場、市公署、市立病院、首都警察庁、東拓会社、三井支店、康徳公館、満洲映画協会、関東軍及び駐満司令部、満洲興行銀行、関東局、西公園(模範的公園で寛城子戦没者の忠魂碑が立つ)、新京神社、新京ホテル、自由行動
平野亮平『満支旅行日記』、自費、1938 【一般閲覧可能】
【産業視察】
- 国都ホテル
- 視察
- 吉林街道をドライブ
- 満洲国皇帝が初めて観兵式挙行された時の御野立所がある丘へ。小高い丘があって記念碑が立っている。
- 新京中銀倶楽部
- 富田興業銀行総裁の催にかかる午餐会。
- 総務庁訪問
- 西公園の散歩
奉天
- 市街見学 城内 吉順絲房、 28-29頁、23コマ
松本佐太郎『鮮満北支たび日記 : 附・鮮・満・北支の陶業調査報告』、自費、1938
【陶業】
陶器の写真がメインだが、行程表があり、各地の訪問先が分かるが、都市に関する記述はない。
村松益造『黄塵紀行』南塘文庫、1938 【1228746】
【満鉄支援により満洲で行われた全国図書館大会の主催者として旅行に参加】
- 新京1回目
- 新京開発の様子
- 「クレーンの響!電気ハンマーの轟き!全市を震はす建築の喚響は、近代都市への勇壮なる行進曲である」(82頁)
- 大同通りの豪壮な康徳会館内康徳製粉会社に立ち寄る
- 夜は「弥生」で日本料理の饗応
- 日満軍人会館で全国図書館大会
- 昼は新京大和ホテル「中央飯店」
- 新京開発の様子
- 新京2回目
- 哈爾濱より戻り、再び新京に立ち寄る。
- 南嶺戦跡
森田福市『満鮮視察記』、自費、1938 【1257948】
【広島県商工団会長】
- 新京ホテル
- 相当部屋に対して不満があったのか、新京ホテルを散々に扱き下ろす叙述をし、大和ホテルを使用しなくては駄目だと読者に忠告している。
- 関東軍司令部
- 関東局
- 「中央通の大道路を挟んで関東軍司令部の東隣にそびゆる白亜の大庁舎関東局〔……〕」
- 中銀倶楽部
- 満洲料理店「宴濱楼」
- 夜の新京情緒を見学
- 大馬路の鹿鳴春
- 観光バス
- 南嶺戦跡
- 特急あじあで哈爾濱へ
- 「特急「あじあ」此の名は一行の人々が日頃一種のあこがれを持ち、乗車を楽しんで居たのであつたが、かうして落ち付いてみると、その乗心地は又格別である」(172-173頁)
新京
- 夜の新京 167-168頁 97-98コマ
哈爾濱
- 哈爾濱 裸踊り 185-186頁 106,107コマ
- 哈爾濱の1日 186-194頁 107-111コマ
山形県教育会視察団『満鮮の旅 昭和13年度』、山形県教育会視察団 1938 【一般閲覧可能】
- 満洲に流れて来た朝鮮人
- 「満洲に来てゐる鮮人には頭のいいのが有り、日支関係はどう、日満関係は如何と、ちやんと読んでゐて、満拓あたりから農耕資金を貸りても「国策会社で何も返金を迫らなくともいいでせう」とか何とか云つて中々返済しない。自分がしないばかりか附近の満人にも不払をけしかける。それで居て補助や救済は強く是を受けようとする。事変前に「我々は日本人だ。お前たちの云ひなりになつて居れるか」等と村の満人の名望家の村長の云ふ事などに中々従はうとしない。今度は満人側から民族協和じや無いかと云はれても中々村の事に協力しない。見栄坊で、もつと貯蓄も出来るのに徒に衣食のため浪費する。きたない小さな家に住んで居ても外出には随分立派な衣服を身に着ける。奥地の者はわざわざ都会に出て来て浪費する。人の恩を受けても感謝の心が薄く御礼の手紙を書く事は中々しない。大体満洲に来てゐる半島人は日韓合併後来た者が多く、又沿海州に渡りロシアの政治に堪え得ずして渡満した者が多いから必然かうなるので有らうと云ふ。」(59頁)
- 「孔子塚」
- 「大同外民生部の隣、紅萬字会本部前のペーブされた道の一側に、小高い十何坪ばかりの丘が有つて一本の大木を背にした祠らしいものがある。沢山の扁額が納められて居るし、参詣する人も相当有り、香煙縷々で無しに、こちらの風習で有らう線香が燃え上つてゐる。新京の表玄関からの此の大同街のしかもペーブされた大道のただ中に此の古風な祠の有るには誰も奇異の感がする。」(60頁)
移民村
- 弥栄 26-コマ~(途中・中断)
長與善郎『少年滿洲讀本』、日本文化協會 : 新潮社、1938.5
【架空の親子の満洲旅行を題材とした案内記】
- 政治の都市新京
- 「それにしても新京の特色が哈爾濱や大連とちがつて、矢張政治、軍事の中心といふ所にあることは、駅前広場に降り立つてみた第一印象ですぐ判る。関東軍の印のついた自動車や、何々部といふ役所の自動車が忙しげに走つてゐる。」
保田與重郎『蒙疆』、生活社 1938.12
- 蒙疆が中心で新京に関する記述は見られない
1939
東文雄『朝鮮・満洲・支那大陸視察旅行案内』東学社、1939
- 満鉄における支那人・満人の利用
- 隆盛の途中であるという気分
- 市街見物
- 「市街を見物するとすれば、駅附近を中心にして、新京神社、忠霊塔、寛城子戦跡、宮廷府、大馬路、南嶺戦跡、南湖、安民広場、興安大路、三中井百貨店、新発路、八島通といふ順で廻つてくれば一通りの新京の街を見たことになる。団体で行けば貸切の大型バスに乗れば割安だし、定期遊覧バスも出てゐる。遊覧バスの方は料金は大人一人一円五十銭、小人75銭である。娯楽機関の方では日本映画館もあるし、支那の芝居もあるし、また遊興の巷も所々にあつて一通りは揃つてゐて事欠くやうなことはない。」(38頁)
- 日本的な新京
- 「万事が日本的で、新京へくると大陸的といふよりも日本的であるため異国的な香りはそれほど濃厚ではないのである。」(38頁)
岡山県鮮満北支視察団『鮮満北支視察概要』、岡山県教育会 1939
杉村大造『満支へ気ままの旅へ』箱館経済協会、1939
- 観光地としての新京
- 建築物と新京の観光資源
- 「〔……〕国都新京の雄々しき建設と其の建築物の広大にして郷土色あり文化色ある建物のどれもが、観光の対象とならぬものもない」(45頁)
- 新京交通株式会社による観光バス運転サービス
- 観光協会の活動
- 「特に我の注目を引きたるは、観光協会の活動である、日本国際協会の建物二階を利用し、且新京交通株式会社の観光バスと相提携し、観光バス巡覧券の発売及案内を業務とする外、満蒙研究案内に専門家を聘して能く此等の旅行者のよき説明相手となつてゐる殊に新京土産品陳列を兼ねて販売の業務をも掌つて旅行者に百パーセントの満足を供すると共に土産品の向上発展に資せるは、誠に理想的といはねばならぬ、尤も観光協会は、特に新京駅前の地の利を得たるものありと雖も、其の着眼点は確に観光そのものの真意義をキャツチし、能く利用したものといふべきである。近事観光施設に対して、非常時局の折柄兎角放任になり勝なるも、こは観光そのものを今尚昔ながらの遊山気分とのみ誤認せるの結果であつて、真の観光こそ国の姿の顕はしである、その郷土の姿の顕はしである、見えざる産業たる所以も此意義に外ならぬのである。」(46頁)
1940
全国中等学校地理歴史科教員協議会『全国中等学校地理歴史教員第十三回協議会及満洲旅行報告書』、全国中等学校地理歴史教員協議会 1940
第一 第13回全国中等学校地理歴史教員協議会の経過-(三)第13回全国中等学校地歴教員協議会-(2)新京滞在中の概要記録
第二 満洲視察旅行記-(二)B班旅行記
- 新京駅
- バスで新京宿舎へ移動
- 徒歩で忠霊塔広場、宮城遥拝
- バスで市内見学
- 忠霊塔広場出発、中央通、新京神社(可なり落ち着きのある社殿)、駅前、日本橋通、旧商埠地(汚らしい感じ)、興運路の突き当りが宮廷府、(石柱と鉄の扉の正門は立派だが、それに続く石の塀の赤塗は一寸奇妙な感じである。殊に附近に貧しげな家があり、豚が遊んでゐるのは尚更だ)
- バスで興運路を戻り、純満人街の大馬路に出る、賑やか。長春大街は建物が少ない、大同広場の手前の般若寺(近代的寺院建築)、大同広場は現在新京の中心地、中央銀行・満洲電信電話会社、首都警察庁、府公署等の壮麗な建築物が集ってゐる。市公署の屋上に上つて、完成に近づきつつある国都の大観を恣にしつつ、国都建設局の職員の話を聞く。
- 話の終了後、更にバスで大同街を行き、内務部・民生部・経済部等の建築を眺めつつ、至誠大路に曲る。動植物園、総合運動場を経て南嶺戦跡へ。
- 饅頭事変戦跡記念碑を拝礼、バスガールの上手な説明、倉本少佐、土田勉上等兵等43名の戦没将兵の墓標に、深い哀悼の意を表して、バスに乗る。
- 建国廟、建国大学・小講堂、寄宿舎
- 産業部、合同法衙、交通部、司法部、治安部、国務院等の中央政府所官衙を見乍ら、順天大街を行き、宮廷建設地前を経て、興亜街を真直ぐに寄宿舎に戻る。
大陸視察旅行団 『大陸視察旅行所感集 昭和14年』、大陸視察旅行団 1940
【東京女子高等師範 学生旅行】
- 木村都「満鮮に旅して」
- 「新装の新京にこそ、最も新満洲国の面目が見られるわけと、意気込んで都入りをした。車を連ねて私達は新京の街を走つた。その時の感激こそ、私は北鮮に於けるそれと並べて、今度の旅行の最大の収穫に数へたい。ここには、私達が夢にのみ見てゐた近代科学都市が実現されてゐる。而も、之は日本人が作つたのだ〔……〕兎に角、新京のすばらしさは実際に行つた者でなければわからに。ここに来るまで、多少私の心に巣喰っていた疑惑も、うすぐらい議論も、一切吹き飛ばして私は晴れ晴れとした明るさで背が伸びる様な思だつた。本当に日本の国は驚くべき国だ〔……〕自分も新京を作った中の一人である様な錯覚に一寸おち入つた程であつた。」(17頁)
- 中村スマほか「紀行」
- 旭ホテルに対して酷評
- 「駅のすぐ左手の旭ホテルに着く、不潔な騒々しい旅館だ。女中さん達の下品さも不愉快だ。」
- 観光バスで市内見学
- 新京駅前から南に一直線に走る大道大街、新京神社、軍司令部、忠霊塔、宮廷府、南嶺、宮廷御造営地
- 旭ホテルに対して酷評
- 宮本静子「街頭所見」
- 「一体に満洲のどの都市に行つてもの事であるが、日満それぞれの街が余りにも確然と隔たつてゐる事である。未だ建設日も浅く、城郭文化の余波は仕方がないのかも知れぬがせめてメインストリート位は、日満文化の生粋を集めた、日本人も満人も気持ちよく歩ける街でありたい」(207頁)
- 高橋津留子「新京城内を見学して」
- 城内の印象
- 大蒜のかおり
- 「すれ合ふ人毎から、思はず顔をそむけたくなる程の大蒜の香が発散して来るのだつた。丁度、朝鮮から満洲にかかつた列車中で、満人のいり込んでゐる箱に渡つた時にかがされた息苦しくなる程の大蒜の香を思い出す。」(213-214頁)
- 纏足について
- 人種的偏見
- 「来る人も会ふ人も周囲は満洲人の姿。大蒜の香をはきかけられては人種的嫌悪が私の気持ちをぐつと、しめつけて自ら自身の心の殻の中に満人に対する蟠り、恐怖を抱かせるのだつた。それは言葉の全然通じないといふ事も確かにその原因をなしてゐると思はれるのだが。路傍で瓜をかぢつてゐる男、屋台屋で白い粉をすすつてゐる老爺、彼等は凡て鈍重な眼、無表情な顔、それに細目に開けてゐる口が一層顔にしまりのなさを與へてゐるのだつた」(214頁)
久米正雄『白蘭の歌』、新潮社、1940年
- 概要
- 測量技術を持ち支那語を操る叩き上げ系満鉄社員が、4人のヒロイン(故郷の田舎の封建的な日本娘、教育を受け自立した雄弁な日本女性、満洲育ちの満鉄の令嬢、主人公の支那語教師役の満人娘)と複雑な恋愛劇を繰り広げる話。
- 危篤の父親の見舞いに故郷である群馬の赤城山麓に帰郷した際、父親の莫大な借金を引き継ぎ、父親に仕えていた女性を娶ることになる。父親は間もなく死ぬが、この娘はなんと主人公の弟と恋仲であったのである。父親の借金を満鉄の退職金で返済した主人公は、弟と共に拓士となり、娘を交えた満洲での開拓生活の中で、どちらと結ばれるかを決めることとなる。
- そのため主人公は満鉄の令嬢及び満人娘との女性関係を清算。開拓地に入り、開墾や灌漑設備の設計に汗を流す。主人公は弟の心情を知ったり、自己の態度を娼婦から糾弾されたりする中で、日本娘を弟に託す決意をする。主人公自身は自立した日本人女性と結婚しようとするが、そのヒロインは既に別の拓士と婚約してしまっていた。
- そんな折り、満鉄から新路線建設をするので再び力を貸して欲しいと再雇用され、測量に赴く。日本娘を弟に譲渡してきたわけだが、なんとその日本娘は測量地まで追いかけて来た。これまでただ従順なだけであった日本娘が男の為に立ち上がったのである。心を通わす主人公と日本娘。
- しかし主人公は匪賊との交渉の特使となった。そしてその匪賊の首領は、主人公が関係を清算した満人娘だったのである。満人娘は主人公との悲恋により赤化したのだった。だが主人公の口から、満人娘は実は日本人だったことが明かされる。満人娘はその事実を知ると驚愕、主人公のために匪賊を裏切ったため、戦闘に発展する。この戦いで主人公は満人娘と共に命を落としてしまうのであった。
- 主人公と満人娘の活躍により匪賊掃討は完了し、鉄道は開通。その汽車から花輪が投げられるが、慰霊に訪れたのは、主人公の弟や日本娘、雄弁な日本女性であった。
春山行夫『満洲風物誌』、生活社、1940年初版、1941年再版
- 観光バス
- 観光バスは駅前から出る。駅前の一郭をしめるのがヤマトホテル。駅前の直線の大通りが旧附属地までは中央通り、旧附属地を離れると大同大街と名称が変わる。先方8キロ先の建国大学まで一直線に伸びている。関東局、日本大使館を過ぎて、忠霊塔に着き参拝。寛城子に向かう。鉄道のガード下を越えると、三不管。日本、支那、ロシアの行政区域の境界で支配を受けなかった特異の場所。満人の店や市街がある。その道路の突き当りが昔のロシアの寛城子駅。附近にはロシア風建築が見える。寛城子戦跡で当時の戦闘状況の説明を聞く。ロシア人街にはバスは入らず引き返す。三不管の手前には密集した細民区。ガードをくぐって旧附属地に戻り、満人街を通過。満人百貨店や路傍の小盗児市場、バスは宮内府の前庭にとまる。仮宮殿を拝観。清眞寺拝観、回教徒の寺、宗教建築及び宗教彫刻。清眞寺の前には満人の食料品店の看板があり、遠近法で観兵式のように後方へ並ぶ一群の看板。長春大街を通り、都心の大同広場へ。中央銀行を始め、諸官衙が並ぶ。「新京のエトワール」。至聖大路を通り動物園のサルを遠望、中央観象台、大同学院、南嶺戦跡。「護国の英霊よ安かれ、と私はここでも、時代のこのやうな急激な動きに東洋の大きなドラマを思はずにはゐられなかつた。一つの国の建設が、奇跡によつて行はれたのでないといふことをこれらの英霊の名によつて、深く意識せずにはゐられない。」
- 夜の新京
- 夜になると国都建設局には静寂が訪れ、旧附属地域の日本人街が賑やかな遊歩の中心地となる。日本橋通り。金泰百貨店、映画館、満人街のある建物(おそらく新天地)、ロシア人レストランでロシア人女とダンス。
- 三不管見学
- 満人の商店街の様子を見学
- ビューロー
- 満洲事情案内所
1941
今村太平『満洲印象記』、第一文芸社、1941年9月
【映画評論家】
- 新京初日
- 新京2日目
- 寛城子スタジオへ、寛城子のロシア人住宅街、寛城子スタジオはかつての寛城子駅を利用している、新スタジオ、城内「新市場」、支那芝居小屋、バスで移動、中銀ホテル、ロシア料理屋でロシア人ダンサーを見る、ロシア人女性の悲哀
- ロシア人への目線
- 「帝国ホテルを真似たやうな中銀クラブに入る。暖炉では火があかあかと燃えてゐた。ここは新京の上流人の社交場らしい。給仕はロシヤの少女である。〔……〕ロシヤの給仕女の尖つた鼻先が寒さで赤らんでゐた。頬には血の気がなかつた。いかにも哀れな気がした。」(129-130頁)
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部 1941
【国語教師】
- 11時50分、新京着。駅構内の食堂で昼食。遊覧バスで市中を概観。バスは13時半新京駅を出発後、新京神社、忠霊塔、寛城子戦跡、宮内府、南嶺戦跡、国務院などを概観して新京駅に戻る。「新京は満洲へ行くほどの者は誰もが遊ぶところである」。ツーリストビューローで宿屋を斡旋してもらう。夕食後、女中から「新京銀座」へ行くことをすすめられる。12時半頃宿へ戻る。翌朝哈爾濱へ。
松井正明『鮮満一巡 : 附・転業対策卑見』、千葉東亜経済研究会 1941
【楽器店】
1942
大佛次郎『氷の花』、六與商会出版部、1942年3月
【作家】
- 新京で見る日本の力の影響
- 新京と植林
- 「〔……〕新京を歩いてゐて感じることは、樹が美しく繁つて来たなといふことである。この事実をいひ換へて見れば、人の心が落着くといふことだつた。僕が訪れた季節の秋晴れの光の中で、明るい木の幹や枝の間から、いろいろの現代的設備のスタデイアムに、若い人たちが薄着して運動に身をやつしてゐる姿を眺めるのは、未来をいよいよ希望深く感じさせるものだつた。」(47-48頁)
石山賢吉 『紀行満洲・台湾・海南島』、ダイヤモンド社 1942
- 美しい新京市街
- 「眼に入る新京の街は、眼の覚めるほど美しい。其処は、東京で云へば、丸の内のやうな処である。両側は、官衙と銀行ばかりである。それであつて、非常な美観を呈してゐる。丸の内は、寸尺を争ふて、ゴツゴツした建物が、すき間なく建てられて居る殺風景な街だ。余裕がない。覚醒した眼で見れば、個人主義経済のあさましさを、如実に示したやうな街である。新京は、新都市である。その建設は、理想的に運ばれたと予て聞いて居た。その理想振りが、街を一目見ると、直ぐ分かるのだ。丸の内のやうに建物と建物の連鎖でない。建物があると、樹木があり、樹木の次は建物といふ風にサンドウヰツチ式の構成になつて居る。「新京の土地は、凹凸だ。それを、都市構成に利用した。凹地を公園となし、凸地に建物を建てた」と森田君が説明する。成程、さうだ。建物と建物の間は只の樹木ではない。公園式に配列してあるのだ。〔……〕私達は、丁度、春の酣な五月中旬に、新京へ行つたのだ。街路に並ぶ揚柳が、芽を吹いて、杏の花が咲き、公園四季の新都市を飾つて居た。其処を、自動車が、アスフアルトの舗装道路を、心地よく、疾走するのである。」(73-74頁)
1943
阪井政夫『自動車人ノ見タ満洲』日満自動車界社、1943
藤本実也『満支印象記』、七丈書院 1943
【養蚕研究者】
鮎沢幸雄『満洲旅日記』、自費、1943
- 新京風景
- 「駅頭に群集するマーチヨ、市街に美しい鈴の音を残して、夕陽の中に鬣を振る馬、豊かな異国情緒に皆挙つて乗つて市内見物にでかける。美しく整備された発展性を、将来に約束されたこの新しい国家の主都(ママ)は秋も既に深く、楡の葉が鋪道の石畳に散つて風に弄ばれてゐる。興安路や寛平路附近の整然たる住宅街、ペーチカの煙りは大陸の茜色の空に流れ、楊柳の木立の下姑娘の楚々たる散歩姿、美しい満洲服の下に秘めた燃ゆる血汐はやがて大満洲国を育み培つてゆく力の源泉でもあらうか。店頭の物資も驚く程豊富で、更に馬車を駆つて大同大街をつつ切つて、至聖大路附近に至ると法院、農政部、交通部等の国家枢要の官衙が適当の間を隔てて聳え電車道を横断して、丘の彼方に延びる大同大路の末は高粱の畑の中に迄延び切つてゐる。吉野町辺の賑はしさ、どうして之が内地を遠く離れた大陸のまつただ中と思ふことが出来やうか。」(7-8頁)
1944
田畑修一郎『ぼくの満洲旅行記』、児童図書出版社、1944年
【児童書】祖父母への手紙で満洲を紹介するという形式】
- 大同大街
- 「〔……〕大同大街のはじまるあたり、少し坂になつたところに立つて、南の方を眺めました。幅が60米もあるといふ広い広い通りは、両端が歩道で、真ん中は遊歩道、その間では車道になつて、並木が四列に植ゑられて、はるか目のとどくかぎり、いかにもゆつたりと美しく、まつすぐにのびてゐます。この大同大街の両側にはせせこましくない、大きな建物がいくつもいくつも立つてゐます。ほんたうに、胸がすつとしました。」(97-98頁)
- 満洲における忠霊塔の役割
- 「ぼくたちは先づ児玉公園に入つて、そこから忠霊塔の前に出ました。明るい明るい大空に、いかにもどつしりとした形のいい塔がたつてゐます。高さは35米もあるさうです。塔の下の方には大きいのから順に屋根が三層ついて、ずつと上には、まだ二層の屋根がついてゐます。それは、奉天の北陵で見たやうな、黄色い瓦で、いかにも満洲らしい感じがします。ここには、前関東軍司令官武藤信義元帥をはじめ、寛城子や南嶺の激戦で戦死された英霊をおまつりしてあります。旅順の表忠塔や納骨祠、奉天の忠霊塔でもさうでしたが、ここでもこのどつしりとした忠霊塔の前に立つと、なんだか身体がじんじんするやうに思ひました。」(98-99頁)
- 「そのとき俊をじさんはいひました。「これから先き、乙彦君もやがて見るだらうが、都会に忠霊塔が立つてゐるだけでなく、満洲中どんな小さい駅へとまつても、日本人のお墓が立つてゐない所はない、といつてもよいくらゐだ。それを見ると、今のやうにりつぱな満洲国ができるまでには、日本人の血がどんなに流され、どんなにたくさんの骨をこのひろい満洲に埋めてゐるか、といふことが身にしみてわかるだらう。」」(99-100頁)
- 大同広場
- 「大同広場は、わけても、美しいところです。ぐるりには、どつしりとした大きな建物が立つてゐました。あちらの建物には、屋根のついた塔がついてゐます。こちらの建物にも、またちがつた形の塔がついてゐます。これはみんな、日本の建築する人々が新しい国都をつくるために、苦心をして一生けんめいに建てた物ださうです。ほんたうに、みんなが力をあはせたので、こんなにすばらしい都ができ上つたのです。広場には、いろんな植込や芝生や、並木が、美しい模様をつくつてゐます。ひろいひろい空と、透きとほるやうな明るい空気、その中で木々の緑は建物としつくり似合つて、何ともいへぬ、こころよい気持がします。そして、かういふこころよい気持は、大同大街をどこまで歩いて行つてもつづきました。ほんたうに、新京といふところは、いろいろな形をした美しい建物のある都会だ、と思ひました。」(100-102頁)
寺本五郎『大陸をのぞく』紀元社、1944
【不動貯金銀行頭取】
- 「国都たるべき新京の大都市計画の相貌を睹るに、最初より雄大なる構想の下に、道路を先づ完成し、区画を立て、国都に相応しい建築を以て打ち建てられ、所々に緑地帯、公園を挟み都市美を書き出して、内地の丸ビル街をも凌駕する所も随所に窺はれ、個々の建物としても、満洲中央銀行、関東軍司令庁、国務院、満洲電話電信株式会社等は我国の議事堂、丸ビルにも劣らざるものがあり、然かも日本式、支那式、洋式を巧みに織り交ぜて一種云ふべからざる荘重と森厳さを保つてゐる。我国の二倍にも相当する満洲国の国都としては、自然広大なる建物を要求する。一面また満人、露人、中国人を対照して考ふる時は、好むと好まざるとに拘らず、高層なる建物を勢ひ建てざるを得ない。我々は此の十年の短期間に斯くまで立派なる新京を建設した日本の偉大なる国力と、絶大なる精神力に対し、満腔の感謝と深甚なる敬意とを表する。」(118-119頁)