陸軍大学校教官陸軍砲兵中佐宝蔵寺久雄による旅行記。
1933年4月25日~5月24日、陸軍大学校の満洲戦跡旅行が行われた。
巻末に旅行経過表が掲載されており、そこから旅程や経路が分かる。
序文に無軌道とある通り本文は時系列通りに掲載されているわけではない。
陸軍の戦跡旅行であるため、軍事面や国威発揚、「非常時」から満洲認識を唱えている。
旅程と旅行内容
- 4月25日
- 4月26日
- 広島
- 4月27日
- 下関 金海旅館
- 4月28日
- 門司出発
- 4月29日
- 航海
- 4月30日
- 大連着
- 「午後9時上陸、埠頭に集る苦力の物珍しげなる群を掻き分けて満洲に第一歩を印したのである」(21頁)
- 大連着
- 5月1日~2日
- 旅順戦跡見学
- 白玉山の忠霊塔に参拝
- 水師営
- 乃木・ステッセルの両将軍の劇的光景を偲ぶ。
- 望台
- 「旅順の堡塁砲台で肉弾の戦跡ならぬものは一つもないが、此望台は八月第一回総攻撃以来第九第十一師団の突撃隊を全滅せしめた追懐深き山である。」(30頁)
- 旅順の戦跡を見て、忠国愛国を説く。
- 爾霊山
- 「我等は今此の山頂に於て当時を追懐し此の山を奪取し得たる所以は攻略精神の旺盛と統帥意志の強固とに原因せしに相当し修養更に百歩を進めざるべからざるを痛感し先輩の霊に額いて其冥福を御祈り申上げた次第である。」(37頁)
- 旅順博物館
- 契丹ミイラを見て生じる満支の別→「〔……〕満蒙の民族は考古学人類学に依れば漢民族とは全然別個の民族であつて満洲其者は通古斯(満洲民族)の故土である。有史以来ツングース族は粛慎、高句麗、渤海、契丹、金、元、清と其威を振ひ遂に関内にまで進出して国号を遼と号したのであつた。契丹は元来蒙古族と通古斯族との雑種だそうである。契丹文字の碑文で規模雄大なものは解読者が無いとも聞いた。支那へ攻め入つた愛新覚羅氏の清朝は元来満洲族で彼の漢民族及び支那本土の民族は被征服民族である。契丹や通古斯は漢民族の所謂北狄である。支那革命でも興漢討満と彼等は叫んでゐる。従つて歴史上満蒙は支那本土と大した関係はない。」(39頁)
- 満鉄について
- 「満鉄は皇国の国防戦線、生命線の大動脈である。又国防上国運を賭して獲得し、国防上之に生命を注ぎ且国防、経済上生命線を為す鉄道である。」(44頁)
- 「1929年以後支那は第二の作戦として満鉄包囲計画を始めた(※引用者註-第一の作戦は張学良の南京政権への合流)。即ち併行線を作り葫蘆島に呑吐港作り満鉄を自滅に陥らしむとしたのだ。併行線は条約違反である。華府会議後図に乗つたる支那は、条約無視条約蹂躙の如きあ茶飯事としてゐた。」(46頁)
- 「昭和5年満鉄収入の激減二千数百万円に驚いた満鉄は満洲の主要なる輸出品の大豆高粱等に暫定的割引をするの已むなきに至り、満鉄は木村理事の外交交渉に依り多年懸案の既得鉄道権益を円満に解決せんとしてゐたのである。此の時支那の抗日は満鉄爆破となつて現れ、満洲事変の口火を切つたのであつた。」(48頁)
- 「〔……〕従業員諸君中には皇軍の健闘に感激して共に働きたる満洲系従業員が多数含まれていることを吾人は銘記せねばならない。正に日満異体同心の実は此処より挙がつたことを認めねばならぬ」(55頁)
- 「元来満鉄は半官半民の国防鉄道である。満蒙発展の国策鉄道である。否更に日露戦役十万の生霊に依つて購ひ得たる忠魂鉄道であり靖国鉄道であるのである。営利のみを目的とする会社でもなければ噂に聞く巷説の政党の食物では断じて無いのである。満鉄見学を三越百貨店見学の如く心得、又説明に於て営業振、採算振を高調したる時代があつたとするならば、それは邪の方面に走つてゐたのである。今日更生の満鉄、愛国の満鉄の話を聞き将来の計画を拝聴して満足したるものは決して我等一行のみではない。満洲の野に骨を埋めし十万有余の忠魂は今日こそ涙を流して地下に瞑したであろう。」
- 満蒙生命線
- 満洲は漢民族の本土ではない論
- 旅順戦跡見学
- 5月4日 新京
- 5月5日~7日 ※著者は一部先行者として飛行機で先行しており6日は公主嶺で宿泊。5日、7日は詳述なし。8日に四平街で合流。
- 公主嶺
- 5月8日 洮南
- 洮南
- 「我等一行は洮南の東站停車場に下車し、市民の出迎を受けて南満旅館に止宿した。客室は温突式で鮮人家屋に泊つた感がする。壁に沿ふて通路がある。日満鮮折衷式旅館だ。満洲事変前中村少佐、井杉軍曹の宿泊せし一室があつて祭壇を設け記念品を集めて当時を偲ばしむるに足るものがある。我々は恭しく礼拝し故人の霊に感謝の念を捧げたのである。中村少佐は洮索沿線懐遠鎮の西北約40キロの蘇鄂公府で屯墾軍の為に虐殺せられたのである。」(136-137頁)
- 「洮南の町は停車場よりも千米もあらうか。稍遠い感じがする。道路は凸凹で砂塵濛々塵煙の都、之がなくなる為には舗装植樹が必要である。」(133-134頁)
- 洮南
- 5月9日 洮南→斉斉哈爾
- 朝、洮南発。
- 嫩江及び昻々渓戦跡見学
- 斉斉哈爾
- 5月10日 斉斉哈爾→海拉爾
- 5月11日 ホロンバイル
- 5月12日~13日 哈爾濱
- 5月16日?
- 夜:武藤関東軍司令官閣下に晩餐会を開いていただく。(旅程では16日は公主嶺に宿泊しているはずであり、そこで懐徳県県長馬春田氏の招宴に出席している。)
- 5月16日~17日
- 5月18日
- 5月19日
- 5月20日
- 5月21日
- 5月22日
- 移動 鈍行 京城→釜山
- 釜山は夜、街頭の風物見えず。新井旅館に休憩入浴。関釜連絡船で出港。
- 5月23日~24日
- 帰京の為の旅行。「富士」に乗って帰る。
- 旅行を終えて
- 「以上を以て旅行は終わつた。短しと云えば短し、長しと云えば長し。併し其間に養ひ得たる精神は未来永劫に私を支配するであろう。又読んでいただいた人を通じて横にも広がるであらう。」(348頁)