新京、奉天と史料作成が進んだので、最後は哈爾濱。日本が建設した新京、清朝の古都奉天、そしてロシアが建設した都市である哈爾濱。これら3都市が満洲国の観光事業においてどのような役割を果たしていたか、各都市の観光資源・地域資源にはどのような機能を持っていたかを比較する。
『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)
哈爾濱の各地区
- 哈爾濱には7つのエリア
- 「市街は新市街、埠頭区、馬家溝、旧哈爾濱、ナハロフカ、八区、傅家甸に分れて居り〔……〕」(114頁)
- 新市街(南崗/新家崗)
- 埠頭区
- 馬家溝
- 「馬家溝は一部の露人間で「皇帝の村」と云はれ主として革命後の亡命露人の集団的部落で新市街に接続し日満露人の雑居する郊外住宅地で飛行場と兵営がある。この周囲は全く都会と思はれぬ牧歌的な情緒をもつてゐる」(115頁)
- 傅家甸(道外/濱江)
- 旧哈爾濱(香坊)
- 「旧哈爾濱は露国の植民当初に建設された街で満人間には香坊」と言はれ新市街から4粁、今は主として工場地帯となつて居る」(116頁)
- ナハロフカ(新安埠)
- 「ナハロフカは埠頭区の西に隣接し低地を成し満人は偏瞼子と呼んで居る。哈爾濱の貧民窟で近年白系露人が多く居を構へて居る」(116頁)
- 八区
- 「八区は埠頭区と傅家甸の間に介在し油房、工場倉庫等多く工業地区であると同時に鉄道貨物の取扱所で八区一帯に引込線が網状をなして居る」(116頁)
哈爾濱の名勝地
- 概要
- 「哈爾濱は露国帝政時代東洋のモスコーとして構成された都で30年の歴史に多端な露国の革命。変転を蒙むる事少なく往時の寺院と建築物を存し宗教的祭礼として異色ある基督洗礼祭、基督復活祭等があり異国調と西欧的雰囲気は非常に印象的である」(116-117頁)
- 伊藤博文公胸像と遭難地点標識
- 志士の碑
- 「新市街から旧市街に通ずる大街道の西南方に忠霊塔及日露戦争の折、特別任務を帯びて銃殺された沖、横川両氏、脇、中山、田村、松崎四勇士の碑があり永久に邦人の脳裡から忘れる事の出来ないものである。尚附近に、当時軍探偵として銃殺された、小林、向後両勇士の碑もある」(117頁)
- 博物館
- 「新市街中央寺院の脇にあり商工部、人類学部、生物学部、医学部等に別れ東清鉄道建設当時から満蒙関係参考資料が網羅されて居る」(117頁)
- 外人墓地
- 「新市街、大直街の北端、広大な地域に亙つてスラブ墓地、猶太人墓地、タタール人墓地があり十字架、シナゴーガ及弦月は夫々の宗旨を表すもので、ある意味でも最も異国的な処である」(117頁)
- 寺院(117-118頁)
- 「哈爾濱の市街美に大きな役割を果たして居るのは露西亜寺院の露西亜寺院の大伽藍で20余の寺院は帝政時代の名残を止め哈爾濱とは切り離す事の出来ないものである」
- 「ニコライエフスキー大寺院は邦人には中央寺院と呼ばれ露人はサボール(大寺院)と言ひ新市街内にあり様式は古代ギリシヤの寺院建築を模したものと言はれる」
- 「イエルスキー寺院 新市街大直街にあつて旧北鉄建設の犠牲者及び功労者追善の為め建立されたもので、附属墓地はこれ等の人々のみの墓地になつて居る」
- 「猶太仁寺院 埠頭区砲台街と斜紋街の二箇所にあり、猶太人は寺院を中心として相互扶助的な連絡を取つて居り円屋根の瀟洒たるものである。以上の外マホメツト教寺院、パプチスト寺院等がある。」
- 「行事としては1月6日(陽暦1月18日前後)に挙行される基督洗礼祭が有名で、此の儀式は今日世界で此処だけ行はれる特異な宗教儀式である」
【視察コース】
- 概要
- 「街全体が異国的雰囲気に包まれた哈爾濱では団体以外の旅行社は地図を片手に歩くのが面白いと思はれるが団体観光に就いては当地のジャパン・ツーリスト・ビユローに依頼すれば斡旋してくれる」(118頁)
- 普通に選ばれる遊覧コース
哈爾浜交通株式会社 編『ハルピン観光案内』哈爾浜交通企画課、康徳6(1939)
観光のハルピン(2コマ)
ハルピンは、40余年前まで「スンガリーの町」と呼び、松花江に面した一寒村であつた。
帝政ロシアは東亜侵略計画をたてて、明治31年の春、此処に東支鉄道の事務所を置き「東洋のモスコー」を建設しやうとしたのが仰々現在の50万都市第ハルピンになる始まりである。
ロシアは、斯様に、ハルピンを根拠地として、鉄道の敷設に掛り、明治36年7月には全線開通し、又、明治37、8年の日露戦争に際しては、此処に大本営を設置して、策戦計画、軍需品の集散に当つたのである。
斯くしてハルピンは、東支鉄道の発展と共に膨張したが、康徳2年3月、満洲国の鉄道買収によつて、日本人移住者が増加し赤系ロシヤ人は殆んど引上げて仕舞つた。
交通は、陸路の京濱線、濱州線、濱綏線、拉濱線、濱北線の始発駅であり、又、水産は、松花江をひかへてゐるので、水陸共に重要地点である。
従つて貨物の集散甚しく、輸出品の主なる物は北満の特産物、大豆、高粱等の穀物類で9割を占め、輸入品は石炭、麻、綿糸布、砂糖、セメント、石油、雑貨類が其大部分を占めてゐる。
此の街は、ロシヤ人の築いた都会だけに、全市は北欧的な異国情緒に富み、観光者を楽ませてゐるが、此処で忘れてはならないのは、日露戦争当時の隠れたる勇士横川、沖、等6志士と小林、向後、2烈士の悲壮な最後である。
是等尊い犠牲者の記念碑に参拝して、英霊を慰めるのも亦吾々のつとめであらう。
ハルピン名所案内(5コマ)
- 哈爾濱駅
- 哈爾濱神社
- 中央寺院
- 「1名サボールと呼ばれる哈爾濱最古のロシア寺院で、1903年に東支鉄道従業員の寄付で建てられたものである。」
- 忠霊塔
- 志士の碑
- 二烈士の碑
- 博物館
- 「大陸科学院分院で、館内には、北満の農、林、満、砿、漁業及地質学、考古学、宗教、風俗等に関する貴重な諸資料で充満して居る。」
- 孔子廟
- 「文廟とも言ひ民国18年8月張煥相閣下、張景恵閣下等に依つて建立されたのである。」
- ロシヤ人墓地
- 「緑と花に包れた大理石の墓標、その清浄美と荘厳美には思はず感にうたれる。」
- 傅家甸
- 「南満を飛び越えて、上海の文化を其儘取入れた街として余りにも有名な所で、住人は30万と言はれ、哈爾濱人口の三分の二を占めて居る。」
- 松花江
- キタイスカヤ
- 「鋪道に咲く陽樹、両側に並ぶ異国風の高楼、それに流れる日、鮮、露人の漫歩、エキゾチツクなキタイスカヤ風景」
- 地段街
- 「内地人のビジネスセンターとして商公会を始め銀行大商店や内地大会社の視点出張所等が軒を並べてゐる。」
哈爾浜観光協会 [編]『哈爾浜ノ観光』哈爾浜観光協会、康徳6(1939)
観光地
- 哈爾濱駅
- 濱江省公署
- 「哈爾濱市を含む北満の宝庫、濱江省行政の総本山は濱江省公署にして、元の北満特別区長官公署の建物である。長官公署街の名称はここから起こつた。」(4頁)
- 哈爾濱神社
- 博物館
- 「満蒙を科学的に認識せんためには本博物館の時を惜しんではならない。本館は商工部、医学部、生物学部並に人類学部の4部門に別れ、満蒙に関する貴重なる資料は悉く陳列してある。参観料一般人20銭、学生10銭」(5頁)
- 中央寺院
- 「ロシヤ人と寺院は宛も日本人と神社と等しく、彼らの殖民の最初の事業は寺院の建立である。市内随所に見るロシヤ寺院は嘗て彼らの栄華を偲ばせると共に彼等の宗教心の熱烈なるを物語つてゐる。本名はニコラエフスキー・サボールと云ひ、単にサボール(大寺院)とも呼ぶ。満人は喇嘛台と称す。古代ギリシヤの建築様式を採り哈爾濱に於ける代表的寺院である。」(5頁)
- 哈爾濱鉄道局
- 「元の北満鉄路管理局にして東支鉄道時代より建築、調度に善美を尽せる面影は向かひ合せの哈鉄倶楽部と共に今日猶ほ残つてゐる。東の牡丹江鉄道局、西の斉斉哈爾鉄道局と共に北満鉄道の総元締めであり、北満開発に貢献せる偉大なるものがある。」(5-6頁)
- ウクラインスキー寺院
- 「北満従業員の犠牲者を祀れる寺院で境内には墓地を有してゐる。」(6頁)
- 外人墓地
- 「「皇帝の命により極東第20旗のコマンドールたりし父、ミハイルの霊ここに眠る。」十字架を負ふて建ち並ぶ墓標の一つに斯ふした碑銘を見る。外人墓地は国外発展の先駆者たちの安らかなる眠りの地である。広大なる墓域は亭々たる緑樹に包まれ、閑寂にして清澄、如何にも最後の安息所に相応しい。」(7頁)
- ロバート高台
- 「傅家甸の南端にそそり立つ南崗の高台である。この高台に立てば傅家甸、八区、埠頭区及び松花江の一帯が浮刻りの如く一眺の中に収められ絶景である。」(7頁)
- 市立苗圃
- 「馬家溝川に沿ひ、王兆屯に跨り49万平方米に及ぶ広大なる地域を占める大苗圃でピクニツクの好適地である。」(7頁)
- 忠霊塔
- 「日露大戦、シベリヤ出兵満洲事変に於て陳没せる我軍警、一般人の英霊3466柱を合祀せるもので、この附近一帯は哈爾濱大都市計画によれば哈爾濱の中心地となる予定である。塔の高さは67米である。」(7-8頁)
- 志士の碑
- 「六烈士の事蹟は日露大戦を飾る悲壮なエピソードとして既に人口に膾炙せらるところである。即ち敵の鉄道爆破の使命を帯びて北京より蒙古路を辿り富拉爾基(フラルヂ)近くに潜入せる沖、横川、脇、田村、中山及び松崎の六氏は不幸敵軍に発見せられ、沖、横川両氏は武運拙く事半ばにして敵手に捕はれ哈爾濱刑場の露と消えた。一旦虎口を脱せる他の四氏も土民に匪賊と誤認せられて、襲撃を受け衆寡敵せず遂に蒙古高原に万斛の恨みを呑んだのである。志士の碑は六烈士の英霊を合祀せるものである。」(8頁)
- 小林向後二烈士の碑
- 「六烈士は民間側の代表的志士であるが、小林、向後両氏は軍を代表する烈士である。日露大戦酣なる時、敵状偵察の使命を帯びて小林中尉は向後一等卒を帯同、身を農民に身を寠し敵中深く潜入中、吉林附近に於て捕へられ、哈爾濱刑場の露と消えた。其の遺骸は行方不明中のところ30数年後、処も奇しき沖、横川烈士憤死の地附近に於て発見され、その地に記念碑を建立した。」(8頁)
- 国立大学哈爾濱学院
- 「旧名日露協会学校にして対露問題の第一線に立つ人物を養成する目的の下に後藤新平伯の提唱により設立されしものである。」(9頁)
- ソフイースキー寺院
- 「亡命露人の零細なる浄財によつて建立されたる哈爾濱に於ける代表的寺院である。竣工まで実に十数年の長日月を要した。白系露人の宗教的熱情をシムボライスしてゐると云ふも過言ではない。(道裡地段街)」(9頁)
- 伊藤公胸像
- 「明治42年10月26日、哈爾濱駅埠頭の露と消えし伊藤公を偲び在哈居留民会及び日露協会が発起人となり浄財2万円を募って胸像を作成、これを居留民会公会堂内に安置した。」(9頁)
- 地段街
- 「石頭道街、売買街、透龍街と共に日本人の密集地帯にして殊に地段街は日本大会社、銀行の支店及び百貨店等が終結し北満経済発展の中枢神経的存在である。」(9-10頁)
- 道裡公園
- 「埠頭区内最大の公園でロシヤ華やかなりし頃は支那人の入園を禁じたこともある。今日では市が経営し各種の施設を施し遊園地として尤たるものである。」(10頁)
- キタイスカヤ
- 「哈爾濱がキタイスカヤか、キタイスカヤが哈爾濱か……それ程キタイスカヤの名は有名である。日本人は哈爾濱銀座とも云ふ。ロシヤ人の商業街の中心地にして両側にはロシヤ独特の重厚なる建物が並列し、石畳の鋪道には散策の外国人が軽快なるステツプを運び、凡そ東洋色から掛け離れた雰囲気は旅行者にとり最も印象的である。」(10頁)
- 松花江
- 「キタイスカヤの北端に洋々として流れる大河は松花江である。ロシヤ人はこれをスンガリーと呼んでゐる。本江は上流を右折して長白山脈に、左折して小嶺安嶺享け、下流は満ソ国境を画する黒竜江に合流してゐる。哈爾濱は松花江の内懐ろに抱かれて生誕し、育まれて今日の大をなした。謂はば松花江は哈爾濱の生みの親である。鉄道建設前は北満唯一の交通路にして対露貿易の幹線であつた。現在でも二千屯級の汽船が巨姿を浮べて貨客の輸送に黒煙えを上げてゐる。江中には幾多の島嶼を有しキタイスカヤ対岸にも遠浅の島があり、これを太陽島と呼び別荘地帯にして、夏季は水泳場を兼ねた遊園地として賑ひを呈す松花江の落日は凡そ絶景である。」(10-11頁)
- 傅家甸
- 「傅家甸碼頭」
- 「哈爾濱駅が哈爾濱駅の表門とすればこの碼頭は哈爾濱の裏門である。この港には白鳥の如き優姿の客船、巨鯨の如き貨物船が蝟集して川下との交通に、貿易に、物凄い活気を呈してゐる。」(11-12頁)
近郊散策地
- 呼蘭
- 玉泉
- 「北鉄時代から避暑地として喧伝されてゐた。北鉄接収後は哈爾濱から運転される鈴蘭狩列車の目的地として声価を得た。夏季鈴蘭で敷き詰められるここの山野は秋にあつては七草にも似た物静かな草花で色彩られ故里の山川を偲ばれる。」(12頁)
- 阿城
- 「緑樹の間を馴れる清洌なる岩清水は都塵を洗ふに充分である。北鉄時代からロシヤ人間に知られ毎年夏ともなれば河畔にはキヤンプが張られて賑わひを呈する。」(12頁)
定期観光バス
- 観光コース
盛り場
「哈爾濱は流石に国際都市と云ふだけあつて享楽方面にも色々と毛色の異なつたものがあります。」
- キヤバレー
- 「キヤバレーとはロシヤの踊り場ですが、ダンスホールとは異り、ロシヤ料理あり、ステージあり、バンドあり、ロシヤ美人の酌む甘酒に酔ひ、美人と踊り、合ひ間のステージの催し物を眺め、国際都市の絢爛豪華の夜を更すのはまた甚だ味なものであります。経費は色々ですが先づ二人位で7、8円辺りから4、50円、100円と段階があります。これは飲物と、食物によつて差が出来ます。 フアンターヂヤ 埠頭区軍官衙、カズヘツク 同中央大街、オケヤン 同中央大街、ドラゴン 同中央大街、ボンモント 同田地街、モスコー 同中央大街、ロンドン 同中央大街、エデム 南崗義州街、右の内ステーヂのあるのはボンモントとフアンターヂヤだけです。其他日本カフエーにもキヤバレーと称するのが数軒あります。」(17-18頁)
- カフエー
- 「これは日本人の経営で市内に数十軒散在して居ります。最近は満人カフエーも見受くるやいになりましたが未だ幼稚極まるものです。」(18頁)
- ダンスホール
- 「二つありますが共に日本人経営です。 チケット 10枚綴り 2円20銭」
- 満人妓館
- 「傅家甸16道街にあります。 1泊6円」
斯波雪夫『国際情緒哈爾浜物語』東亜書房、1936
醸し出す国際情緒
- キタイスカヤのロシア美人
- 「ロシヤ美人はキヤバレーにも居る。然し真にレフアレインされたタイプのものを目撃しようとならばキタイスカヤの午後から宵へかけて、若しくはブチスタン(埠頭区)の市立公園の夕涼みにでも出掛けるがよい。若しもそれが夏だつたら、キリリとしまつてすんなりと伸びた脚・脚・脚のオンパレードを目撃することが出来るし、その中には必ずハルピンならでは見ることの出来ないやうな美しい異国婦人も発見出来やうといふもの。ジプシイ風に東部に風呂敷をみたいなものを巻きつけてゐるものは今では次第に影をひそめた。彼女等も亦世界を風靡してゐるスマートな服飾美を追ひ求めやうとしてゐるらしい。断髪に巻毛にハイヒールにルージユに……伝統的なものと先端的なものがごつちやになつて醸し出す異国趣味も亦棄て難いといふべきか。」(6-7頁)
- 埠頭区
- 「埠頭区の面白さは夜から喫すべきであらう。キタイスカヤの漫歩のよさは前項に述べた。歓楽の坩堝たるキヤバレーの話は別項で述べる。その他裸踊りや私娼窟や怪しげなバアや、等等等の暗黒面を抱含してゐるだけに、ハルピン夜話やハルピンの猟奇秘話は、多くはこの埠頭区から生まれ出るのだ。それ程此処は夜を生命としてゐる〔……〕」(17-18頁)
ハルビンの遊覧場
- スンガリー
- 「冬の大松花江は偉大な氷原である。自動車に或いは橇に、大氷原をドライブするの爽快さは日本では一寸味へぬ所である。又尺余の氷を割つて穴釣りをするのも一興である。が、何と云つてもスンガリーの持つ異国情緒は夏に於て満喫すべきだと思ふ。ボートを操り、行き交ふ蒸気船やジヤンクを縫ふて一日を過すのもよからうし、俗を避けて糸を垂れ太公望たるも亦面白いし、河面を撫でて吹き来る風に涼を貪りながら河畔の料亭で渇をいやすのもよい。夏は別荘か水浴で暮し身体を鍛へるのを習慣としてゐるロシヤ人は、金持ちも貧乏人も皆手軽なスンガリーの別荘地に遊んで水浴する。この習慣が育てあげた水浴場と別荘は、ブリスタンとナハロフカ寄りの江岸に多い。キタイスカヤを北にスンガリーの江岸に出で、上手を見渡すと、色とりどりその形又さまざまな瀟洒な別荘が見へる。それは太陽島で、ここには水浴場の施設があり、流行の水着に豊満な肉体を包んだ青い眼、黒い目のロシヤ婦人が、いとも朗らかに戯れてゐる。さながら河の人魚といつた形だ。この島と対岸の別荘地ザトンの江岸には料理店、掛茶屋、掛小屋などが出来る。それから上の同じ中洲の十字島、その江岸も別荘地で且つ散策地としても知られてゐる。ブリスタン側のキタイスカヤから4、5丁上流の岸に東支鉄道のヨツトクラブがある。半ば岸へ乗り上げた船みたいな格好に造つた木造の建物である。ここはハルビンのブルジョワ階級の涼みに押しかけるレストランで、切符を求めて入るやうになつてゐる、10時からオーケストラが初まると(ママ)みんな川風に裾を吹かせ乍らダンスを踊る。だから此処へ遊びに行く連中は対外パートナーを同伴するのである。江上では二人連れがボートに興じ、クラブではダンスに興ずる―まさにベニスにでも行つたやうな気持ちがする。」(33-34頁)
- 伊藤公の遺跡
- 志士の碑
- 「伊藤公と共に日本人にとつての追慕の的は、郊外にある沖、横川等6烈士の遺跡である。沖、横川、脇、田村、中山、松崎の6烈士は日露戦争中、露軍の輸送路を中断すべく嫩江のフラルキ大鉄橋を爆破の計画を樹て、ラマ僧に身をやつし、内蒙古を経てフラルキ駅付近に潜入、機会をうかがつてゐるうちにコサツクに発見され、沖、横川両志士は捕縛され、他の同志はその場からは逃走した。捕縛された両烈士は哈爾濱に護送され、4月21日軍事探偵として銃刑に処せられた。逃走した他の4烈士は西へ西へとのがれ鉄路破壊と敵状視察に余念もなかつたが、蒙古の百姓に馬賊と誤解されて攻撃を受け、衆寡敵せず恨みを呑んで蒙古の露と消えた。この4烈士も露軍の背後へ奥深く潜入して大脅威を与へたことだけで多大な功績をあげたものとして後世その殊勲を称へられてゐるのである。これら護国の鬼と化した6烈士の忠魂碑は、沖、横川両烈士が露と散つた旧ハルビン郊外の野つ原に建立され、ハルビンを訪れた邦人は必ず此処に霊を弔ひその功を讃へる事績となつてゐる。」(35-36頁)
- 三棵樹の鉄橋
- 「これは、北満と朝鮮と更にこれを裏日本に繋ぐ新交通路として、従来の北満日本間の経路に一大変革を齎した拉濱線と濱北線を結ぶ松花江の橋梁である。この鉄橋の特色は、千四十米で捐斐長良川の橋には及ばないが、構造の新しいこととその建設時間が短かつたといふ点は、東洋一どころか世界に誇るべきものがあるのである。即ち構造は三段階に分れ、上段が人道、中段が列車、下段がインスペクション・カーの専用と云つた変つたものである。これは場所が場所だけに、進行中の列車に危害を加へたり、妨害したりの危険を防ぐために考案されたものである。架橋工事は間組の請負で1932年冬から翌年の冬までが僅か1年で竣工し、上段の人道は翌年6月までを要したが、何としても短時間竣工のレコードホルダーではある。」(36頁)
- 博物館
- 極楽寺・文廟
享楽のハルビン
- 概要
- ロシヤ劇場
- 「キネマ全盛は世界の趨勢である。だから此処でも、その観衆はキネマに奪はれ、劇場はだんだん寂れてゆく傾向にある。従つて現在ハルビンにはロシヤ人の観客を目的とする常演劇場はない。劇といへば東支クラブ(新市街大直街)同じく東支従業員技術クラブ、カビトール、アトランチツク等の活動写真館等で時々上演した程度で、それもオペラか喜劇劇に限られ、ドラマは殆んど上演されなかつた。一時ハルビンで鳴らした舞台俳優のエレン・アルロフ等は、ハルビンを後にして旅興行に出たきり帰つて来ず、歌劇俳優として有名なシヨマンスキー、ウイテレス、ウエリカーノフ、女優のバトリーナ、喜歌劇俳優のトロボフ、スウオリン、同女優のシジコワ等も、北鉄接収後の情勢の変化-赤系露人の帰国とそれに変る満日人の入哈-で果して今後もその盛名を保つてゆけるかどうかあやぶまれてゐる。」(38-39頁)
- 支那劇場
- キネマ館
- 「ハルビン在住のロシヤ人ポーランド人、その他の欧米人は8万人以上と推定されてゐたが(北鉄接収前)これら外人を観客とするロシヤキネマ館は相当に多く、欧米もの並にソヴエツトものを上映してゐた。その主なるものをあげると埠頭区の蒙古街の『バラス』、新市街義州街の『ギガント』、同大直街の『ウエシ・ミール』馬家溝の『スター』埠頭区九道街の『アメリカン』同面包街の『カビトール』同中央大街の『モデルン』同紗漫街の『アトンランチツク』等で、日本版などと洒落たものはないのだからトーキーになつてからはうつかり飛び込むとチンプンカンプンで何が何だかさつぱり分からなかつた。然しこれらの情勢も北鉄接収ですつかり変つてしまつた。支那キネマ館は傅家甸に4館ある。天津もの上海ものが主として上映されてゐるが、近く満洲国の映画が上映されることにならう。日本のキネマ館は哈爾濱座と平安座とである。哈爾濱座は古くからある日本の劇場で、演劇、浪曲、万歳、映画などをやり、劇場と寄席とシネマ小屋とを兼ねた、日本在留民の慰安の殿堂であるが、最近邦人が増加してキネマ上映が要求されるやうになつたので日活系の配給館となつた。平安座はこれと対抗して松竹系のものを上映してゐる。」(40-41頁)
- 料理屋
- 「ハルビンの料理と云へば何と云つてもロシヤ料理に指を屈しなければならない。ロシヤ料理は異趣ある料理として世界的に有名である。ハルビンを訪ふた者は是非一ぺんロシヤ料理を味はうの必要がある。量が多いこと、あぶらつこいこと、安価なこと、これは始めて(ママ)ロシヤ料理を食べた者の誰もが感ずるところである。大体ロシヤ人は極く上流の家庭をのぞき、一般に朝と夕は紅茶又はコーヒーとパン、それにバター、チーズ、ソセーヂ、スズコなどで極く簡単にすませる。その変はり昼はアベアードと称しスープ、肉、魚肉などの本格的な料理を食べるのである。然もそのアベアードは自宅では食べず多く料理屋で摂るのだ。だから何処の料理屋でもこのアベアードだけは特に念入りに安く食べさせる習慣となつてゐる。普通のアベアードはスープと肉又は魚肉1皿に紅茶、又はそれに甘いものを加へたものでパンは食べ放題である。小食なものは肉の入つた褐色のスープだけで満腹する位である。それで最低40銭60銭位で、80銭1円も出せば相当なものである。昼はそんなに安価のくせに夜の料理は高い。それは、夜料理屋で食事をするといふのはブルジョワ階級で贅沢の部類に入るから安価なものを食はす必要がないからだ。その変り料理の種類は多い。モデルン、ミニヤチユール、オシチエブコフ、ヨツト・クラブ、東支クラブ、ギドリヤン、カズベツク、ロゴヂンスキー、グランドホテルなど云ふ所でなら、まあ内地への土産ばなしになるやうな料理を食べさせてくれる。が、もつと安直な所では、キタイスカヤの地下室あたりを選べばよい。支那料理は此処ではさして有名ではないし、日本料理のことなんか尚更ら此処に書き立てる必要はなからう。」(41-42頁)
- カフエー
- キヤバレー
- 「キヤバレーにはカフエー式なものと、もつと本格的なものとがある。が、カフエー的なものでも一方に舞台をしつらへ楽手が数人でジヤズを奏でてくれるから、レコード音楽に終始してゐるカフエーに比べると室にみなぎつてるリズムの感覚だけでも全然ちがつたものを汲み取ることが出来る。それにパートナーはみんなロシヤ人だ。踊りをこなしは下手くても、柔らかな金髪の感覚や白い肌から発散する体臭はまさしくエキゾチシズムだ。若しも火酒にでも少しく酔つてゐる時だつたら尚更気分が出るだらう。此処も亦ハルビン旅行者の一度はのぞいて見なけれなならぬ歓楽境かもしれない。キヤバレーで有名なのは埠頭区官衙のフアンタヂヤ、北満ホテル下のカヂノなど、何れもステーヂに立つて歌つたり踊つたりする女と、遊客のサービスを乍ら客とステツプを踏むダンサアとがある。ここではダンサアと切符が不要ないから、遊興費としては飲んだ酒と食べた料理代だけですむ。が、勿論酒も料理も普通の料理屋よりも高いのは必定。が、どうせキヤバレーを見物しようといふやうな連中は踊りばかりで欲望の満たないものが多いのだから、招んだダンサアに馬鹿な金を費はせられる場合が多い。ビール2,3本で夜を徹して踊つたなどといふ英雄はなかなかゐない。この外一流料理店ギリドヤン、アメリカン・バアなどでもダンサアがゐて夜の客にサービスしたり一緒に踊つたりしてゐる。三流どころの地下室のキヤバレーにもオーケストラがある。此処の女達はダンサアともウエートレスともつかぬ私娼的なものが多い。」(43-44頁)
- ロシヤ私娼街
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