【先行研究】高媛「満洲国時代の旅行文化の一断面―『旅行満洲』を読む」(『『旅行満洲』解説・総目次・索引』、2019年、5-45頁)

  • この論稿の概要
    • JTB大連支部の機関誌として1934年から約10年余りに亘り発行された『旅行満洲』について、誌面に現れている満洲国における旅行文化を分析している。特徴として、JTB大連支部の成立、『旅行満洲』の編集に携わった人物、文芸面の充実、雑誌で扱う地域の拡大(南満→全満→中国本土→大東亜共栄圏)、移民地視察について触れながら、殺伐とした現実の満洲ではない「満洲よいとこ」という「陶酔感」を与える役割を果たしたと指摘している。最後に『旅行満洲』の意義として満洲国の旅行促進、満洲国という異文化の認識、旅行文化の向上による日本の大陸進出、移民政策を挙げながら、満洲国全体の文化の底上げに果たした役割が歴史的に見て大きな価値があったと結論づけている。

参考になった箇所など

  • 『旅行満洲』を発行したJTB大連支部と満鉄の関係性について
    • JTB大連支部の業務は満鉄に委嘱 満鉄運輸課が統括
      • JTBとは、1912年3月に日本の鉄道院内に創設された外国人観光客を誘致するための半官半民の機関であり、本部は東京に置かれている。JTBは同年11月に大連支部、12月に台北支部および朝鮮支部と、海外支部の開設に着手したが、『旅行満洲』を発行する大連支部は、JTB初の海外支部にあたる。JTBは当初、大連支部に独立した事務所も専属の事務員も設けず、その業務を同じく半官半民の国策会社である満鉄に委嘱した。初代支部長には当時の満鉄総裁・中村是公を戴き、満鉄運輸課長が一切の事務を統括する形で発足したのである。」(6頁)
    • JTB大連支部の独立経営化
      • 「1926年5月、日満間とシベリア経由の旅客の増加を見込んだ満鉄は、大連支部拡充というJTB本部からの提議に対し、逆に大連支部JTB本部からの独立経営等を支援の条件として提案し、JTB本部から了承を得た。〔……〕ここに至って初めてJTB大連支部は「独自の旅行斡旋機関として呱々の声を挙げたのであつた」。こうした発足や独立の経緯からもわかるように、JTB大連支部JTB本部との関係よりも、満鉄とのつながりの方が緊密であったといえる。」(6頁)
    • 大連支部から満洲支部
      • 「1936年10月、前年に北満鉄道(ソ連管轄下の旧東清鉄道)の接収に成功した満鉄は、全満洲鉄道の一元的経営を図るべく、大連本社にあった中枢部門を奉天に新設した「鉄道総局」に移転する。これを機に、JTB大連支部(1936年10月に「JTB満洲支部」と改称)も、同年12月13日に満鉄を追うような形で事務所を大連から奉天へと移転した。このように満鉄運輸課内に胎生し、満鉄の支援下に独立経営を始めたJTB大連支部は、JTB本部の延長というよりも、満鉄と緊密な連携を図りながら、鉄道旅客輸送の周辺業務を補助分担する、いわば満鉄の別動隊的な存在となっていく。」(7頁)

 

  • 『旅行満洲』の商業雑誌としての成功
    • 「創刊初年度(1934年)には隔月に毎号平均3500部、翌1935年には毎号平均3000部近く発行していたが、1936年3月号(第三巻第二号)より月刊に改め、記事内容やグラフ頁を漸次に充実させ、さらに同年5月号(第3巻第4号)より毎号平均5000部に増刷する。1937年からは「固定読者の増加、販路の拡張に伴ひ」毎号の発行部数を平均6500部に伸ばした。1939年には最高の毎号平均6700部に達し、「内容外観共に一流雑誌としての実を挙げるに至つた」。また、隔月間から月刊に変わった1936年頃から、従来寄贈用・事務用が大半であった同誌は、販売部数が発行部数全体の8割を占めることとなり、ついに一機関誌の域を脱し、商業雑誌としての成功を収めるようになった。」(8頁)

 

  • 『旅行満洲』とその改題
    • 「『旅行満洲』は、1937年から始まる日中戦争と1941年から始まる太平洋戦争のそれぞれの開戦後に、『観光東亜』、『旅行雑誌』と2度の誌名変更を行った。まず、日中戦争が始まった翌年、『旅行満洲』は「日本の大陸政策進展に伴ひ資料を満洲のみに極限せず、広く東亜観光の指導に当たり以て平和建設に協力せんがため」、1938年4月号から『観光東亜』と名を改めた。続いて太平洋戦争開戦後の情勢に即し、同誌は1943年7月号に「東亜大陸に在つて旅行本来の面目に還り」と、『旅行雑誌』へと2度目の改題を表明した。さらに1944年9月号には、「輸送協力雑誌として新発足」したことにともない、誌名を新たに懸賞募集するとの告知文が掲載された。新誌名は同年「12月号本誌及び奉天、新京発行満洲日報紙上(11月末)」に発表予定と書かれているが、1944年10月以降は確認できないため、3度目となる誌名変更の詳細や終刊の磁器は不明である。」(9-10頁)

 

  • 加藤郁哉と満洲観光の誘致 『満洲異聞』、『満洲こよみ』
    • 「『満洲異聞』は加藤が大衆誌『月刊満洲』(月刊満洲社)に連載した「満洲特殊風致区案内」を補筆訂正して新稿を加えた単行本で、「型破り」の満洲案内書として好評を博し、1935年11月の初版からわずか1年7ヶ月で計11版を重ねたヒット作となった。『満洲異聞』の刊行から4年後、加藤は『旅行満洲』や『協和』(満鉄社員会)、『満蒙』(中日文化協会)、『海』(大阪商船株式会社)および『月刊満洲』などに発表された随筆を再録し、単著『満洲こよみ』を上梓した。『満洲こよみ』には「随所に観光観念の普及、その他紹介誘致等の意図が顔を出して」おり、満洲観光界の中心人物である加藤の幅広い活動の一端を垣間見ることができる。」(13-14頁)

 

  • 『旅行満洲』の中で特筆すべき一冊  1937年4月号
    • 「なかでも、『旅行満洲』の魅力を存分に発揮した特筆すべき一冊は、1937年4月号の特集「満洲旅行」である。創刊から3年弱が経過した頃に発行された同号は、総頁数192頁と創刊号の4倍余りに達し、全107冊のなかで最も分厚い1冊である。全号の予告文には「躍進!内容充実!期待を乞ふ!」とあり、また同号の編集後記には「本号は発行部数2万を超えた。鉄道総局に依つて一部は内地主要団体へ配布せられる」と書かれていることから、春の旅行シーズンを控える日本内地からの観光客に向けて満を持して編纂されたものとみられる。」(16頁)

 

  • 『観光東亜』と『満洲の印象』
    • 「〔……〕在満日本人作家の作品だけでなく、『観光東亜』は「来満作家短編集」(1940年1月号)や「北満紀行」(1940年9月号)などを企画し、来満日本人作家の小説や紀行文も意欲的に掲載してきた。そのうち、1938年11月号から1943年7月号までの間に掲載された来満日本人作家の紀行文など計41篇は、単行本『満洲の印象』として1944年8月に奉天で刊行されている。」(22頁)

 

  • 満洲国の建国による満鉄鉄道網の拡大と観光開発
    • 「〔……〕満洲国建国を契機に、日本の勢力は満鉄沿線を中心とする南満洲から満洲全土へと広がった。これにともない、満鉄管下の鉄道網が拡大され、日本人にとっての旅行安全性が確保され、それまで踏み入れることができなかった満洲の奥地においても、日本による観光開発の土台が出来つつあったのである。こうした歴史的うねりを背景に、『旅行満洲』の記事内容が網羅する地理的範囲は、徐々に南満から満洲全土へと広がっていく。〔……〕なかでも、特集と座談会の両方を企画するほど、『旅行満洲』がひときわ宣伝に力を注いだ観光地は、満洲国時代に「掘り出され」、一躍脚光を浴びるようになった「熱河」である。〔……〕では、なぜ『旅行満洲』はここまで積極的に熱河の観光宣伝を繰り広げたのであろうか。これには二つの理由が考えられる。一つ目は熱河の観光的価値から由来するもので、歴史的・芸術的価値の高い熱河の遺跡は、満洲国が唯一世界に誇れる観光資源と見なされていたからである。〔……〕もう一つの理由は、熱河の持つ政治的価値に力点が置かれたことである。「秘境」から「観光地」へと変身した熱河こそが、遺跡を荒廃させた旧東北軍閥の「悪政」に対し、環境保全を整備した日本軍や満洲国の「善政」を見せつける、政治的に意義のある場所と見なされていたからである。〔……〕ここで興味深いところは、遺跡の荒廃を加速させた旧東北軍閥の「悪政」と、遺跡を保存する日本軍や満洲国の「善政」という二つを対照させることによって、熱河は「悪政」を駆逐した正義者としての日本と、文化の保護者としての満洲国を称揚する恰好な宣伝舞台に様変わりしたことである。」(24-26頁)

 

  • 太平洋戦争と大東亜共栄圏観光
    • 「太平洋戦争開戦後の翌1942年7月、『観光東亜』は「拾年後の東亜共栄圏観光構想」と題する字数1万2千字程度の論文を公募〔……〕選ばれた3篇の当選作は〔……〕10年後の東亜共栄圏に相応しい観光理念と観光資源について種々の角度から論じている。たとえば当選作を執筆した中村信夫は、「娯楽」や「享楽」として考えられてきた従来の観光認識に代わり、「高度の倫理観」に基づく観光理念の構築を提唱する。「倫理的とは精神的方面に於て国体認識、祖国認識、教神[敬神]崇祖、日本的性格の獲得、指導民族としての大らかな精神獲得、勤労愛、科学する心の昂揚、旅行道徳の発揚、国体訓練、国土防衛の関心、勤労能率の増加等があげられ、肉体的には身体の鍛錬、人口増加等がかかげられるのである」。そのうえ、「大東亜共栄圏の観光地帯」の歴史的特色について中村は次のように力説する。「歴史的に見ると新世界転換の為の日本の努力の跡即ち日露戦争満洲事変、支那事変、大東亜戦争の戦場は東亜民族の聖地として観光者は、先づ第一にここに詣でねばならない〔……〕」(28頁)。

 

  • 観光資源としての移民地
    • 「『旅行満洲』のなかに頻繁に登場した、一見して観光とは関係の薄いテーマがある。それは日本人の満洲開拓移民に関する内容である。〔……〕初出は前述した特集「満洲旅行」(1937年4月号)である。これは前年の8月、日本政府が大規模な農業移民を満洲に送る「二十カ年百万戸送出計画」を発表したことに呼応するものと考えられる。まず冒頭に同特集の発刊の辞として、満鉄鉄道総局営業局旅客課長の宇佐美喬爾は「満洲旅行は国民に課せられたる必須義務科目である」と強調し、「此の意義深き満洲の地に足跡を印す可きは我等国民に課せられたる責任であり、義務であり、権利である〔……〕」と訴える。ここで「国策移民の姿」を見ることに満洲旅行の「国民の義務」としての存在意義が付与されているところが興味深い。」(29-30頁)

 

  • 『旅行満洲』で描き出された満洲国のイメージ像
    • 「〔……〕『旅行満洲』では、それまで「野蛮蒙昧」、「荒漠千里」、「匪賊跳梁」といわれてきた満洲を、「明朗」で「平和」な「観光楽土」へと見事に仕立て上げていることである。「満洲といふところが、さうよい所ばかりではないという事は知つてゐながら、無条件にだまされてゐたくなる」、「『観光東亜』の満洲には決して悪辣な匪賊は出没しない」といった言葉に象徴されるとおり、「匪賊の素窟」であった千山を「陶然とさせられる」観光地のイメージに塗り替えるだけで、満洲国政権の安定をアピールし、「楽土」を作り上げた日本人の「善政」を正当化する恰好な宣伝材料となるわけである。その意味で『旅行満洲』は、観光という名に隠れた巧妙な満洲国の宣伝誌であった、と解することもできる。」(34頁)

 

  • 『旅行満洲』の文芸誌的な側面の意義
    • 「〔……〕旅行満洲の意義について考えてみたい。旅行会社の機関誌であるから、満洲国への旅行を促す内容になることはやむを得ず、その延長として日本人が満洲国という異文化を知るきっかけとなったことは確かであろう。結果としての旅行文化の向上は、日本の大陸進出、そして移民政策に一定の役割を果たした。と同時により着目したいのは、他の旅行雑誌にはあまり見られない、『旅行満洲』の文芸誌的側面である。在満日本人作家が自己の作品を『旅行満洲』という雑誌に発表する場を得られたということが、作家の力量の向上につながり、ひいては文学活動の発展につながっていった。歴史に埋もれてしまったかもしれない作家を『旅行満洲』という雑誌が世の中に送り出したのである。これは『旅行満洲』という雑誌が世の中から一定の評価を得ているから成し得ることであり、日本内地に比べ力量がやや劣ると見なされていた在満日本人作家にとっては飛躍のきっかけにもなりえた。時代の波に飲み込まれる形で『旅行満洲』は廃刊となってしまうが、旅行文化のみならず、満州国全体の文化の底上げに果たした役割は、歴史的に見て大きな価値があったと考えられる。」(36頁)