- この論稿の趣旨
以下、参考になった箇所
- 満鉄食堂車に求められた満洲料理
- 支那料理とは異なる満洲独自の郷土料理
- 「〔……〕満洲国の建国後には、まず名称の上で「満洲料理」を「支那料理」と区別し、それに内実を伴わせる取り組みが始まっていたことに注目する必要がある。〔……〕このような「満洲料理」の象徴になれたのは、餃子・饅頭(包子)・餅をはじめとする日常的な主食類、そして雉・ウズラ・羊・スッポンといった豊富にとれる珍しい食材を使った料理である。なかでも有名になったのは、ジンギスカン料理であった。〔……〕1913年10月に満鉄第二代総裁の中村是公が北京を訪れた際〔……〕「成吉思汗時代の鋤焼鍋なるもの」の珍味に驚かされた。大連にもどった中村総裁は、1913年11月8日夜、官民の名士を「満洲館」に招待して「鋤焼会の饗応」を行った。これが満洲の日本人社会にジンギスカン料理が伝わった最初の記録である。〔……〕満洲国建国の頃までに、ジンギスカン料理が満洲に広まり、日本でもそれが満洲の料理であると認知されていた〔……〕1935年9月には、大連の星ヶ浦ヤマトホテルが、「ジンギスカン鍋」を「満洲名物」として呼び声をあげている。さらに1938年には、新京ヤマトホテルの納涼園が「ヤマト成吉思汗鍋」を始めて、「国都名物」として観光客を喜ばせようとしている。このように満鉄の経営するヤマトホテルが観光客に向けて、ジンギスカン料理を「満洲」「国都」の名物に仕立て上げていった。それによってジンギスカン料理は、建国後間もない満洲国で創成されるべき「満洲料理」に欠かせない一品となったのである。」(74-76頁)
- 満洲土産の創出と観光業
- 満洲国崩壊後の満洲料理
- 「〔……〕中国食文化の中心地は北平(北京)や上海であり、満洲はその周縁と認識されていたのである。だからこそ、とりわけ満洲国の建国後、独自の「満洲料理」「満洲食」を創成、発信することが試みられた。『旅行満洲』『観光東亜』の誌面では、ユニークな名称の満洲名産品、土産物、さらにはヤマトビフテキやジンギスカン料理のような名物料理があちこちで目にとまる。しかし、中国料理(「支那料理」)と区別される「満洲料理」「満洲食」は、満洲国を建国した日本人が日本人旅行者のために創り出そうとしていた面が強い。この過程において「満(洲)人」はその主体的な生産者としてではなく、追従する消費者として時折登場するにすぎない。その意味で「満洲料理」「満洲食」は、戦後の日本でジンギスカン料理や焼き餃子が普及した一方、中国東北部では満洲国崩壊後にほとんど痕跡をとどめないこととなった。」(78-79頁)