【レポート】満洲国の観光について 第一章「満洲国における観光国策の展開」

はじめに

 満洲国が成立すると、満洲国への観光が活発化した。これまで観光斡旋は満鉄旅客課とジャパン・ツーリスト・ビューローが担っていたが、満洲国は統一した観光政策を展開するため、国務院総務庁弘報処に観光委員会を組織し、その実践機関として満洲観光連盟を置いた。
 それでは、このような国策機関はどのように設置され、観光に対してどのような機能を期待していたのであろうか。また、満洲国によって整備された観光モデルはどのようなものだったのだろうか。
 ここでは、満洲国における観光国策機関の成立と展開、満洲国観光に求められた機能、満洲国の観光モデルを見て行くこととする。

第一節 満洲国における観光国策機関の成立と展開

一-一 観光委員会

 満洲国の観光は、国の行政機関上、どのように位置づけられたのであろうか。まず満洲観光委員会が、一九三七年二月に満洲総務庁情報処(のち弘報処)に設立された。その設立の趣旨は「満洲国及関東州に於ける観光事業諸機関を整備統制して内外旅行者の便を図ると共に満洲国及四囲の情勢の宣伝等により国策の遂行を期す。【注1】 」ことである。
 設立の趣旨からは二つのことを読み取ることができる。第一に、観光事業諸機関の整備統制である。これまでは、満鉄旅客課やジャパン・ツーリスト・ビューロー及び満洲国各都市の観光協会が個別バラバラに観光事業を展開してきた。これらを統制して体系化した観光政策を行えるようにする意図があったのである。二つ目は、宣伝活動である。順風満帆に成立したとは言えない満洲国にとって自らの存在価値を示すことは非常に重要だった。また中国東北部という日本本土にとっては帝国の周辺部に位置する辺境の地域であったため、その重要性を知らしめる必要があったのである。
 続いて観光委員会の組織について確認しておこう。観光委員会は新しく一から作られたのではなく、既存の組織の上に成り立つものであった。「在満各機関観光事業関係者を以て組織【注2】 」されており、これまで満洲国の観光を担ってきた機関から人材を調達する広範な組織であった。また、観光委員会の委員長には総務庁次長が充てられ、委員らは総務庁次長により委嘱された。満洲国では総務庁中心主義がとられており、総務庁は国務院で重要な位置づけにあったため、観光委員会も国策上決して軽くはない地位を占めていたことが分かる。
 最後に観光委員会の役割と行政組織上の位置づけを整理する。満洲国の観光国策について審議決定するのが観光委員会の機能であった。そして、ここでの決定事項を実施させるために、観光連盟が組織された。こうして満洲国の観光機関の行政上の位置づけとしては、国務院—総務庁—情報処(弘報処)—観光委員会—観光連盟—各都市の観光協会という縦の繋がりが生じ、トップダウン式に観光事業が展開されるようになった。

一-二 観光連盟

 観光委員会により一九三七年三月に鉄道総局旅客課内に設置されたのが、観光連盟である。観光委員会の決議事項を実際に実施する機関であった。具体的な実施事項としては、「観光施設、接遇、対内外宣伝、観光観念の普及と観光事業に関する情報の収集交換、連盟報の発行、他団体との連絡協調等【注3】 」を行うことが求められていた。観光連盟により実際に実施された事業のうち、特筆すべきなのが、観光週間の実施と世界各地の知識人の招聘である。

一-二-一 観光週間

 まず観光週間の実施について述べる。満洲国では国策として観光週間が二回実施された。一回目は一九四〇年九月一五日~二一日までであり、二回目が一九四一年六月一六日~二二日までである。
 第一回目の目的は国土宣揚であり、国内的には国民陶冶をはかるものであり、対外的には満洲国の独立性と承認をねらったものであった。一つ目の国民陶冶については、観光の機能として「一地方、一都市、一国の正しい事情を、その土地、その都市、その国に住む者に知らしめる」ことができ、「その地方その都市の持つ誇を一般に紹介認識せしむる」ことにより、「文化方面よりの国民の向上を図らむとするものである。」と述べている【注4】 。満洲国には国籍法が存在しなかったため、満洲国民というものは極めて曖昧なものであった。それゆえ、満洲国に居住する者たちに、一体性を持たせるべく、観光が利用されたのである。各地域が観光資源を整備する中で、自らの誇りとなるものを発見するとともに、国内他地域の状況を知る事にも繋がり、満洲国の国土や歴史を現出する効果をもたらしたのである。
 二つ目の満洲観光の対外的な効果については、以下のように説明している。
  観光とは国の光を世界に観すことである〔……〕広く他の土地、他の国に住む者に紹介することである。〔……〕それは、相互の理解と友好を増し、やがて正しい国際間の平和と協調に貢献し、真の理解による国際親善の美しい宝を結び、その国の国際的地位の向上となり、貿易を隆盛ならしめ、自国品の輝しい海外進出の進路を開拓することとなるのである。〔……〕又外国をして躍進する自国の国情と平和を愛好する国民の真価を充分認識せしめるならば、それは、その国その国民に対する尊敬と信頼のかたちとなつて表はれてくるのである【注5】 。
 満洲国は民族自決による国民国家とは認められなかったため、他国から独立国家としての承認を受けることができなかったのである。それ故、満洲国は中華民国とは異なる別の国家であるという独立性を示し、国際社会の中で認められる必要があった。また日本に対しても日満不可分一体を説いていため、相互理解と友好が求められていた。かくして観光は満洲国を主権国民国家として対外的に示す手段として使われたのである。
 以上により満洲国の観光事業は、「幾多の指標を持ち国家社会の利益と進歩の源泉となるのであつて、その効果の如何は一国の消長に迄影響を与へるもの」として、重要性を訴えていたのである。
 第二回観光週間の目的は、観光厚生である。総力戦体制下では長期戦に国民を動員するために勤労者の厚生が求められたが、厚生と観光を結び付けようとする動きが起こったのである。ドイツとイタリアの事例を引き合いに出しながら、「国民特に勤労階級の厚生、福利増進の為に一大組織を結成し、積極的に各種保健方策の実施、観光視察の充実を図り、観光事業と国民厚生運動は渾然として一体を成してゐる【注6】 」状況を紹介し、「満洲国に於ても観光事業を改善振興して、民族の協和精神を基調とした国民の健全なる慰安、休養を図ることは非常時下長期建設の今日根本問題として採り上ぐべき、早急にして而も重要なる社会政策の一つであることは今更論を俟たない。【注7】 」と論じている。この当時、如何にして国民を総力戦体制に組み込み、労働生産性を上げるかが課題となっていた。労働者を搾取する一方では国家に対し不満が生じ、消極的抵抗を行うことになる。そのため大衆が喜んで国家に協力し、労働に励むような工夫が求められていた。観光連盟は観光の機能として厚生運動に資することを示そうして、第二回観光週間に取り組んだのであった。

一-二-二 外国人知識人の招聘

 満洲観光連盟の特徴的な実施事業の二つ目として挙げられるのが、外国人知識人の招聘である。表一を参照して欲しいのだが、様々な国の使節満洲国に招かれていることが分かる。注目すべき第一点として教育関係者が多いことが挙げられる。教育関係者は一定程度社会的影響力を持つため視察旅行後、母国にて満洲国に対する情報発信を行うことが期待されたと考えられる。第二点としては、アメリカ人の多さである。使節団は二五団体を数えるが、そのうちの一二団体がアメリカ人であり、一九四〇年に訪れている。当時の日本は南進論によって米英との状況が緊迫化していたため、満洲国にアメリカ人を招聘し、日満関係の良好さをえんしゅつすることで帝国主義的膨張への批判を逸らそうとした意図を読み取ることができる。
 以上のように、観光連盟は満洲国の観光国策を具体的に実行する機関として観光週間の実施や外国人知識人の招聘に努め、内外への宣伝活動に励んだのである。

一-三 観光協会

 各都市には観光協会が設置され、各自で観光事業を行っていたが、観光連盟が成立すると、その下に加盟して統率され、満洲国の観光国策の一翼を担うこととなった。表二~表四は奉天、新京、哈爾濱の各観光協会で実施された事業をまとめたものだが、ここからその特色を分析していく。

一-三-一 奉天観光協会

 奉天観光協会の特徴として挙げられるのが各種旅行団の催行である。戦跡参拝からハイキング団まで多くの団体旅行を組織している。特に日露戦争満州事変に関する戦跡が豊富にあるのが奉天であり、戦跡への巡拝は数多く組まれている。戦跡は満洲の為に血を流した英霊たちを想起させることで、満洲における日本の進出の正当性を担保する機能を果たした。
 また奉天清朝と関係が深い地域であり、北陵・東陵という観光資源があり、これを積極的に活用している。北稜が清朝第二代ホンタイジの陵墓で、東陵が清朝初代ヌルハチの陵墓である。これらの陵墓を参拝した証として入門証が配布されている。奉天はまさに清朝色が観光資源となっていた。そして奉天観光協会は観光業に従事する人材の育成にも力を入れており、時々講習会が行われていることが分かる。

一-三-二 新京観光協会

 新京観光協会の特徴としては、まず初めに多くの出版物が観光されていることが挙げられる。リーフレット、パンフレット、地図、絵葉書など複数の印刷物を発行している。また従業員を観光バスに乗せて新京観光を経験させていることも重要であり、サービスを提供するホスト側の観光認識を深めようとしている。そして新京では、昭和一五年度、一六年度にペストが発生しているにも関わらず多くの観光客が訪れている。昭和一六年度はペストに加えてガソリン統制のため観光バスの利用者は減るが、それでも約四万名が観光バスに乗っており、一〇万を超える人が観光案内所を利用している。

一-三-三 哈爾濱観光協会

 新京観光協会と同様に、ポスター、地図、パンフレット、写真などを刊行している。哈爾濱ならではの特徴としては、ロシア時代を観光資源にしていることが挙げられる。松花江湖畔にロシア料理店観光亭を開き、ロシアグルメを提供している。また、この松花江において煙火大会を何度も開催している。そして哈爾濱といえば、いわゆる夜の観光で有名であるが、昭和一四年度にはこの夜の観光を発展させるための座談会が開かれている。そして夜の観光関連として女中の育成にも力が入れられており、昭和一三年度と一四年度には女中の観光指導が行われている。また土産物の開発・販売にも力を入れており、支援や販売斡旋なども行っている。

第二節 国策としての満洲国観光

 第一節では、観光委員会-観光連盟-観光協会の縦の繋がりと、具体的な事業の取り組みについて見て来た。第二節では、観光事業がどのような目的を根拠として展開されたのかを分析する。国策である以上、観光を単なる物見遊山で済ませるわけにはいかず、様々な側面から満洲国観光の有用性を主張しなければならなかった。国策としての観光の根拠をどのような効果に求めたのかを考察する。

二-一 日満不可分の満洲国の独立性

 満洲国観光に求められた効果として満洲国が独立国家だと示すことだというのは度々述べて来た。ではどういった根拠で観光をすると満洲国が独立国であると分かるのであろうか。満洲観光連盟が加盟団体向けに刊行していた『満洲観光連盟報』を見てみよう。
 満洲国が短時日の間に之だけ国の内容、外観を整備するに至つたことは世界でも稀れに見る例である。満洲建国以来のこの驚異的発展の有様を親しく観せることによつて東洋民族の偉大性と文化を確かり把握せしむることが出来よう。また、満洲国の独立性に関し屡々疑惑の眼を差向ける人々もこの国が日本と不可分の関係に於て立派に独立国として発達しつつある実情を観ればその誤解も直ちに氷解するのである【注8】 。
 ここでは満洲国の独立性を、驚異的発展に求めている。満洲国が短い期間に内外諸制度を整え発達したことが東洋民族の偉大性と文化であることを観光者に把握させようとしている。しかしここで注意したいのが、あくまでも日満不可分一体としての独立性なのだ。日本に導かれてこその驚異的発展、日本あっての独立性、これらのことがここでは読み解けるのである。

二-二 観光厚生

 第二回観光週間の主題ともなったのが、この観光厚生である。総力戦体制における厚生運動に観光を結び付けようという考え方であった。では、観光連盟としてはどのような効果を期待していたのであろうか。
  〔……〕国民の日常生活で、余暇を善用して、正しい慰安と、教養によつて、人格を陶冶し、心身を鍛練して、国民の精神と体位の向上を計り、延いては、生活刷新の実をも挙げやうとする各種の催しや企てを厚生運動と云つてゐるやうであるが、之を一口に、平たく云えば、〝仕事の余暇の善用により、明日への労働力を貯へる運動〟と言つても差支へあるまい。そして、其の重要な運動として取上げられたのが、国民の体位向上と、国民的な健全娯楽の問題である。〔……〕〝観光〟が、健全娯楽として、それ等の音楽、演劇、映画や文学と同じ高さにあり、然も変化に富み、且つ体位の向上をも兼ねてゐるところに一日の長があるのではないかと信ずるものである。〔……〕雄大な大陸的景観に恵まれている満洲では、今後大いに之等の景観地を、国民的な体位向上と厚生運動の道場として活用するところに、大陸らしい観光新体制の重要な面があるのではあるまいか【注9】 。
 ここでは厚生運動を、余暇を善用して労働力を貯える運動と捉えており、体位向上と健全娯楽に焦点を当て、観光こそがその目的にかなっていると、観光の有用性を主張している。そして満洲という地域的特性として雄大な大陸的景観を挙げ、国民的な体位向上と厚生運動の道場として活用できると述べている。
 すなわち、観光連盟としては、厚生運動という点において、満洲ならではの大陸的景観を活かして体位向上を図ることができると唱え、時代の要望に応えようとしたのである。

二-三 観光と新秩序

 満洲国観光に求められた効果の三つ目が、新秩序についてである。「世界新秩序同盟の精神を建国と同時に実行しつつある見本【注10】 」であることを満洲国観光の根拠とすると共に「日満支三国の相互理解が完全なれば東亜新秩序の建設も完遂せられ【注11】 」るとして、観光による相互理解を説いている。さらに太平洋戦争が勃発すると、長期経済戦・思想戦が観光の根拠となる。
  長期経済戦の内容は、日満華及南洋の資源を拓くことと、此れが為に、各民族の人心を収蹟して、日本を信頼し、資源開発に心から努力せしむることである。資源開発計画には、現地の実地調査、中央と現地の連絡がなければならぬ。異民族の人心収蹟の為めには、日本と現地相互国に「百聞一見に如かず」に従つた、頻繁な連絡が行われねばならぬ。茲に、観光の新しい時代の任務が生れ出る【注12】 。
 このように資源開発のためには現地住民の協力が必要であり、現地住民の人心を得るためには頻繁な連絡が必要であるとして、長期経済戦遂行を観光の効果として期待するようになるのである。
 以上のように、満洲国の観光国策としては観光が物見遊山ではないことを証明するため、観光の効果を根拠にする必要があり、時期に応じて様々な観光観が提示された。当初は満洲国の独立性を示すことがその効果として期待されたが、厚生運動が盛んになると満洲観光と厚生運動の親和性が主張され、新秩序の建設が行われると、そのお手本としての満洲国の視察や相互理解といった機能が観光の効果として打ち出されたのである。

第三節 満洲国の観光モデル

 第二節まででは、満洲国の観光機関や、国策として満洲国への観光がどのように捉えられてきたかを分析した。第三節では、満洲国が観光振興のために行った諸政策について論じる。旅券制度が円滑化され、モデルルートが作られ、観光インフラが整えられた。

三-一 旅券・旅程と費用概算

 満洲国を一つの独立国として承認した以上、日満間の人の移動の際には、査証や旅券が必要となるはずである。しかしながら日満間には、査証も旅券の携帯も必要が無く、相互免除されていた【注13】 。税関はあったため土産品の持ち込み等で注意喚起がなされていたが、旅券制度の上では、日満間の観光の円滑化が図られていたのである。
 また、満洲国を観光するにあたり、モデルルートが作られ(表五)、各ルートに応じた費用概算が示されていた(表六)。満洲観光は船舶と鉄道により交通ルートが規定されていたため、三つのルートで人々は満洲国を訪れることになる。即ち往路大連経由、往路朝鮮経由、往路北鮮経由の三パターンである。往路大連経由は神戸から門司を経て遼東半島の大連に至り、連京線で北上するコースである。往路朝鮮経由は下関から関釜連絡船で釜山へ渡り、朝鮮半島を縦断して安東へ至り安奉線で奉天に入るルートである。最後の往路北鮮経由は満洲国が成立してから整備されたコースであり、日本海を経由して北鮮三港(清津・羅津・雄基)へと至る。観光ルートは周遊を基本としており、同じルートで往復することはない。往路大連航路のコースは一四日、往路関釜連絡船は一三日、往路北鮮航路は一七日間となっている。旅費は三等が一二四円~一五五円、二等が一八〇円~二一八円となっている。当時の公務員の初任給は一九三七年で七五円(一九八六年で一二一六〇〇円) 【注14】 なので、手の届かない額ではないことが分かる。

三-二 満洲国の成立と日本海ルート

 満洲国の観光は船舶と鉄道に規定されたことは既に述べた。観光者の多くは鉄道を利用してその沿線及び諸都市を巡ったのである。それ故、満洲国の交通インフラの整備は観光業と切っても切り離せない。満洲国成立以前、中国東北部には日本の満鉄とロシアの北鉄以外にも多種多様な鉄道が敷かれていた。当然、日本はこれらの鉄道の運営に携わることはできなかったし、新線の敷設も困難だった。だが、満洲国が成立すると、満鉄と北鉄以外は満洲国に回収され、満洲国有鉄道となり、満鉄に経営が委託されることとなった。さらに北鉄は一九三五年にソ連から満洲国に譲渡された。こうして日本は満鉄を介して満洲国の鉄道政策に関与することができるようになり、次々と新線が開発されていった。
 とりわけ建国以前から期待されていたのが、日本海と接続する路線の実現である。これは新京と図們を繋ぐ京図線となって実現し、さらに京図線と北鮮三港を結ぶ北鮮鉄道も満鉄に移管され、一九三三年一〇月一五日から新京-清津間に直通の列車が開通することになったのである【注15】 。こうして新京-図們-北鮮三港(清津・羅津・雄基)-日本海沿岸都市(新潟・敦賀・伏木)を繋ぐルートが形成された。このルートは東満及び北満の開発を進展させ、特に日本からの移民地視察においてこの経路が使われた【注16】 。
 またこの日本海ルートは、太平洋戦争が激しくなると日満交通を一挙に引き受けるようになる。それというのも、大連航路及び関釜連絡船は米軍潜水艦の雷撃に晒されることになったからである。特に一九四三年一〇月に玄界灘で関釜連絡船の崑崙丸が撃沈した後、日満間を繋ぐ安定した航路は日本海ルートのみになったのであった【注17】 。
 以上のように、満洲国が成立したことにより交通インフラの整備が進み、それと共に観光空間が拡大したと言うことが出来る。

本章のまとめ

 本章では、満洲国が成立したからこそ発生した従来とは異なる観光現象を扱った。まず、従来とは違い国策として統一的に観光政策を展開するために、観光国策機関が成立したことが挙げられる。国務院総務庁情報処に観光委員会が設置され、さらにその施策を具体的に実行するために観光連盟が組織された。この観光連盟が各都市の観光協会を率いて、観光政策を展開したのである。
 次に満洲国の観光は、どのような目的・効果を根拠として、国策として展開されたのかを分析した。結論としては、満洲国の観光は日満不可分としての国家の独立性を示すこと、厚生運動と観光を結び付けようとするもの、東亜新秩序の実現のために観光を利用しようとしたこと等が挙げられる。
 最後に満洲国観光のモデルコースの実態を考察した。満洲国観光は移動をスムーズにするために旅券制度が整備され査証も旅券の携帯も必要なかった。そして観光ルートは船舶と鉄道により規定されるため、三つのコースにパターン化されていた。それが往路朝鮮経由、往路大連経由、往路北鮮経由の三つである。特に満洲国の成立と関係があるのが、三つ目の往路北鮮経由である。前二者は満洲国成立以前から観光ルートとして確立されていた。だが往路北鮮経由は、満洲国が北鉄と満鉄以外を接収して満洲国有鉄道とし、さらにその運営を満鉄に委託したからこそ、鉄道の敷設が進んだために成立したルートであったことに特徴がある。
 以上のように満洲国が成立したことは、満洲国の観光に大きな影響を与えたのである。

脚注

  • 【注1】『満支旅行年鑑』東亜旅行社奉天支社、一九四三、四三九頁
  • 【注2】前掲
  • 【注3】前掲
  • 【注4】「国土宣揚観光報国の熱誠こめて 第一回観光週間実施さる」『満洲観光連盟報』第四巻五号、満洲観光連盟、一九四〇、三三頁
  • 【注5】前掲
  • 【注6】「観光厚生 第二回観光週間の幕開く 自6月16日 至6月22日」『満洲観光連盟報』第五巻六号、満洲観光連盟、一九四一、三八頁
  • 【注7】前掲
  • 【注8】八田嘉明「文化政策としての観光事業」『満洲観光連盟報』第五巻一号、満洲観光連盟、一九四一、五頁
  • 【注9】野間口英喜「厚生運動と観光国策」『満洲観光連盟報』第五巻一号、満洲観光連盟、一九四一、七頁
  • 【注10】長谷川宇一「世界新秩序の前進と満洲観光」『満洲観光連盟報』第五巻一号、満洲観光連盟、一九四一、三頁
  • 【注11】八田嘉明(東條内閣鉄道大臣)「文化政策としての観光事業」『満洲観光連盟報』第五巻一号、満洲観光連盟、一九四一、五頁
  • 【注12】山口重次「大東亜戦争と観光の新任務」『満洲観光連盟報』第六巻三号、満洲観光連盟、一九四二、六頁 
  • 【注13】「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10070004900、本邦渡来外国人ニ対スル旅券査証ニ関スル規定ノ綱要/一九三六年(米_二六)(外務省外交史料館)」五-六
  • 【注14】『値段史年表 明治・大正・昭和』週刊朝日編 朝日新聞社 一九八八
  • 【注15】「日鮮満直通幹線成る」『満洲グラフ』第二巻一号一九三四年一月号、財団法人満鉄会『満洲グラフ』復刻版第一巻、ゆまに書房、二〇〇八年、四四-四五頁
  • 【注16】日本海航路を使って満洲視察を行った旅行記として以下のものがある。四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自家出版、一九三四/山形県教育会満鮮視察団編『満鮮の旅(視察報告)』山形県教育会満鮮視察団、一九三五/東海商工会議所聯合会視察団鮮満視察団編『満鮮 旅の思ひ出』名古屋商工会議所、一九三六/大橋克『満鮮北支紀行』自家出版、一九三八/山形県教育視察団編『満鮮の旅』山形県教育視察団、一九三八/岡山県鮮満北支視察団編『鮮満北支視察概要』岡山県教育委員会、一九三九/石橋湛山『満鮮産業の印象』東洋経済新報社、一九四一/磯西忠吉『鮮満北支ひとり旅』大正堂印刷部、一九四一/松井正明『鮮満一巡 附転業対策卑見』千葉東亜経済研究会、一九四一/山形県教育視察団『満鮮二六〇〇里』昭和一七年山形県教育視察団、一九四二
  • 【注17】財団法人満鉄会編『満鉄四十年史』吉川弘文館、二〇〇七年、二〇一-二〇二頁