【史料】『満洲グラフ』における京図線・北鮮三港に関する記述

分類

京図線関係

「日満最短交通路の完成へ 拉濱線新設工事」

満洲グラフ』第2巻第1号(第3号)昭和9(1934)年1月号(財団法人満鉄会『満洲グラフ』復刻版第1巻、ゆまに書房、2008年、10-11頁)

  • 「本年3月1日、満鉄は満洲国の委託により吉敦線の拉法と哈爾濱間286粁の鉄道新設を請負ふ事となつた。両来満鉄道社員を中心として、日、満の従事員は身を匪襲の危険にさらし乍ら、敢然として工事を進めつつあり、早くも年内に全線の開通を見やうとしてゐる本鉄道の沿線は、大豆、木材、石炭の産地として極めて有望であるが、更に羅津港の竣成敦図線の全通と相俟つて、北満の心臓ハルビンを日本に繋ぐ最短交通路として、本鉄道の使命は重い。」

「日鮮満直通幹線成る」

満洲グラフ』第2巻第1号(第3号)昭和9(1934)年1月号(財団法人満鉄会『満洲グラフ』復刻版第1巻、ゆまに書房、2008年、44-45頁)

  • 「1934年初頭の満洲は新しく装いを変へた。政治に、経済に、素晴らしい進歩だ。かつて満鉄と対立的立場にあつた鉄道さへ全部足並みそろへて、人類の理想郷満洲国建設への朗らかな行進を続けてゐる。」
  • 「海克(克山海倫間)拉濱(拉法)敦図(敦化図們)の新線開通に依つて、満洲交通系も一変した。そしてチチハルハルビン間の豊饒な農業地帯を繞る斎克、海克、呼海の三線は、名も斎北(チチハル北安)濱北(ハルビン北安)線と変へられた。」
  • 「又敦図線は従来の吉長吉敦線と連絡し、以上三線を併せて新京と鮮満国境の図們間を京図線と命名、営業を開始した。京図線を北鮮の海港雄基(将来は羅津)清津につなぐ北鮮鉄道も満鉄に移管され、昭和8年10月15日から新京清津間に直通列車を運転することになつた。二十年来の懸案として多年待望された吉会鉄道は、茲に始めて実現を見た訳だ。」
  • 「京図線の一駅拉法からハルビン(三棵樹)に至る拉濱線去る12月16日に開通、濱北線に連結された。北満の穀倉をめぐる斉北、濱北両線は拉濱線に依て京図線に橋渡しされた訳だ。そして満洲の特産物は、大連を迂回することなく、一路北鮮の海港から日本海を横断して日本内地に輸出される事となつた。日満の親善が深められつつある今日、従来の交通路に比し距離に於て三分の一を短縮し、日満経済上に大きな貢献をもたらすべき本交通路が、主として日本の手に依て完成された事も明記さるべきだ。」

満洲鉄道巡り 京図線の巻き」

満洲グラフ』第7巻第11号(第64号)昭和14(1939)年11月号(財団法人満鉄会『満洲グラフ』復刻版第7巻、ゆまに書房、2009年、126-127頁)

  • 満洲事変のころ「魔の土們嶺」「死の二〇三列車」などと云ふ言葉が喧伝された。その土們嶺も地図をひろげると新京と吉林の中程でしかない。急行列車だと新京から二時間もかからぬこのあたりが、匪賊に脅かされ乗務員は死を決して列車の運行にあたつた事を思ふと、7、8年の間によくもまあ、と満洲国の躍進に今更のやうな驚きを覚えずには居られない。」
  • 「しかも現在の京図線は、正に満洲と日本とをつなぐ主要幹線の役割をさへ負はされるに至つたのである。日満の枢軸をつなぐ最短距離―大陸に上陸するよりは、釜山から朝鮮を経由するよりは、もつともつと短い線で、東京と新京とを結ぶこと位は小学生の地理でも考へられる。北鮮羅津港の出現は日本海を湖に化し去ったのだ。東京-新潟-羅津-新京、ここに結ばれた一線には将来への大きな期待がある。」
  • 「京図線528粁は、吉林までの概して平坦な地域を過ぎると、やがて所謂東満の山岳地帯に入る。この山岳地帯こそ、京図線の最なる特徴としてあげらるべきものである。汽車が次第に山間に分け登つて行くと、しよんぼり山の駅舎が侘しい姿でつつ立つてゐる。枠組の朱く塗られた駅舎の建築は旅の心に、ふつと響く感触でもある。山の尾根には白樺などが、しょぼしょぼと続いてゐて、一寸興安嶺の山中を行くやうにも感じられる。」
  • 「黄松甸から威虎嶺にかかる山中は、全くの処女林で、深い深い樹海をなしてゐる。車窓にかうした大森林の林相を見ることは、浮世の塵を払はれる思ひがする。美しい山林、それはそのまま新時代の物的資源として貴い存在であるのだが、現にこのあたり、車窓からも新しい材木業者たちの木造の集落が見られ、駅の構内にも沢山の木材が積まれてあつたりする。」
  • 「哈爾巴嶺の山中は威虎嶺とは異つた趣で、立木は少なく楢その他の灌木が多く、殺風景な感じを受ける。だが純然たる朝鮮部落に、ぼんやりただずんで汽車を眺めてゐる鮮童の姿を見つけたりすると、何とはなしに淡いものがこみあげてきたりする。」
  • 「この哈爾巴嶺を境に、京図線の人文現象は一変して、遽に半島人の生活が、大地の上に押し広げられてゐるのである。所謂「間島地区」に入るので、眼によつて半島人の民家、農耕その他の生活を見る以外に、耳によつて半島語の勢力を感じること多大である。乗り合はした子供づれの半島婦人に、あやしげな半島語で何かと話しかけてる内地婦人をも見かけた。」
  • 「国境の駅図們でも、駅員のアナウンスは日本語と半島語とでいとも丁寧にくりかへされてゐた。北鮮から新京へと京図線の旅を続けられる人には、図們でぶつかる税関検査などの国境風景がなければ、おそらく満洲に入った感を強く受けることなしに、迫る山色と渓谷に響く水音を楽しみながら、そこに描かれる濃厚な半島色に、或は朝鮮を走つてゐるやうな錯覚を起こされるかも分らない。もしも東部京図線から人文的諸要素をオミットして、その自然現象だけに心をやつてゐれば、耶馬渓探勝にも似たものを汲みとりさへ出来るのである。」
  • 「沿線のささやかな鮮人部落にはよく十字架の聳えた教会を見かける。曾つて疲弊のどん底にあへいだ間島地区の半島人に、救ひの神として崇敬された宗教の根強い力をうかがふ事も出来て心うたれるものがある。吉林に近い車窓からは、満洲旗人独特の建築様式をもつた家屋も散見出来る。」

羅津港関係

「羅津開港祝賀の日」

満洲グラフ』第4巻第1号(第18号) 昭和11(1936)年1月号、(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版第3巻、ゆまに書房、2008年、18-19頁)

  • 「我が国三十年間の懸案であつた吉会鉄道が、満洲建国後京図線として実現したので、その終端港として昭和8年以来、第一期期築港五箇年計画の下に満鉄会社の手により工事進捗中であつた羅津港がこのほど第一埠頭を完備し、又雄基・羅津間の雄羅線15.3粁の鉄道も開通役百万吨埠頭荷役、船車連絡等の設備を完成したので、昭和10年11月1日を以て開港する事となり、11月9日盛大な開港祝賀式が行はれた。」
  • 「その日、午前9時、羅津埠頭構内に設けられた式場には早くも一千余の来賓が参集し、満鉄総裁代理大村副総裁の式辞朗読後工事概況報告、工事功労者表彰、その他朝鮮総督代理、満洲国交通、財政両部大臣の祝辞朗読等があり、祝宴にうつつた。」
  • 「一方、市民に於ても、日満最短交通路の大関門として、羅津開港の佳日を祝ふ為め、仮装行列、提灯行列、花車等を繰出し、人口二万五千の新興都市羅津は祝賀気分に沸き返つた。」

「日満捷路の大関門・羅津港

満洲グラフ』第4巻第1号(第18号) 昭和11(1936)年1月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版第3巻、ゆまに書房、2008年、20-21頁)

  • 羅津港は、背後に新京・ハルビン・佳木斯に通ずる京図・拉濱・図佳線等、北満洲開発の大動脈をなす満洲国鉄道を負ひ、前に日本海を湖として其の対岸裏日本の開港新潟・伏木・敦賀・堺・下関の諸港に扇形に航路が開け、羅津から各港への距離は僅に870粁内外、汽船で約40時間行程にあり、事実上、日満交通上の近道に当つてゐる。」
  • 「今、仮に東京から下関・大連経由ハルビンへのコースと、同じく東京から新潟・羅津経由ハルビン行コースを比べて見ると、羅津経由は、大連経由よりも1265粁短く、これを国都新京までとしても羅津経由は大連経由よりも約1000粁短い。」
  • 「つまり、羅津港の出現によつて日本と満洲国との近道が開けた訳で、従つて、眠れる日本海と、裏日本の開港とは、羅津の開港と同時に一躍日満最短交通路の第一線に登場した訳である。現在、羅津と新潟方面に日満連絡の定期船の便があり近来、この近道を利用する者が多い。なほ、羅津からの移輸出品の主なるものは満洲大豆と水産物で、輸入品はセメント、鉄材機械等の建設材料と米とである。」

日本海中心時代来る!羅津港の出現」

満洲グラフ』第4巻第2号(第19号) 昭和11(1936)年2月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版第3巻、ゆまに書房、2008年、24-25頁)

  • 満洲国と蘇連邦とが国境を接する北朝鮮日本海海岸、即ち北緯42°13’46’’、東経130°17’3’’の地に羅津港が開港した。しかも、羅津港の出現は従来の日満交連絡の交通体系に一大革命を齎し、更に日本海中心時代を招来しやうとしてゐるのである。」
  • 「羅津が、我国三十年来の懸案であつた吉会線とも言ふべき京図線の終端港として選ばれたのは、羅津湾が朝鮮随一の良好湾として天恵的条件を具えている為でもあるが、それ以上に、羅津が地理的に絶好の地位を占めてゐる為である。今試みに、羅津を中心として、函館(或は小樽)に到る895粁の円半径を以て円を描けば、青森、船川、酒田、新潟、伏木、敦賀舞鶴、境、下関、門司等の諸港は、殆んど其の半円弧上にあり、裏日本の諸港は孰れも羅津から895粁内外の等距離にある事が立証される。」
  • 「これまで、釜山、大連経由の日満交通路幹線による時は、九州、中国方面からの旅行者は、東北地方や北海道からの旅行者に比して著しく有利なハンヂキャップがついた訳だが、日本海を横断する羅津経由の日満コースを取る時は、北海道からも九州からも、凡そ日本全国から殆んど同一の距離と時間と賃金で旅行する事が出来るばかりでなく、大連釜山経由の第一、第二日満交通幹線に比して羅津経由の第三交通幹線は日満の距離を縮減し、日満の最短交通路として輝かしい将来を持つてゐる。」
  • 「日満両国の親善と共存共栄の実が日に進みつつある今日、日本海を中心とする末広形の航路と、裏日本諸港の繁栄は、日満最短交通路の将来と共に大きく期待がかけられてよかろう。」

「若き大羅津港

満洲グラフ』第4巻第2号(第19号) 昭和11(1936)年2月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版 第3巻、ゆまに書房、2008年、26-27頁)

  • 「羅津の築港問題は、吉会線敷設問題の前後から識者間に唱導されてゐたもので、満洲建国後、新京と北鮮国境図們間を結ぶ京図線の建設によつて吉会線は事実上完成した為め、その終端港として羅津築港の件も逸早く廟議の決定を見、昭和8年3月、満鉄の手によつて第一期築港五ケ年計画工事が着手され、昨秋11月、第一埠頭の完成と同時に営業を開始したのである。」
  • 「もとより、羅津が、京図線の終端港として選定されたのは、大港湾としての素質を十分に備えてゐるからである。羅津湾は、東西北の三方は山脈に囲まれ、湾口を南に開いてゐるが、湾内にあつて天然の防波堤をなしてゐる大草島、小草島に抱かれた海面積だけでも一千五百万平方米、南北5.1粁東西幅3.5粁といふ素晴らしい包擁力を持ち、且つ10米乃至20米内外の水深があるので、どんな大船巨船でも平気で海岸に接近出来るのである。殊に冬期海面の凍結する事は極めて稀であり、大草、小草島がある為め防波堤の築造を要しないといふ便利がある。」
  • 「現在進行中の第一期工事は、幅124米長さ300米の埠頭2個、幅124米長さ500米の埠頭1個、都合三つの埠頭を築造するもので、第一第二埠頭間の岸壁は190米(水深8米)第二第三埠頭間は230米(水深9.5米)となるもので、昭和13年3月第1期工事が完成すれば、第7、8千吨級の汽船12隻、四千吨級の4隻を一時に繋留し得る埠頭を実現する訳で、貨物の年呑吐能力も年三百万吨である(なほ、現在の呑吐能力は百万吨内外と見られる。) 更に、第2期、第3期の工事によつて将来は1年に九百万吨を呑吐し得る8個の埠頭(総延長70628米)が築造される予定で、同時に人口5、60万を容れ得る港湾郷市も実現される筈である。」
  • 「なほ、第1期工事に要するケイソン(函塊)は204個であるが、これを3年間に製作すべく、15個を同時に製作出来る羅津独特の段階式ケイソン工場を設け、現在1ヶ月半に15個、3日目に1個の割合で製作して世界の築港技術者を瞠睰たらしめてゐる。」
  • 「二ヶ年前まで北鮮の一寒村に過ぎなかつた羅津は、今日人口二万五千余、新潟、敦賀方面に1ヶ月約十往復の定期船の便があり日満連絡航路の送迎に賑はつてゐる。」

「羅津の双翼 清津・雄基港」

満洲グラフ』第4巻第2号(第19号) 昭和11(1936)年2月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版 第3巻、ゆまに書房、2008年、28-29頁)

  • 「羅津を中心として、その北方約15粁の地にある雄基と、南方約100粁の地にある清津は、北鮮三港と称ばれ、羅津港の双翼として、緊密な関係を持つて居る。」
  • 清津は、北鮮第一の大都会で、現在人口約4万5千、明治41年開港場となつて以来30余年閲し呑吐能力百万吨、6千吨級の船舶3隻、3千吨級4隻を繋留し得る埠頭を持ち、小麦粉・砂糖・セメント等を輸入し大豆・魚類・石炭・木材等を輸出しているが、その商勢圏も、京図線南廻線の終端駅の観がある。清津は、かく国際大呑吐港としても優れてゐるが、北鮮の大漁港として知られ、水産物による油脂工業、缶詰工業が、盛である。又、本港と、雄基、羅津を連ねる344粁の北鮮鉄道を委任経営する満鉄の北鮮管理局も此地に置かれ、北鮮に於ける政治経済的中心地として諸官衙が設けられてゐる。」
  • 「雄基は朝鮮最北部の開港場で人口約2万人、往年、間島、琿春地方の物資呑吐港として浦塩港に対抗したもので、現在呑吐能力約60万吨、石炭・木材のほか大豆・豆粕・魚類を輸出し、穀物・穀類・セメント等を輸入してゐる。昨秋11月、雄基羅津間15.2粁の新鉄道が開通し、汽車で僅か20分行程である。」
  • 「とにかく羅津を京図線最終端の大呑吐港とすれば、清津は漁港、工業地であり雄基は木材・石炭等の荒荷貨物の輸出港としての役割を持ち、日満最短交通線上の北鮮三港は不可分の関係に立つものである。」

「北鮮鉄道沿線」

満洲グラフ』第4巻第2号(第19号) 昭和11(1936)年2月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版 第3巻、ゆまに書房、2008年、30-31頁)

  • 清津と雄基を結ぶ329.2粁の北鮮鉄道は、満洲国鉄の京図線、図佳線と、北鮮三港との連絡上、昭和8年10月1日朝鮮総督府から満鉄に経営を委任したもので、10年11月には雄基から更に羅津に至る15.2粁の新線が開通し、北鮮三港は完全にC字形の鉄道を以て連結された。現在、この344.4粁の北鮮線は、清津に在る満鉄の北鮮鉄道管理局の統制下に置かれ、日満最短交通路の一部として昭和9年度の貨物取扱吨数は112万吨に上り、北鮮からの発送はその中68%を占め到着は32%の割合であつた。」
  • 「沿線の訓戒は、南陽、上三峯等と同じく鮮満国境線をなす図們江岸の国境都邑で、対岸満洲国側に広大な琿春平野を控へ、その中心地たる間島の琿春とは僅か10粁の近距離にある関係上、奥地から大豆・木材等が此地に集散されてゐる。なほ現在、この地と琿春間に14.7粁の軽鉄が敷設中でもあり、また附近の訓戒炭田は埋蔵量2千数百万吨と見られ年約2万吨の石炭を産出してゐるので、将来の発展が期待されてゐる。」
  • 南陽は、図們江を隔てて満洲国の図們(旧灰幕洞)と相対し、北鮮鉄道は、ここで国際鉄橋によつて、満洲国の心臓部たる新京、ハルビンに通ずる京図線・牡丹江(寧北)佳木斯(チヤムス)に通ずる図佳線に接続してゐる。上三峯は、京図線の朝陽川から分岐して龍井経由開山屯に至る朝開線(京図南廻線)との連絡点で、南陽と同じく鉄橋を以て満洲国側の開山屯と接続してゐる。」
  • 「会寧は、埋蔵量三億吨と言はれる炭田の中心地で、新鶏林に向けて11.7粁の会寧炭礦線を出し、図們江上流からの木材集散地として製材業も盛大且つ名所旧跡に富み会寧焼の名産地である。」
  • 「輸城は清津から僅か9粁の地にある交通上の要衝で、鉄道はここから分岐して、一は新京・雄基方面に、一は京城方面に向つてゐる。附近に加藤清正の古戦場等がある。」

清津の鰯加工業」

満洲グラフ』第4巻第2号(第19号) 昭和11(1936)年2月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版 第3巻、ゆまに書房、2008年、34-35頁)

  • 「朝鮮の日本海岸一帯は、温帯性、寒帯性の魚族が無尽蔵と言はれ、中にも、いわし・さば・たらの各漁業は著しい発達を遂げ、その年産額は、いわし〆粕420万円、魚油250万円、塩蔵さば70万円に上つてゐる。」
  • 清津は、北鮮第一の漁港だけに、水産物の集散及び加工業も盛で、殊に豊漁の鰯は、缶詰とし、或は圧搾して魚油とし、〆粕は肥料として夫々輸出するほか、近来、冷凍魚として各地に輸送されてゐる有様である。なほ、魚油の年産額は約3万吨で、硬化油製造業も勃興し、更に硬化油から脂肪酸グリセリン等を製造してゐる。清津に在る水産物の加工工場を一瞥すれば、次の様なものがある。朝鮮油脂会社、鰮油工場、林兼フイツシユミール缶詰工場、北鮮製油会社、製塩工場、合同脂工場、日本食糧工場、北鮮魚糧工場。」