雑録

【レジュメ】「新京に至るまでの日満交通路について~京図線・北鮮三港ルートを中心に~」

目次

1.問題意識と問題設定

「新京に至るまでの交通インフラ」と「新規ルートの位置づけ」

1-1.満洲国の成立と鉄道路線

  • ①「満洲国 」(以下、括弧は用いず)が建国されると、その国都は長春に定められ新京とされた。満洲国に敷かれていた満鉄、北鉄以外の路線は満洲国に回収され国有鉄道となり満鉄に委託されることとなった。北鉄は1935年にソ連より満洲国に譲渡されることとなる。こうして満鉄は満洲国が成立して以来、満洲国全体に路線を張り巡らすことが可能となったのである。

1-2.新京/長春に至る二つのルート

  • 満洲国成立以前、日本から長春に至るには二つのルートがあった。一つ目は大連航路を用いるルートである。神戸から乗船して大連に上陸し、満鉄本線を使って長春に至るルートである。二つ目は関釜航路を用いるルートである。下関から乗船して釜山で上陸し、京釜線(釜山-京城)と京義線(京城新義州)で朝鮮を縦断、新義州から対岸の安東に入り、安奉線(安東-奉天)で満鉄本線に入り、長春に至るルートである。

1-3.新京への第三のルート

  • ①このように長春(新京)に至るには2つのルートがあったわけだが、満洲国が成立すると新たに第三のルートが作られた。それは新京から京図線で図們に至り、そこから満鉄に委託された朝鮮の北鮮線を通って北鮮三港である雄基、羅津、清津に入り、さらに日本海航路を取って新潟・敦賀・伏木等の日本海沿岸諸都市に至るというルートである。

1-4.問題設定

  • ①上記のように新京に至るために、新しくルートが作られたわけであるが、観光・旅行 の点からはどのような位置づけであったのだろうか。また京図線や北鮮三港は、満鉄が発行する弘報雑誌でどのように報道されたのであろうか。実際に旅した人々は、どのような視線を向けたのであろうか。

2.先行研究

2-1.研究の中心はあくまでも日本サイドが論点であり、日本海航路の限界性を指摘する。

  • ①京図線や北鮮三港について、その形成過程を論じられるものは多い。だが、あくまでもそれらは前提としての位置づけであり、研究の中心には日本の沿岸部の諸都市にある。
    • a.芳井(2000)では、日満最短ルートの実現はあくまでも軍事上の産物であったとする。【資料A】
    • b.白木沢(2008)では距離が近くても、物資が動かないため効果が薄いとする。【資料B】
    • c.大宮(2012)も港湾の未整備と船舶の建造の遅れにより日本海航路は限界があったとする。【資料C】

2-2.先行研究の問題点

  • 日本海沿岸諸都市が研究の対象であり、北鮮三港や京図線が十分に扱われているとは言えない。
  • ②同時代のメディアや実際に港湾都市を利用した旅行者からの視線について論じられていない。

3.リサーチクエスチョンの設定

  • 「日満最短経路における京図線及び北鮮三港は、どのように報道・認識されたのか。」

4.論証

4-1.満鉄弘報誌『満洲グラフ』における京図線・北鮮三港の報道

  • ①京図線
    • a.満洲国建国以前、北満にはロシア(ソ連)が権益を握る東清鉄道(東支鉄道・中東鉄路)が東西に走っていたため、大豆などの物資をウラジオストクに輸送されてしまっていた。そのため長春から日本海に出る路線の敷設が長年の課題となっていた。故に、「20年来の懸案として多年待望された」と表現されており、「日満経済上に大きな貢献をもたらすべき本交通路」として意義づけられている【史料1】。
    • b.吉長線や北鮮では匪賊の襲撃や抗日運動が活発だったが、交通の活発化によって今は昔の事となったことを引き合いにだし「満洲国の躍進」を謳っている。また日満の主要幹線であり、東京-新潟-羅津-新京の線に将来への期待を見出している【史料2】。
  • ②北鮮三港
    • a.羅津
      • ⅰ.羅津の地理的な位置づけについて日本との最短経路という側面だけでなく、国都新京、北満の哈爾濱、東満の佳木斯との接続面での利点を挙げている。【史料3】
      • ⅱ.羅津港により出現した日本海を通る日満航路を「交通体系に一大革命」であるとし、日本海中心時代の到来を期待している【史料4】。
    • b.雄基
      • ⅰ.雄基は朝鮮最北部の港でありウラジオストクに対抗している木材・石炭の輸出港である【史料5】。
    • c.清津
      • ⅰ.清津は北鮮三港のうちの大都会であり、北鮮の大漁港、水産加工業であることに特徴がある【史料5】。
      • ⅱ.羅津の水産加工業としては、特に鰯が有名であり多くの工場が経営されている【史料6】。
  • ③『満洲グラフ』における京図線・北鮮三港に関する報道の特徴
    • a.京図線については、20年待望されていたことや経済上の貢献の期待を謳っており、匪賊については過去の出来事であるかのように扱っている。
    • b.北鮮三港については、新築された最大規模の羅津を中心に、朝鮮最北部の雄基と漁業と水産加工業の盛んな清津を両翼として紹介している。

4-2.旅行記・紀行文に見る京図線・北鮮三港の記述

  • ①京図線
    • a.匪賊への恐れと備え
      • ⅰ.夜行の京図線を利用しようとして止められたり【史料7】、武装列車に遭遇したりしている【史料8】。
    • b.名古屋産製品の日本への輸出の期待
      • ⅰ.満洲国の東西を横切る京図線により名古屋の物資の輸出を夢見ており、日本海中心時代を名古屋商品万能時代と見ている【史料9】。
  • ②北鮮三港
    • a.羅津
      • ⅰ.終端港して拓務大臣から指令を受けると僻地の寒村が一躍世界的に有名となる。その特徴としては、天然の良港であることや雄基や清津の港としての脆弱性の克服が挙げられる【史料10~12】。
      • ⅱ.日本側では、羅津の発展が日本海側沿岸都市の発展に結びつけて論じられ、富山県では県産業界に一台革命がおこるのではないかと期待を寄せている【史料10】。
    • b.雄基
      • ⅰ.雄基については羅津の新築以来、その地位低下が指摘されている【史料13】。産業が少なく脆弱であり【史料13】、繋留できる船も小規模であり数も少ない【史料14】。地位が低下した後の雄基の役割は補助港であり、工業を発展させられるかが課題となっている【史料13~14】。
    • c.清津
      • ⅰ.北鮮三港の中で一番古くからの清津では漁業や水産加工業の発展が、旅行記の中で強調されている【史料15~18】。
      • ⅱ.製品としては魚油や魚肥【史料15~16】、鰮(鰯)の製造が挙げられる【史料18】。水産加工業の他には、タングステン、雲母、水力発電、豊富な労働力などが紹介されている【史料18】。
  • 旅行記・紀行文に見る京図線・北鮮三港に関する記述の特徴
    • a.京図線について旅行者の関心は匪賊の襲撃にあり、危機感を抱いていることが分かる。また京図線により満洲国の東西と繋がり、日本製品を輸出できるのではないかと期待を持つ視察者もいる。
    • b.北鮮三港については、一番重要視されているのが羅津であり、新築された港としてその地理的な優位性と雄基・羅津の脆弱性を克服するものだと捉えられている。清津は一番古く、漁業及び水産加工業の発展ぶりが旅行者の目に留まっている。雄基は旅行者の目線では、地位低下や脆弱性が指摘されている。

4-3. 全満各港累年上陸乗船人員から見る北鮮三港

  • ①各港の利用者の規模の実態について
    • ⅰ.満洲に至るには3つのルートがあり、観光客の特徴として往復に同じルートを使わないことが挙げられる。また、各港の上陸者・乗船者が全て旅行者とは限らない。故に、上陸乗船人員のみで論じることは出来ないのだが、各港の上陸乗船人員数から、各港の地位を考察したいと思う【表】。
  • ②南満三港~大連港の不動性~
    • ⅰ.南満三港を見ると大連港に一極集中していることが分かる。年ごとに多少の変動があるが、大連港の優位性は変わらない。それとは逆に上陸乗船人員の割合が減っていくのが、営口と安東である。
  • ③北鮮三港~羅津と清津の攻防~
    • ⅰ.北鮮三港については、昔から発展していた清津の方が優位であったが、徐々に新築され地理的にも好条件である羅津が伸びていく。雄基は低迷しがちであり、当初から補助港としての扱いであったのも頷けるであろう。

5.結論

5-1.リサーチクエスチョン確認

  • 「日満最短経路における京図線及び北鮮三港は、どのように報道・認識されたのか。」

5-2.結論

  • 先行研究では、日本海航路について、主に日本海沿岸諸都市が分析の対象となり、その限界性が指摘されていた。では、朝鮮北部・満洲側における京図線や北鮮三港は、どのような機能を持つ経路として報道・認識されていたのか。京図線については新京までの最短経路として報道される一方で、旅行者たちは匪賊の襲撃を恐れていた。だが、新しい路線の建設は接続する港湾整備に繋がったのもまた事実である。
  • 北鮮三港については新規に築港される羅津港への期待や重要性が報道され、清津や雄基は補助港とされた。羅津港は地理的に恵まれ、規模が大きく、これまでの羅津や雄基の脆弱性を克服するものとして旅行者に認識された。だが清津の重要性も旅行者たちは見聞しており、特にその漁業と水産加工業に注目している。
  • 全満各港累年上陸乗船人員からは、大連港が不動の地位にあり、南満優位は揺るがない。しかし徐々にではあるが、上陸・乗船人員が伸びていったところで、太平洋戦争に突入する事となった。

史資料

下線部は引用者による。旧字は適宜改めた。

  • 【資料A】芳井研一『環日本海地域社会の変容』青木書店、2000年、304頁
    • 「新潟を基点とした日満最短ルートは、結局のところ15年戦争の展開とその都度繰り返される軍部側の要請によって実現したといえる。その間地方的利益に根ざした既成政党側の圧力、民間船舶会社の日本海優先航海権をめぐる突き上げ、政府内の各省間の思惑などに振り回され、政策の一本化が困難な状況が続いた。それらの確執を越え「裏日本」脱却の決め手と見られた日満最短ルートが国策化するのは、実は戦争準備体制の一環に組み込まれることによってであった。したがって、日本が15年戦争に敗北し、軍部が消滅することによってそれを支えた二つの条件がなくなってしまうと、日満最短ルート自体もあとかたなく消滅してしまうのである。」(304頁)

  • 【資料B】白木沢旭児「福井県文書館講演 戦前期の日満交通路と福井県--「日本海湖水化」の時代」、『福井県文書館研究紀要 (5)』、2008年、26頁
    • 「〔……〕この「日本海湖水化」の時代に、結局地元での期待というのは非常に高まるんですが、必ずしも想定したような活発な経済交流、それから経済発展というのは期待したほどできなかったように思います。ただ、こういう環日本海の経済的つながりというのはどこでも言われていますし、北海道でも非常に強調されます。戦前のことを見ていると、非常に現在と似ているなという感じを持ちました。ただそこで、距離が近いからと言って荷物が動かない。やはり必ずその壁にぶちあたるんですね。」

  • 【資料C】大宮誠「日中全面戦争期の日本海航路」『環東アジア研究センター年報 (7)』、2012年、26頁
    • 「本稿では、日中戦争勃発前後からアジア・太平洋戦争開始前までの間の日本海航路について、その実態を運航会社、使用された船舶、寄港地、航海度数などの推移を検討した。〔……〕1940(昭和15)年の国策会社日本海汽船の設立を契機に、航路が大きく改善された。しかし、〔……〕港湾施設の改善が進まず、また船舶の建造も大きく遅れるなど、時代を背景とした限界が明らかとなった。」

  • 【史料1】「日鮮満直通幹線成る」『満洲グラフ』第2巻第1号(第3号)昭和9(1934)年1月号(財団法人満鉄会『満洲グラフ』復刻版第1巻、ゆまに書房、2008年、44-45頁)
    • 「1934年初頭の満洲は新しく装いを変へた。政治に、経済に、素晴らしい進歩だ。かつて満鉄と対立的立場にあつた鉄道さへ全部足並みそろへて、人類の理想郷満洲国建設への朗らかな行進を続けてゐる。」
    • 「海克(克山海倫間)、拉濱(拉法)、敦図(敦化図們)の新線開通に依つて、満洲交通系も一変した。そしてチチハルハルビン間の豊饒な農業地帯を繞る斎克、海克、呼海の三線は、名も斎北(チチハル北安)濱北(ハルビン北安)線と変へられた。又敦図線は従来の吉長吉敦線と連絡し、以上三線を併せて新京と鮮満国境の図們間を京図線と命名、営業を開始した。京図線を北鮮の海港雄基(将来は羅津)清津につなぐ北鮮鉄道も満鉄に移管され、昭和8年10月15日から新京清津間に直通列車を運転することになつた。二十年来の懸案として多年待望された吉会鉄道は、茲に始めて実現を見た訳だ。」
    • 「京図線の一駅拉法からハルビン(三棵樹)に至る拉濱線去る12月16日に開通、濱北線に連結された。北満の穀倉をめぐる斉北、濱北両線は拉濱線に依て京図線に橋渡しされた訳だ。そして満洲の特産物は、大連を迂回することなく、一路北鮮の海港から日本海を横断して日本内地に輸出される事となつた。日満の親善が深められつつある今日、従来の交通路に比し距離に於て三分の一を短縮し、日満経済上に大きな貢献をもたらすべき本交通路が、主として日本の手に依て完成された事も明記さるべきだ。」

  • 【史料2】「満洲鉄道巡り 京図線の巻き」『満洲グラフ』第7巻第11号(第64号)昭和14(1939)年11月号(財団法人満鉄会『満洲グラフ』復刻版第7巻、ゆまに書房、2009年、126-127頁)
    • 満洲事変のころ「魔の土們嶺」「死の二〇三列車」などと云ふ言葉が喧伝された。その土們嶺も地図をひろげると新京と吉林の中程でしかない。急行列車だと新京から二時間もかからぬこのあたりが、匪賊に脅かされ乗務員は死を決して列車の運行にあたつた事を思ふと、7、8年の間によくもまあ、と満洲国の躍進に今更のやうな驚きを覚えずには居られない。」
    • 「しかも現在の京図線は、正に満洲と日本とをつなぐ主要幹線の役割をさへ負はされるに至つたのである。日満の枢軸をつなぐ最短距離-大陸に上陸するよりは、釜山から朝鮮を経由するよりは、もつともつと短い線で、東京と新京とを結ぶこと位は小学生の地理でも考へられる。北鮮羅津港の出現は日本海を湖に化し去ったのだ。東京-新潟-羅津-新京、ここに結ばれた一線には将来への大きな期待がある。」

  • 【史料3】「日満捷路の大関門・羅津港」『満洲グラフ』第4巻第1号(第18号) 昭和11(1936)年1月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版第3巻、ゆまに書房、2008年、20-21頁)
    • 羅津港は、背後に新京・ハルビン・佳木斯に通ずる京図・拉濱・図佳線等、北満洲開発の大動脈をなす満洲国鉄道を負ひ、前に日本海を湖として其の対岸裏日本の開港新潟・伏木・敦賀・堺・下関の諸港に扇形に航路が開け、羅津から各港への距離は僅に870粁内外、汽船で約40時間行程にあり、事実上、日満交通上の近道に当つてゐる。」
    • 「今、仮に東京から下関・大連経由ハルビンへのコースと、同じく東京から新潟・羅津経由ハルビン行コースを比べて見ると、羅津経由は、大連経由よりも1265粁短く、これを国都新京までとしても羅津経由は大連経由よりも約1000粁短い。」
    • 「つまり、羅津港の出現によつて日本と満洲国との近道が開けた訳で、従つて、眠れる日本海と、裏日本の開港とは、羅津の開港と同時に一躍日満最短交通路の第一線に登場した訳である。現在、羅津と新潟方面に日満連絡の定期船の便があり近来、この近道を利用する者が多い。なほ、羅津からの移輸出品の主なるものは満洲大豆と水産物で、輸入品はセメント、鉄材機械等の建設材料と米とである。」

  • 【史料4】「日本海中心時代来る!羅津港の出現」『満洲グラフ』第4巻第2号(第19号) 昭和11(1936)年2月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版第3巻、ゆまに書房、2008年、24-25頁)
    • 満洲国と蘇連邦とが国境を接する北朝鮮日本海海岸、即ち北緯42°13’46’’、東経130°17’3’’の地に羅津港が開港した。しかも、羅津港の出現は従来の日満交連絡の交通体系に一大革命を齎し、更に日本海中心時代を招来しやうとしてゐるのである。」
    • 「羅津が、我国三十年来の懸案であつた吉会線とも言ふべき京図線の終端港として選ばれたのは、羅津湾が朝鮮随一の良好湾として天恵的条件を具えている為でもあるが、それ以上に、羅津が地理的に絶好の地位を占めてゐる為である。今試みに、羅津を中心として、函館(或は小樽)に到る895粁の円半径を以て円を描けば、青森、船川、酒田、新潟、伏木、敦賀舞鶴、境、下関、門司等の諸港は、殆んど其の半円弧上にあり、裏日本の諸港は孰れも羅津から895粁内外の等距離にある事が立証される。」
    • 「これまで、釜山、大連経由の日満交通路幹線による時は、九州、中国方面からの旅行者は、東北地方や北海道からの旅行者に比して著しく有利なハンヂキャップがついた訳だが、日本海を横断する羅津経由の日満コースを取る時は、北海道からも九州からも、凡そ日本全国から殆んど同一の距離と時間と賃金で旅行する事が出来るばかりでなく、大連釜山経由の第一、第二日満交通幹線に比して羅津経由の第三交通幹線は日満の距離を縮減し、日満の最短交通路として輝かしい将来を持つてゐる。」
    • 「日満両国の親善と共存共栄の実が日に進みつつある今日、日本海を中心とする末広形の航路と、裏日本諸港の繁栄は、日満最短交通路の将来と共に大きく期待がかけられてよかろう。」

  • 【史料5】「羅津の双翼 清津・雄基港」『満洲グラフ』第4巻第2号(第19号) 昭和11(1936)年2月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版 第3巻、ゆまに書房、2008年、28-29頁)
    • 「羅津を中心として、その北方約15粁の地にある雄基と、南方約100粁の地にある清津は、北鮮三港と称ばれ、羅津港の双翼として、緊密な関係を持つて居る。」
    • 清津は、北鮮第一の大都会で、現在人口約4万5千、明治41年開港場となつて以来30余年閲し呑吐能力百万吨、6千吨級の船舶3隻、3千吨級4隻を繋留し得る埠頭を持ち、小麦粉・砂糖・セメント等を輸入し大豆・魚類・石炭・木材等を輸出しているが、その商勢圏も、京図線南廻線の終端駅の観がある。清津は、かく国際大呑吐港としても優れてゐるが、北鮮の大漁港として知られ、水産物による油脂工業、缶詰工業が、盛である。又、本港と、雄基、羅津を連ねる344粁の北鮮鉄道を委任経営する満鉄の北鮮管理局も此地に置かれ、北鮮に於ける政治経済的中心地として諸官衙が設けられてゐる。」
    • 「雄基は朝鮮最北部の開港場で人口約2万人、往年、間島、琿春地方の物資呑吐港として浦塩港に対抗したもので、現在呑吐能力約60万吨、石炭・木材のほか大豆・豆粕・魚類を輸出し、穀物・穀類・セメント等を輸入してゐる。昨秋11月、雄基羅津間15.2粁の新鉄道が開通し、汽車で僅か20分行程である。」
    • 「とにかく羅津を京図線最終端の大呑吐港とすれば、清津は漁港、工業地であり雄基は木材・石炭等の荒荷貨物の輸出港としての役割を持ち、日満最短交通線上の北鮮三港は不可分の関係に立つものである。」

  • 【史料6】「清津の鰯加工業」『満洲グラフ』第4巻第2号(第19号) 昭和11(1936)年2月号(財団法人満鉄会監修『満洲グラフ』復刻版 第3巻、ゆまに書房、2008年、34-35頁)
    • 「朝鮮の日本海岸一帯は、温帯性、寒帯性の魚族が無尽蔵と言はれ、中にも、いわし・さば・たらの各漁業は著しい発達を遂げ、その年産額は、いわし〆粕420万円、魚油250万円、塩蔵さば70万円に上つてゐる。」
    • 清津は、北鮮第一の漁港だけに、水産物の集散及び加工業も盛で、殊に豊漁の鰯は、缶詰とし、或は圧搾して魚油とし、〆粕は肥料として夫々輸出するほか、近来、冷凍魚として各地に輸送されてゐる有様である。なほ、魚油の年産額は約3万吨で、硬化油製造業も勃興し、更に硬化油から脂肪酸グリセリン等を製造してゐる。清津に在る水産物の加工工場を一瞥すれば、次の様なものがある。朝鮮油脂会社、鰮油工場、林兼フイツシユミール缶詰工場、北鮮製油会社、製塩工場、合同脂工場、日本食糧工場、北鮮魚糧工場。」

  • 【史料7】山形県教育会満鮮視察団編『満鮮の旅(視察報告)』山形県教育会満鮮視察団、1935年、2-3頁
    • 「京図線は危険です、夜行のみは見合わせたら……」等注意されたので一同稍頭を悩ませたが兎に角行けるところまで行こう……」

  • 【史料8】山形県教育視察団編『満鮮の旅』山形県教育視察団、1938年、15頁
    • 「列車にはカモフラージュした装甲車をつけたのが有つたし、どの列車にも銃剣に身を固めた警備兵が乗り込んでゐる。鉄道沿線にはそこここに警備所が厳然として構へてゐるし、殊に南陽から国際橋で豆満江を渡つて図們に入り、内鮮満の人が入りまじつてゐるのを見て遠くも来つる感にひたるので有る。」

  • 【史料9】東海商工会議所聯合会視察団鮮満視察団編『満鮮 旅の思ひ出』名古屋商工会議所、1936年、111-112 頁
    • 「〔……〕図們は、今回の旅行の主要目的の一である京図新線の始発駅として、北鮮へ通ずる重要なる関門である。京図線の名は、まだよく人口に膾炙されず、尚ほ内地人には耳新しく響くやうだが、この京図線こそ、日支20年来の大懸案であつた所謂吉会鉄道を事実の上に解決したものであると云へる。即ち京図線とは満洲国の首都新京と、満鮮国境の図們を結ぶ全長528粁の大幹線であつて、旧吉長吉敦両鉄道と昭和8年4月20日、にその敷設を完了した敦図鉄道を合併併称したものであり、満洲国の心臓部を東西に貫く、再捷の日満新交通路である。かくて日本内地より満洲に入る経路〔……〕殊に敦賀より満洲に入る最捷経路は、実に日満交通史上一新世紀紀元を画するものとして、これによりわが大陸政策の基調は、太平洋から日本海へ、即ち表日本から裏日本への一大飛躍に移らうとする感がある。更に敦賀と名古屋、満洲と名古屋製品等の関係に思ひを及ぼす時、我ら名古屋の実業家として、深い感動を禁じ得ないものがあるのである。やがて来るであらう日本海中心時代―名古屋商品万能の時代―を夢見ながら図們駅のプラットフォームに下り立つた〔……〕」

  • 【史料10】四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自家出版、1934年、21頁
    • 「港湾の立派さはサスガに北鮮第一と折紙をつけられるだけであつて僕のやうな素人にさえも嘆声を発せしめたほどである。菱形の港で入口には大草、小草の二つの島が行儀よく坐ってゐるので外界からの視野はさえぎられるし、また自然の防波堤ともなつてゐるわけである。コノ築港計画は第三期までで、第一期は昭和12年度でおはる。そうして第一期計画だけで伏木港の三倍に相当する三百万トンの積荷作業が出来ることになるのだそうであるから大連以上の大貿易港になるワケ。この港の完成するころには、富山県でも伏木港の第三期拡築計画が出来上がるだらうし、東岩瀬の開港場も実現するだらうから、富山県と対岸との貿易関係はおどろくべき発展と頻繁さを招来し県産業界にも一大革命はおこることになりはすまいか?ソノ時こそは工業県として、日満産業関係の枢要なる門戸となるであらうことは疑ふ余地はない。」

  • 【史料11】東海商工会議所聯合会視察団鮮満視察団編『満鮮旅の思ひ出』名古屋商工会議所、1936年、45-46頁
    • 「此港は昭和7年5月11日附を以て、拓務大臣より京図線と連絡する図們東部線の終端港として指令を受け、北鮮三港の一つに加へられ、僻地の一寒村が、一躍世界的に有名となつたのである。その築港費用は7千5百万円巨額であつて、〔……〕羅津が先輩貿易港である清津及雄基の良港を凌ぐ大築港計画が樹てられたのは、次の理由に拠るのである。一、清津は背後鉄道の距離大にして、輸送能力に限界がある。二、雄基は風浪激しく築港計画をなすも、最大呑吐能力5、6百万吨に過ぎぬ。三、羅津及雄基は港湾素質良港で、鉄道距離小なるため経営上採算が最も有利である。四、羅津は雄基に比し水陸共に面積大きく風波に遮蔽されかつ工事費が僅少にてすむ。羅津港が風波に遮蔽されてゐるのは、地勢上東北西の三面に山を負ひ、南方に開いて日本海に面し、湾口に大草小草の二島介在して、自然の防波堤を形成してゐるからであり、全く天興の良港である。」

  • 【史料12】松井正明『鮮満一巡 附転業対策卑見』千葉東亜経済研究会、1941年、46-47頁
    • 「羅津は北鮮の要港で満鉄の経営に属し、大規模な築港計画を立てて今建設の途上にある。港は入口に大草、小草の二島があり、湾内広く、深く、典型的な良港を成してゐる。嘗て日露戦役後に上村艦隊の根拠地となり、西伯利亜出兵にも月4餘に亘つて碇泊した事で有名である。人口は3万5千許り、まだたいした繁昌でもないが、新潟、敦賀を経る北満への重要な交通路として将来の大躍進が約束されてゐる。」

  • 【史料13】四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自家出版、1934年、14-16頁
    • 「終端駅を羅津にうばはれてからは、ナントなく若くして老ひたるの風が見えるやうだ。〔……〕結局においては羅津が完全に発展するまではコノ港街の繁栄は下り坂を余儀なくされることであらう。〔……〕北鮮海岸の一小漁村が、一躍して世人に噂され、満鮮を旅する者をして必ずたち寄らしむるまでに重要視されるにいたつた理由は、ナントいつても満洲国独立と、北鮮指定航路の開設によるものである。しかしソノ成長がコウいつた事情によるもので全く他力的な発展であるために、ソコには牛乳で育つた子供のやうな、かよわい感がする。生産者がゐない街-産物のない土地は温室の鉢に植えられて咲かせられた花のやうに、パツとしたあでやかさはあるけれど、ひとたび荒い外気にふれるならばスグに萎んでしまふのである。雄基の街の発展ぶりは、これに似たものがある。ここの街はやがて羅津の完成とともに補助港として、所謂工業港たりうるのだといはれてゐる。満洲特産物の集散地としてソノ期してゐるとほりに発展するかどうかは興味あることだと思はれる。」

  • 【史料14】東海商工会議所聯合会視察団鮮満視察団編『満鮮旅の思ひ出』名古屋商工会議所、1936年、47-48頁
    • 「此港は大正10年6月貿易港に指定せられ、現在の港湾整備は、大正15年より4ヶ年継続、工費60万円を以て完成され、更に昭和4,5年の両年に亘り、その拡張工事を施したるも、桟橋の繋船能力は、3千吨級の汽船二隻を同時に繋溜し得るに過ぎない。港湾に接続して龍水湖と呼ぶ相当広き湖水があり、木材貯蔵場として適当の素質を有すると云ふ。人口2万4千人、物産は海産物を主とし、背後地の物資、木材、大豆、小豆等の集散地であり、附近に金鉱等もあり、市街は港町式の繁昌を呈しゐる。雄基駅は市街を距る約1里の所にあり、その附近には工場敷地として適当のもの多し。」

  • 【史料15】東海商工会議所聯合会視察団鮮満視察団編『満鮮旅の思ひ出』名古屋商工会議所、1936年、46頁
    • 「此港は明治41年4月開港場に指定せられ、人口約4万人の都市であつて朝鮮沿岸の諸港の航路は因より、裏日本の諸港、関門、阪神、京濱等への定期航路も有り船舶の出入頻繁である。産業は水産物を主とし、就中此地方は鯤は最も良好であり、魚の種類は北海道方面のものと同様である。輸出貿易は1ヶ年4600萬円位で、重要輸出品の種類は穀物、木材、魚油、魚肥等であり、昨昭和8年度の輸入総額は1283万円で、その中綿織物が最も多く二百万円以上に上る。現在港内は650万円の予算を以て、岸壁950米の突堤6百米延長工事を行つてゐるが、本年中には竣工の予定であつて完成の暁は百万吨の収容能力を有するに至り、なほ外に百万円の予算を以て、13万坪の国際的漁港の建設中である。」

  • 【史料16】大橋克『満鮮北支紀行』自家出版、1938年、4頁
    • 明治41年4月1日万国通商貿易港として開港した当時には人口1千5百、貿易額90万円に過ぎなかつた清津が今日では人口約6万5千、貿易額百倍に達し1億円を突破せんとする一大都市を形成し(内2割日本人、三重県人は此内の百分の一)産業貿易の中心地として、美事満洲国の表玄関として活躍するに至つたのである、重要なる輸移出品は穀物(主として大豆)150万石、木材50万石、魚油200万缶、魚肥50万俵等々である〔……〕」

  • 【史料17】磯西忠吉『鮮満北支ひとり旅』大正堂印刷部、1941年、6-7頁
    • 清津に上陸、波止場前の停留所からバスに乗つて停車場に行く。道路の改修、家屋の新築、何処を見てもあわただしい。いかにも新興都市にふさはしい。波止場から駅までは数町ある。丘陵は海岸に迫り、道路は悪しく、大市街を建設するにはまだまだ歳月を要する。清津は日露戦役当時までは、雄基や羅津と共に一漁村に過ぎなかつたが、現在では満蒙欧亜に通ずる大関門となり、交通経済共に北鮮の中心地であり、また海産物の集散並に其の加工の中心地である。故に列車の運転系統は此の地を発着駅としてゐる。」
  • 【史料18】山形県教育視察団『満鮮2600里』昭和17年山形県教育視察団、1942年、17-18頁
    • 「漁港は海上30分、静かな入江の天然の良港鰮の製造工場を見学した。約3ヶ月で優に1ヶ年の生計費が得られるといふ。大規模な漁獲物陸揚機の設備、専用軌道を敷いた進歩改良された工場、大貯油タンク等々。起ち上る朝鮮は先づ漁業と大工業都市としての活躍が目醒ましい。北鮮三港は、その代表的なもので、殊に満洲大陸と日本を結ぶ重要港としての価値が大きい。逞しい天然資源とその底力、或は大陸前進の兵站基地としての重要性は近年益々著しく認められるやうになつた。重要鉱物資源は勿論のことタングステン、雲母などの非鉱物類の産出が多く。又水力発電、豊富な労力資源等で特筆に値する。」

出典史料と著者属性

  • 【史料7】山形県教育会満鮮視察団編『満鮮の旅(視察報告)』山形県教育会満鮮視察団、1935年
  • 【史料8】山形県教育視察団編『満鮮の旅』山形県教育視察団、1938年
    • 尋常学校・高等小学校の校長・教頭ら10名の視察団
  • 【史料9・11・14・15】東海商工会議所聯合会視察団鮮満視察団編『満鮮旅の思ひ出』名古屋商工会議所、1936 
    • 東海商工会議所主催の視察団の紀行文
  • 【史料10・13】四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自家出版、1934年、21頁
    • 富山日報記者による対岸貿易拓殖振興会の委嘱視察
  • 【史料12】松井正明『鮮満一巡 附転業対策卑見』千葉東亜経済研究会、1941年
    • 楽器店社長
  • 【史料16】大橋克『満鮮北支紀行』自家出版、1938年
  • 【史料17】磯西忠吉『鮮満北支ひとり旅』大正堂印刷部、1941年
    • 国語教師。教育視察の許可を取り出張。本書を生徒に配布。
  • 【史料18】山形県教育視察団『満鮮2600里』昭和17年山形県教育視察団、1942年
    • 山形県教育会より校長ら9名を派遣

年次別に見る日本人来満団体数(1922-40)

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