遠山茂樹『明治維新』(岩波文庫、2018年) 第二章「尊王攘夷運動の展開」(59-124頁)

  • 概要
    • 欧米列強の外圧よりも幕末日本にブルジョワ的萌芽があったという内在性を重視している。
    • 当初、尊王攘夷論は幕府を強化するための理論的根拠だった。尊王攘夷はいつから反幕府となったのか。それは継嗣争いに敗れた改革が井伊攻撃の口実を違約調印に求めたから、尊王攘夷対佐幕開国という構造ができた。尊攘派は次第に過激化したが、幕府を否定しても次の政体を想定できなかったところに限界があった。
  • 【章立て】第二章「尊王攘夷運動の展開」
    • 第一節「外圧の性格」
    • 第二節「尊王攘夷論の思想的性格」
    • 第三節「政争の進展」

第一節「外圧の性格」

  • 後進国日本の近代化 外圧と内的必然性(59-60頁)
    • 後進国の近代化は、内的必然性の充分な成熟をまつことなく、先進資本主義諸国の指導の下に、あるいはそれへの対抗の形で、つまりいずれにせよ、国際的条件に強く左右されつつ行われる〔……〕だが同じ後進国でも、それぞれの国の近代化の内的必然性ーー封建制崩壊とその過程に生まれるブルジョワ的発展ーーの成熟度の差に従って、その国際的条件に対応する仕方は異なる〔……〕幕末社会が開国以前に、なお微弱ではあるが、自生的に絶対主義に転化する力を持ちえたことが、ほぼ同じ欧米資本主義の圧力下にも、中国と異なる運命を切り拓きえた理由であった。」
  • 自由貿易帝国主義的な考え方(61頁)
    • 「結局いわゆる平和外交とは条件つきであるにすぎない。封建支配者が鎖国政策を撤去し、自由貿易の原則を受諾し、世界市場の一環となることを承認する限りにおいてであった〔……〕かれ(欧米列強−引用者)が究極において求めたところは、開港であり、外交使節の交換であり、封建支配者の干渉なき自由貿易の確立であった。しかもそれは〔……〕不平等条約であった。それは日本ならびに中国の国際的地位を、欧米資本主義の半植民地的市場として決定した」
  • 中国の同治中興と日本の明治維新(62−64頁)
    • 「〔……〕時を同じくして中国の同治中興、日本の明治維新が出現した。それは共に封建支配者がこれまでの排外主義を緩和ないし転換して、外国勢力と妥協・結合することによって、政治改革を企てたものであった。このような表面的経過の類似にもかかわらず、中国と日本との間に国家統一の様相、近代的転化(資本主義化)の速度に大きな相違を生じた。これは、まごうかたなき事実である。その差は、中国が経済的のみならず、政治的にも次第に欧米列強の半植民地化するコースに入りこんでいったのに反し、日本が一応政治的に独立を維持しえた違いに最も端的にあらわれていた。そしてまた同治中興と明治維新との、改革としての深さの比較にならぬ相違をもたらしたのである。この大きな岐路の原因はどこに求むべきであろうか。」
    • 「〔……〕基本的な原因は、むしろ内的条件と結合した次の事情にある。日本では政界の表面で攘夷運動が猖獗をきわめたにかかわらず、その裏では貿易がすこぶる順調に伸びつつあったこと。これは貿易がわが封建経済を解体せしめた破壊的効果と共に、その資本主義化を促進する建設的効果をもったことを示している。それは幕末社会がブルジョワ的発展の自力を有したことによって由来するものであった。さらに中国では、平英団・匕首党などのごとき民衆の排外暴動が起ったのにたいし、幕末の百姓一揆が直接排外主義運動に赴かず、反封建闘争に集中したこと。これは、わが幕末の階級闘争の発展度の高さの証左であり、絶対主義成立の内的必然性に関わることであった。」
    • 「要するに日本の民衆の近代化の力が、中国の民衆のそれに立ち勝っていたことである。そしてこの事実が、イギリス外交当局をして、日本市場の有望性を確信せしめ、また民衆が排外思想に捉われず、攘夷運動が封建支配を維持しようとする武士層だけの根の浅いものであり、従って日本はやがて開明化されうることの見透しを持たしめたのである。」
  • イギリスの対日政策(64頁)
    • 「イギリスの対日政策は、次ごとき基本綱領を持つに至った。(1)できる限り武力発動を避け、外交交渉によって通商の確保、発展を図ることに重点を置いたこと、(2)わが封建支配者をして攘夷の無謀をさとらせるためには鉄火に訴えるも辞さなたかったが、しかもあくまでも封建支配者内部の開明派の育成に努力を傾注し、そこに外交危機打開の希望をかけたこと、(3)貿易発展に障害をなす封建制の廃止を希望しつつ、しかも下からの革命を避けて、上からの漸次的改革の途を要望したこと。」

第二節「尊王攘夷論の思想的性格」

  • 尊王論攘夷論の結合(65-66頁)
    • 「幕末の反動的政治運動の観念的支柱、明治維新の思想的地盤は、尊王攘夷論であった。古代的権威をもつ皇室を君臣関係の最高表現として尊崇すべきを主張する尊王論と、わが「神州」を侵略する意図をもつ「夷狄」を撃攘しようとする攘夷論とは、一応は別箇の思想であった。けれども二つながら、本来儒教的名分論にもとづくもので、内にあっては君臣の大義、外にたいしては華夷の弁(自国を中華、外国を夷狄として、その間の尊卑の別を明らかにすること)として表現されるように、思想の性格からいって、もともと結合すべき必然性があったといえる」
  • 幕末尊王論は、反幕的要素を含まない(67頁)
    • 幕藩体制を観念的に支える封建主従道徳が弛緩しつつあった必然的趨勢に抵抗し、これをあくまでも護持してゆくために、天地と共に変わらざる国体の顕現として、皇室の絶対尊厳を強調し、そこに忠道徳の最終の拠り所を求めようとした幕末尊王論には、もともと反幕的要素を含まず、まして反封建的イデオロギーたりうるものではなかった。三百諸侯と出自を同じくする徳川氏が将軍として天下に号令するためには、右大臣(あるいは内大臣)・征夷大将軍・淳和奨学両院別当・源氏長者と名乗る将軍宣下を必要とした。」
  • 封建制の危機と尊王攘夷論(68頁)
    • 尊王論攘夷論、あるいは両者の結合としての尊王攘夷論が、ことさらに幕末の政治論として擡頭し、一応現状打破の役割を担うに至ったのは、封建制の危機が、国内的にまた対外的に、逼迫した現実に押されて、それが封建支配者層の危機意識の集中表現となったからである。封建制崩壊の大勢に流されず、それを食いとめようとする積極的意図が、封建倫理の強調を単なる机上の空論に終らしめず、現状改革論に進ませた」
  • 徳川将軍制を強化するための尊王攘夷論(69頁)
    • 尊王論が具体的な現実の目標を持つ政治論として、広く武士層の政治意識を捉えるに至ったのは、水戸藩徳川斉昭およびその近臣が唱道してから後であった。斉昭らの尊王論は、明らかに大塩平八郎の乱に端緒を示した、民衆の封建支配への批判意識と、浪人的政治改革の理想としての王政復古思想、この二つの結合の動きに対抗して、将軍・大名の立場から唱え出したものであった。従ってそれは徳川将軍制を前提とし、それを強化する目的に発していた。だから彼は、将軍・大名・藩士・庶民、それぞれの身分に随って、皇室に忠義をつくすべきであると、忠道徳の封建的秩序を主張した」
  • 一切の政治改革論を封建制の枠内に自覚的に閉じ込める(70頁)
    • 「〔……〕封建制の危機を鋭く知覚し、その打開が熱烈に志向されても、そこに包蔵される現状改革論が、結局、尊王を実現し、攘夷を断行する目的に従属せしめられて受け取られた時、忠道徳を振起し、士気を振粛する方策に集約されることとなって、一切の政治改革論を封建制の枠内に自覚的に閉じ込める働きをなした。幕末政争の進行した後年になっても、明治維新の目標がもっぱら王政復古、攘夷親征としか意識されず、絶対主義的改革の方向すらが容易に自覚されず、政争が必要以上の紆余曲折、混迷するに至った思想的理由は、実にここにあった。」

第三節「政争の進展」

  • 阿部正弘の政策と封建支配者下層部の産声(72-73頁)
    • 「阿部の政策は、幕閣の独裁をもってしては、時局を処理する自信を持たなかったので、封建領主諸勢力との連合関係を強化して、その上朝廷の権威をも借りて、もって幕府権力の基礎を固めようとしたものであった。〔……〕各方面への諮問政策は、幕府・諸藩・朝廷それぞれの内部での最高上層部の無能を暴露する結果となった。彼らの言動は、有為の家臣・下僚の助言を待ってはじめて発するのが、当時の実情であったからである。この後急速に封建支配秩序、門閥制度への批判が、封建支配者下層部の声としてあげられるに至った。」
  • 公家と反幕勢力の結合(76頁)
    • 「〔……〕公家は政治的無定見から、単なる幕府追随主義であるが、ないしは単純なまた固陋な攘夷主義かであったが、後者の立場の者は、攘夷を実行しえぬ幕府に次第に批判的な眼を向けるようになった。この傾向を助けたのは、水戸をはじめとする攘夷派の諸藩や浪士の入説であった。王政の昔を偲び、再び政権にあずかりたいという公卿の願いと、勅命の権威によって己れの意見を幕政に反映せしめようとする反幕閣派勢力の望みとが、宮廷政治特有の陰謀と賄賂とによって結合され、かくて京都は、尊王攘夷運動の策源地となっていった。」
  • 封建支配者内部の対立(76頁)
    • 外交問題をめぐる封建支配者の内部の対立は、安政5(1858)年に至って、幕閣のヘゲモニーを争う大名勢力間の抗争として表面化し、両派は互いに朝廷を味方に引き入れようと策動し、この結果は、公家の政治に対する発言力を大きくした。〔……〕政争の重点は、対外問題から対内問題へと移ろうとしていた。幕閣独裁を抑止しようとする改革派(越前藩・薩州藩を中心とする)は、開国か、鎖国かに意見の開きを包含しようとしながら、当時「英明」の聞こえがあった一橋慶喜(徳川斉昭第七子)を擁立することに協力し、他方将軍の伝統的権威を守ろうとする保守派は、現将軍と血縁の近い紀州藩徳川慶福(後に家茂と改名)の擁立の下に結集した。〔……〕継嗣問題に敗れた改革派は、井伊攻撃の口実を違勅調印の責めに置くこととなった。」
  • 尊王攘夷か佐幕開国かをめぐる対立 及び下級藩士の台頭(77-78頁)
    • 「〔……〕政争は、開鎖の名分論的論議から、一旦は諸雄藩連合的政権か、将軍独裁政権からの国内問題に正しく向いはしたものの、再び表面の旗印は、尊王攘夷か佐幕開国かの観念的対立として押し出され、時局の核心の所在が逆もどりに混迷せしめられた。しかしながら他面では、政争の進展は、封建支配者の上層から下層へと深められた。当初は大名間の勢力争いが、その手先としての有能な下級藩士・浪士の中央政界登場を促し、ついで志士間の全国的提携さえもが、尊王攘夷ないし一橋擁立による幕政改革の線に沿って、ある程度成立するに至った。」
  • 安政の大獄尊王攘夷の急進化(78-79頁)
    • 「〔……〕この弾圧(安政の大獄−引用者)は、かえって封建支配者間のもろもろの対立を、幕閣派と反幕閣派との二大対立に統一させる機縁となった。封建専制支配に対する不満は、幕閣専制への反感によって代表せしめられ〔……〕そして幕府権力に拮抗する尊王攘夷運動の実践の急進性は、イデオロギーの反動性によって支えられ、強められた。」
  • 尊王攘夷が民衆の中に足をおろすことができなかった理由(80頁)
    • 「〔……〕貿易は、この時期には輸出超過を持続した。生糸・茶を筆頭とする原料品・原料用製品、食糧品の輸出にもとづく需要の増大は、これを生産する農村の自給自足体制をつき崩し、その経営を商業的農業へ転換させた。また輸出商品の生産を質量共に向上させる必要が、資本制家内労働・マニュファクチュアへの工業形態の発展を強力に促進した。農民分解は一層進行せしめられ、地主豪農層、これと緊密な関係に立つ在郷の商業高利貸資本家層を擡頭せしめ、かれらと自作・小作人との対立を醸成しながらも、なお前者の農村支配力を強化し、その主導下の近代的転化の方向を推進した。開港の影響にたいする、この国内経済の適応性が働いていた故に、萌芽的民族資本の動向は、必ずしも排外主義に走らず、他面耕作農民の側でも、この時期には、百姓一揆をさして激発するまでに至っていなかった。ここに攘夷運動が民衆の中に足をおろすことができず、結局浮き上がらざるをえなかった経済的理由がある。」
  • 尊王攘夷運動の過激化(80-81頁)
    • 「〔……〕尊王攘夷運動の指導権は、次第に藩主勢力の手を離れて、下層藩士・浪人に握られ、過激な手段がとられるようになった。初め在留外人に向けられたテロ行為が、この頃には、主として幕府の捕吏、佐幕派公卿の家臣に向けられ、この「天誅」の威嚇によって、朝議は尊攘激派の思いのままに動くようになった。京都における幕府の支配力は後退した。この間隙に乗じ、薩・長・土三藩の勢力は伸び、それぞれ大兵を京都に入れた。」
  • 尊攘のジレンマと限界(81、84頁)
    • 文久3(1863)年に入ると、尊王攘夷運動は、運動形態の上でも、指導理念の上でも、そのぎりぎりの極限にまで達した。〔……〕攘夷を実行しようとする限り、国際産業資本の要求に真向から対立する限り、封建反動、たかだか幼稚な王政復古が夢見られたにすぎず、絶対主義成立としての明治維新への見透しをつかむことができなかった。攘夷を実行できぬ無力な幕府は否定はしても、その後にいかなる政体をもつべきか、建設的プランの極度の貧困は、当年の志士の政治思想の著しい特徴をなした。かくて尊王攘夷運動は、ジレンマの故に、いよいよ直線的な過激化に驀進し、その結果は障壁に突き当たって、もろくも瓦解してしまった。」