- 概要
第一節「外圧の性格」
- 後進国日本の近代化 外圧と内的必然性(59-60頁)
- 中国の同治中興と日本の明治維新(62−64頁)
- 「〔……〕時を同じくして中国の同治中興、日本の明治維新が出現した。それは共に封建支配者がこれまでの排外主義を緩和ないし転換して、外国勢力と妥協・結合することによって、政治改革を企てたものであった。このような表面的経過の類似にもかかわらず、中国と日本との間に国家統一の様相、近代的転化(資本主義化)の速度に大きな相違を生じた。これは、まごうかたなき事実である。その差は、中国が経済的のみならず、政治的にも次第に欧米列強の半植民地化するコースに入りこんでいったのに反し、日本が一応政治的に独立を維持しえた違いに最も端的にあらわれていた。そしてまた同治中興と明治維新との、改革としての深さの比較にならぬ相違をもたらしたのである。この大きな岐路の原因はどこに求むべきであろうか。」
- 「〔……〕基本的な原因は、むしろ内的条件と結合した次の事情にある。日本では政界の表面で攘夷運動が猖獗をきわめたにかかわらず、その裏では貿易がすこぶる順調に伸びつつあったこと。これは貿易がわが封建経済を解体せしめた破壊的効果と共に、その資本主義化を促進する建設的効果をもったことを示している。それは幕末社会がブルジョワ的発展の自力を有したことによって由来するものであった。さらに中国では、平英団・匕首党などのごとき民衆の排外暴動が起ったのにたいし、幕末の百姓一揆が直接排外主義運動に赴かず、反封建闘争に集中したこと。これは、わが幕末の階級闘争の発展度の高さの証左であり、絶対主義成立の内的必然性に関わることであった。」
- 「要するに日本の民衆の近代化の力が、中国の民衆のそれに立ち勝っていたことである。そしてこの事実が、イギリス外交当局をして、日本市場の有望性を確信せしめ、また民衆が排外思想に捉われず、攘夷運動が封建支配を維持しようとする武士層だけの根の浅いものであり、従って日本はやがて開明化されうることの見透しを持たしめたのである。」
第二節「尊王攘夷論の思想的性格」
- 幕末尊王論は、反幕的要素を含まない(67頁)
- 徳川将軍制を強化するための尊王攘夷論(69頁)
第三節「政争の進展」
- 阿部正弘の政策と封建支配者下層部の産声(72-73頁)
- 「阿部の政策は、幕閣の独裁をもってしては、時局を処理する自信を持たなかったので、封建領主諸勢力との連合関係を強化して、その上朝廷の権威をも借りて、もって幕府権力の基礎を固めようとしたものであった。〔……〕各方面への諮問政策は、幕府・諸藩・朝廷それぞれの内部での最高上層部の無能を暴露する結果となった。彼らの言動は、有為の家臣・下僚の助言を待ってはじめて発するのが、当時の実情であったからである。この後急速に封建支配秩序、門閥制度への批判が、封建支配者下層部の声としてあげられるに至った。」
- 公家と反幕勢力の結合(76頁)
- 「〔……〕公家は政治的無定見から、単なる幕府追随主義であるが、ないしは単純なまた固陋な攘夷主義かであったが、後者の立場の者は、攘夷を実行しえぬ幕府に次第に批判的な眼を向けるようになった。この傾向を助けたのは、水戸をはじめとする攘夷派の諸藩や浪士の入説であった。王政の昔を偲び、再び政権にあずかりたいという公卿の願いと、勅命の権威によって己れの意見を幕政に反映せしめようとする反幕閣派勢力の望みとが、宮廷政治特有の陰謀と賄賂とによって結合され、かくて京都は、尊王攘夷運動の策源地となっていった。」
- 封建支配者内部の対立(76頁)
- 「外交問題をめぐる封建支配者の内部の対立は、安政5(1858)年に至って、幕閣のヘゲモニーを争う大名勢力間の抗争として表面化し、両派は互いに朝廷を味方に引き入れようと策動し、この結果は、公家の政治に対する発言力を大きくした。〔……〕政争の重点は、対外問題から対内問題へと移ろうとしていた。幕閣独裁を抑止しようとする改革派(越前藩・薩州藩を中心とする)は、開国か、鎖国かに意見の開きを包含しようとしながら、当時「英明」の聞こえがあった一橋慶喜(徳川斉昭第七子)を擁立することに協力し、他方将軍の伝統的権威を守ろうとする保守派は、現将軍と血縁の近い紀州藩主徳川慶福(後に家茂と改名)の擁立の下に結集した。〔……〕継嗣問題に敗れた改革派は、井伊攻撃の口実を違勅調印の責めに置くこととなった。」
- 尊王攘夷が民衆の中に足をおろすことができなかった理由(80頁)
- 「〔……〕貿易は、この時期には輸出超過を持続した。生糸・茶を筆頭とする原料品・原料用製品、食糧品の輸出にもとづく需要の増大は、これを生産する農村の自給自足体制をつき崩し、その経営を商業的農業へ転換させた。また輸出商品の生産を質量共に向上させる必要が、資本制家内労働・マニュファクチュアへの工業形態の発展を強力に促進した。農民分解は一層進行せしめられ、地主豪農層、これと緊密な関係に立つ在郷の商業高利貸資本家層を擡頭せしめ、かれらと自作・小作人との対立を醸成しながらも、なお前者の農村支配力を強化し、その主導下の近代的転化の方向を推進した。開港の影響にたいする、この国内経済の適応性が働いていた故に、萌芽的民族資本の動向は、必ずしも排外主義に走らず、他面耕作農民の側でも、この時期には、百姓一揆をさして激発するまでに至っていなかった。ここに攘夷運動が民衆の中に足をおろすことができず、結局浮き上がらざるをえなかった経済的理由がある。」
- 尊王攘夷運動の過激化(80-81頁)
- 尊攘のジレンマと限界(81、84頁)