家康(1542~1616/在職1603~1605)
秀忠(1579~1632/在職1605~1623)
家光(1604~1651/在職1623~1651)
1.家康の天下掌握
(1)家康の台頭
- ①秀吉死後の豊臣氏
- 豊臣政権は秀吉の専制的傾向が強く政権の基礎は不安定。朝鮮出兵により豊臣恩顧の大名の対立と疲弊。秀吉を継いだ豊臣秀頼(1593~1615)はまだ幼かった。
- ②家康勢力の状況
- ①端緒
- ②家康の勝利
- ③結果
- 石田三成処刑。西軍大名の改易・減封を行い、東軍大名へ恩賞を出し、外様大名を辺地に配す。
- ①創設…1603年、征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開く。
- ②継承…1605年に将軍職を子の秀忠に譲り、将軍職の世襲を示して徳川家の天下を明確にした。
- ①関ヶ原の戦い後の豊臣氏
- 摂津・河内・和泉65万石の一大名となったが、豊臣恩顧の大名の存在と経済的要大阪にあり秀吉以来の富力を持っていたので、家康は豊臣秀頼を危険視。
- ②大阪の陣
- 方広寺鐘銘事件を契機に戦端を開き、冬の陣(14)、夏の陣(15)で豊臣氏滅亡。
(5)全国支配の確立
- ①元和偃武
- 大坂夏の陣の結果、戦国以来の戦乱がおさまり、世が太平となったこと。大阪の陣によって、諸大名の軍事力が幕府に統轄されていることが証明された。これを機に一国一城令・武家諸法度が発令されて統制を強化した。
- ②家康の死
2.幕藩体制(強力な領主権を持つ幕府と藩が土地と人民を統治する支配体制)
☆家康・秀忠・家光の3代は幕府の創業期であり、1世紀余りに渡る戦国乱世の余波を受けつつ並存する大名を統治しながら、強力な中央集権的封建体制を築き上げる必要があった。
(1)幕府は各地の大名をどうやって統制したのか?
- 武家諸法度
- 1615年、金地院崇伝が家康の命により大阪の陣後に起草し、将軍秀忠の名で出された(元和令)。その後は将軍の代替わりごとに増補修正されて公布された。
「参勤交代の制度が設けられた理由」東京大学・日本史・1983年・第3問
参勤交代が、大名の財政に大きな負担となり、その軍事力を低下させる役割を果したこと、反面、都市や交通が発展する一因となったことは、しばしば指摘されるところである。しかし、これは、参勤交代の制度がもたらした結果であって、この制度が設けられた理由とは考えられない。どうして幕府は、この制度を設けたのか。戦国末期以来の政治や社会の動きを念頭において、150字(句読点も1字に数える)以内で説明せよ。
- 参勤交代(武家諸法度寛永令)
- 概要
- 幕府当初から慣習化していたものを、3代将軍家光の時に制度化され、1635年に公布された家光の武家諸法度(寛永令)で規定された。大名の妻子は人質として江戸に居住し、大名も在江戸1年、在国1年として1年ごとに江戸と国元を往来した。
- 目的
- 封建的主従関係を明確化すること。結果として、諸大名の財政窮乏化の一因となった。
- 【史料】大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。
- ※大名の力を削ぐために行われたのは、普請役・お手伝い普請である。cf.1622年 肥後熊本:加藤忠広の江戸城本丸石垣のお手伝い普請
(2)江戸時代の米経済はどのように成り立っていたのか?
- ①俸禄制度
- 家臣への給与は当初は領地を与える地方知行制であったが、大名が領地を直轄し農民から貢租を取り立て、家臣に米や金を俸禄として与えられるようになった。
- cf.一国一城令…大名の居城以外の全ての城郭を破却させる。
- ②換金システム
- 地方経済
- ►大名ルート:大名は藩内の農民から収奪した年貢米を藩士に俸禄米として支給する一方で、貨幣を得るために大阪に蔵屋敷を設置し、そこで蔵物(年貢米や藩内特産品)を売却・換金した。また藩内で購入できない物資を入手したり、豪商から融資を受けたりした。
- ►民間ルート:年貢を納めてもまだ余剰があった場合や商品作物を栽培した場合、地方市場に出されて換金された。その物資は商人の手で中央市場(大阪)に送付され取引された。大名の「蔵物」に対し民間ルートの物資は「納屋物」と呼ばれる。
- 江戸経済
- 勘定奉行の管轄下にある代官によって収奪された幕領の年貢米が、浅草にある幕府の米蔵に集められた。幕領の年貢米は旗本・御家人に俸禄米(蔵米)として春・夏・冬の3季に支給された。「札差」と呼ばれる商人が蔵米の受取・管理・販売などを行い、手数料を取った。
(3)幕藩体制ではどのように民衆を支配していたのか?
- ①寺請制度…寺院を媒介とした民衆支配
- キリスト教などの宗教禁圧のため、人々はいずれかの寺院の檀徒となりキリシタンでないことを寺院に証明してもらう必要があった。人々の信仰を調べる宗門改めが行われ、村ごとに宗門改帳が作られた。旅行・婚姻・奉公などの移動に際しては寺請証文を必要とした。
- ②代官‐[村方三役]‐五人組
- 農民支配には代官が当たり、行政の末端になったのは村であり、村落内では村方三役が村政事務(年貢納入・戸籍調査・法令伝達・売買証明の証印など)を行った。村方三役は最高責任者の名主、補佐役の組頭、百姓の代表である百姓代。
- ③土地政策
- ☆幕府は家族労働による1町前後の農民経営をもっとも生産性が高く貢租負担に耐えうるものとして維持しようと努めた。
- 田畑永代売買禁止令…1643年。田畑の売買を禁止する法令。地主の発生や農民の零細化を防ごうとした。しかし自然経済が崩れ商品経済が発展すると質流れのカタチで事実上の土地売買は行われるようになっていった。
- 分地制限令…1673年。相続による土地の細分化を防ぐため、田畑面積1町歩、石高10石を基準として、それ以下に分割されることを禁止した。
- 田畑勝手作りの禁…1642年。農民は年貢となる米穀中心の自給的農業を奨励され、貨幣経済に巻き込まれないように本田畑には木綿・菜種・タバコなどの商品作物を栽培することを禁じた。しかし農民は換金に有利な商品作物栽培を続けたため、18世紀にはほとんど制限されなくなった。
(4)幕府はどのように貿易を統制したのか?
- ①朱印船貿易
- 家康は海外渡航の許可状(朱印状)を交付し、これを持つ者のみに渡航を認めた。
- ②糸割符制度(04)
- 特定商人に糸割符仲間を作らせ輸入生糸の独占買付と価格決定権を与える。
- ③貿易統制の進展
- 欧船来航を平戸・長崎に限定(16)
- スペイン船来航禁止(24)
- 奉書船以外渡航禁止(33)
- 海外往来通商制限(34)
- 外国船来航を出島に制限・日本人の海外渡航と帰国を禁止(35)
- ポルトガル人出島居住強制(36)
- 島原の乱(37~38)
- ポルトガル船来航禁止(39)
- オランダ商館を出島へ移転(41)。