2020-07-12 ビザンツ帝国史 受験世界史 前近代欧米史 1.東ローマ帝国からビザンツ帝国へ (1)西ローマ帝国滅亡後の東ローマ帝国の歴史的地位 (2)ユスティニアヌス帝(位527~565) (3)ユスティニアヌス死後 (4)ビザンツ帝国の経済 (5)ビザンツ帝国の統治 (6)レオン3世(位717~741)の聖像禁止令 (7)ビザンツ帝国の文化 (8)マケドニア朝(867~1056) 2.ビザンツ帝国の滅亡 (1)十字軍時代 (2)ラテン帝国(1204-1261) (3)パラエオロゴス朝(1261-1453) ※ビザンツ帝国最後の王朝 3.ビザンツ帝国周辺地域史 (1)スラブ人の移動 (2)ギリシア正教圏 4.ポーランド史 (1)ピアスト朝(10~14C) (2)ヤゲウォ朝(1386~1572) (3)選挙王政 (4)その後 1.東ローマ帝国からビザンツ帝国へ (1)西ローマ帝国滅亡後の東ローマ帝国の歴史的地位 ☆高い政治的権威! ←東ローマ皇帝は「唯一の」皇帝 ゲルマン人が自らの地位を正当化するための装置として利用。→ゲルマン人は諸国家対立・王位継承争いを抱える。そのためビザンツ帝国の政治的権威を利用し、自らの地位を正当化しようとした。 ビザンツ皇帝は巧みな外交でゲルマン人相互の対立を誘う。 (2)ユスティニアヌス帝(位527~565) ①ササン朝のホスロー1世と戦う(→東西交易路がアラビア半島西部に移動してメッカ・メディナが繁栄) ②北アフリカのヴァンダル王国・イタリア半島の東ゴート王国を征服・西ゴート王国から領地を奪う→地中海の覇権を回復 ③法学者トリボニアヌスに命じて『ローマ法大全』を編纂させる。 ④首都コンスタンティノープルにビザンツ式の聖ソフィア大聖堂を建設。 ⑤異教徒弾圧の一環としてアテネのアカデメイア(プラトンが創設)を閉鎖 ⑥中国から養蚕業を導入(→絹織物はビザンツ帝国の主要な輸出品となる) (3)ユスティニアヌス死後 ①異民族との戦い ゲルマン系ランゴバルト人 →イタリア半島北部平原に建国 スラヴ人 →セルビア人が正教会に改宗し、セルビア王国を建国 トルコ系ブルガール人…ブルガリア王国を建国するが、後スラブ人に同化。 ササン朝ペルシアとの抗争が続き疲弊。 アラブ人イスラーム勢力…シリア・エジプト・北アフリカを奪われる(正統カリフ第二代ウマル) ②ギリシア人国家化 東ローマ帝国がバルカン半島と小アジアに限定されたギリシア人国家へと変化→ギリシア語が公用語。首都の旧名ビザンティオンにちなんでビザンツ帝国と呼ばれる。 (4)ビザンツ帝国の経済 ①コンスタンティノープルの繁栄 → 東西交易路の要衝・養蚕技術の導入による絹織物産業の発展 ②純度の高い金貨ノミスマ → 地中海商業圏の基軸通貨。東地中海の経済的覇権を維持。 (5)ビザンツ帝国の統治 ①3世紀末以来の専制君主制を維持し、中央集権的な官僚機構を統治基盤とする ②異民族の侵入に対するヘラクレイオス帝(位610~641)の対応 軍管区制…地方に軍の駐屯地を置き、その長官に民政と軍政の両権を委ねる。 屯田兵制…軍管区の兵制に一定の土地保有を義務づけて農民兵とし、防衛力の充実と地租収入の安定をはかった制度。 ③皇帝教皇主義…皇帝が神の代理人としてコンスタンティノープル教会(ギリシア正教会)の総主教を管轄下に置く。 (6)レオン3世(位717~741)の聖像禁止令 ①偶像崇拝論争…聖像崇拝の是非をめぐる宗教的・政治的対立。聖像の神性をめぐる神学的論争からビザンツ帝国とローマ教会の相互批判にまで発展した。 ②イスラームからの圧力 → キリスト教は本来聖像を禁止していた。正教会はイスラームとの対抗上、本来の教義に立ち戻る必要性が生じた。 ③ローマ教皇との対立 → ローマ教会はゲルマン民族への布教に聖像を利用していたので、フランク王国に接近するようになる。最終的に11世紀に相互破門を行い正教会とカトリック教会として完全に分離。 (7)ビザンツ帝国の文化 ①ローマ法大全…十二表法以来のローマ法を集大成。11世紀にボローニャ大学で研究が始まる。 ②ビザンツ様式…ギリシア十字・ドーム(円屋根)・モザイク壁画を特色とする教会建築様式。→聖ソフィア聖堂やサン=ヴィターレ聖堂などが有名。 (8)マケドニア朝(867~1056) ブルガリアなどを併合し、ビザンツ帝国の全盛期を迎える。 ブルガリア帝国を征服して、「征服皇帝」と呼ばれたバシレイオス2世に代表される軍人皇帝が活躍した。 2.ビザンツ帝国の滅亡 (1)十字軍時代 ①セルジューク朝の小アジア進出に対抗してアレクシオス1世が援軍を要請。 国内ではプロノイア制を施行。皇帝が臣下に恩恵として国有地の管理権を与えることを見返りとして、国家への軍事的奉仕を求める。 ②ローマ教皇ウルバヌス2世の提唱で派遣された第1回十字軍がシリアを占領。 (2)ラテン帝国(1204-1261) ①第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領して建国 ②ビザンツ帝国の残存勢力はニケーア帝国を建てて対抗。 (3)パラエオロゴス朝(1261-1453) ※ビザンツ帝国最後の王朝 ①ミカエル8世がコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を再興。 ②プロノイア制を世襲化 西欧の封建制との違いは、主従関係が双務契約でないこと。 当初は一代限りで世襲ではなかった。 ③地中海貿易の覇権を喪失 → ヴェネツィアに奪われる。 ④オスマン帝国との戦い トルコ系のオスマン帝国がバルカン半島に進出。「永遠の都」コンスタンティノープルを占領しようと攻撃を開始 → ビザンツ帝国は激しい抵抗 1453年、メフメト2世に滅ぼされて滅亡。 3.ビザンツ帝国周辺地域史 (1)スラブ人の移動 6世紀、アヴァール族の圧迫されたスラブ人が3方向に分かれて移動を開始。 ①西スラブ人:ポーランド人、チェック人、スロヴァキア人など西方に広がったスラヴ系の人々。ローマ=カトリック文化圏に入った。バルト海沿岸からエルベ川流域。 a.ポーランド人 10世紀にカトリック受容。13世紀にモンゴルの侵入を受けるが、14世紀にヤゲウォ朝のもとで最盛期を迎える。 b.チェック人 9世紀にカトリック受容。10世紀にベーメンに建国。 c.スロヴァキア人 チェック人と同系。カトリックを受容したがマジャール人の支配下に入った。 ②南スラブ人:バルカン半島に南下。 a.セルビア人 ビザンツ帝国の支配下でギリシア正教を受容。12世紀にビザンツの支配から脱却し、ステファン=ドゥシャン(位1331~55)の時代に強国に発展したが、1389年にコソヴォの戦いでオスマン帝国のムラト1世に敗れ支配下に入った。 b.クロアティア人 フランク王国の支配下でローマ=カトリック文化を受容10世紀に独立するが12世紀にハンガリーに服属した。 c.スロヴェニア人 クロアティア人と同様にローマ=カトリック文化を受容。9世紀後半からドイツ化が進み、13世紀以降はハプスブルク帝国に組み込まれた。 ③東スラブ人:ドニエプル川流域から北方の平原にかけて広がる。 a.ロシア人 ギリシア正教の受容とビザンツ的な専制政治、農奴制の普及やシベリア進出など、西欧とは異なる特色を持つ社会を築いた。 b.ウクライナ人 東スラブ人の一派。リトアニアやポーランドの支配を受ける中でロシア人から文化し、独自の言語文化を持つようになった。 ④スラブ化したトルコ系ブルガール人 ブルガリア王国を形成したトルコ系遊牧民。7世紀、ドナウ川下流域に建国し、ビザンツ帝国との抗争をくりかえしながらスラブ人と同化していった。 (2)ギリシア正教圏 ビザンツ皇帝、スラブ人諸国を影響下に置くため、正教会の宣教師を派遣して布教 ←キリル文字を考案 →東スラブ人・南スラブ人のセルビア人・スラブ化したトルコ系ブルガール人などが信仰した。 4.ポーランド史 (1)ピアスト朝(10~14C) 10C カトリックに改宗 13C ワールシュタットの戦いでモンゴルのバトゥに敗北 14C カシミール(カジミェシュ)大王がクラクフ大学を創設。 (2)ヤゲウォ朝(1386~1572) リトアニア大公ヤゲウォとポーランド女王が結婚し、両国が合同して創始。 1410年にはタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団領を撃破! 16世紀以降、領主が直営地を経営し農奴の賦役で生産された穀物を西欧に輸出するグーツヘルシャフトが展開され食料供給地となる。 (3)選挙王政 1572年、ヤゲウォ朝断絶後に国会による国王選挙が導入される。 →国内貴族と結んだ外国勢力の選挙干渉などにより国力衰退に繋がる。 ポーランド分割(1772・93・95)で消滅。 コシューシコ ポーランドの軍人。 アメリカ独立戦争に参加・活躍し、アメリカ市民権を獲得。→その後帰国。 第二回ポーランド分割後、1794年に民族蜂起軍を指導したが失敗し追放処分となった。 (4)その後 ナポレオン戦争期にワルシャワ大公国が成立。ウィーン体制期にロシア皇帝が王を兼ねるポーランド立憲王国が形成。1918年に第一次世界大戦に乗じて独立。