中世ヨーロッパ史【1】民族移動とフランク王国

1.ゲルマン人の大移動

(1)ゲルマン社会

  • ②ゲルマン社会の様子
    • 部族制社会…小部族に分かれて牧畜と狩猟を主としながら粗放的な農業。
    • 民会…貴族と平民の男子が参加。決議は全会一致を原則。
    • ローマへ…傭兵や官吏・コロヌスとしてローマ社会に溶け込む。

(2)民族移動の原因

(3)フン人について

(4)西ローマ帝国の滅亡

(5)ゲルマン人諸国家

(6)ゲルマン族とラテン族の混血

  • イタリア、ガリア、ヒスパニアではラテン系住民が多数を占め、ゲルマン人と混血しながら、今日のイタリア人、フランス人、スペイン人の祖先となった。

2.ローマ=カトリック圏の形成

(1)ローマ教会の拡大

  • ③ローマ教会の自立
    • ローマ皇帝はローマ教会を自らの管轄下に置こうとしたが、11世紀半ばに正教圏から分離し、12世紀までに教皇を頂点とするローマ=カトリック圏を形成。

(2)修道院

西ヨーロッパの布教に大きな役割を果たす。

  • ①ベネディクト修道会…ベネディクトゥスがイタリア南部のモンテ=カシノに創設した修道会。数多くの教皇を輩出し、名門修道会として大きな影響力を持った。

3.フランク王国

(1)メロヴィング朝

①クローヴィスのアタナシウス派改宗
 ‣ガリア各地で司教として地域社会を支配していたローマ人貴族層の支持を取り付ける。
 ‣アリウス派を信仰する他ゲルマン人との戦争を正当化してガリア支配に成功。
メロヴィング家の衰退と宮宰職による実権掌握
 ‣分割相続と王家内部の争いで王権弱体化
 ‣宮廷の最高職が宮宰。メロヴィング朝ではカロリング家が宮宰職を世襲しており、カロリング家が国王の代理的な存在となった。
③カール=マルテルのキリスト教世界の防衛
 ‣トゥール・ポワティエ間の戦い…732年。メロヴィング朝の宮宰カール=マルテルが、侵入してきたウマイヤ朝イスラーム郡を南フランスで撃退した戦い。西ヨーロッパのキリスト教世界を防衛し、カロリング家台頭のきっかけとなった。

(2)カロリング朝

(3)フランク王国の分裂

  • ①ルートヴィヒ1世…カール大帝の息子で「敬虔王」と呼ばれる。彼の子どもたちがその所領を巡って争うことになりフランク王国は分裂する。
  • ヴェルダン条約…ルートヴィヒ1世の三子が相続争いの結果結んだフランク王国分割の条約。
    • a.ロタール1世…ルートヴィヒ1世の長子。分割相続に反対して弟たちと争った。ヴェルダン条約では皇帝権と中部フランク王国を継承した。
    • b.ルートヴィヒ2世…ルートヴィヒ1世の三男。東フランクを継承し、ドイツ王国の礎を築き「ドイツ人王」と呼ばれる。
    • c.シャルル2世…ルートヴィヒ1世の末子。「禿頭王」。西フランクを継承。
  • ③メルセン条約…ロタール1世死後、中部フランクをシャルル2世とルートヴィヒ2世が分割。ドイツ・フランス・イタリアの原型が成立する。

(4)カロリング王家滅亡後

  • ①東フランク
    • 10世紀初頭、カロリング王家が断絶し、有力諸侯の中から王を選出(選挙王制)
    • オットー1世の登場 (☆東フランクの有力諸侯ハインリヒ1世が創始したザクセン朝第2代)
      • レヒフェルトの戦い → 東方から侵入してきたマジャール人を撃退。
      • イタリア遠征 → イタリア王位を兼ねる
      • 962年 教皇ヨハネス12世から皇帝の戴冠を受ける →教会組織を統制して強固な王権を確立。
    • 以後、ドイツ人王が皇帝となる慣習が生まれ、後に神聖ローマ帝国と呼ばれるようになる。
  • ②西フランク
    • 10世紀末、カロリング家が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーを諸侯が王に選出。
      • ※しかし、カペー朝はパリ・オルレアンとその周辺を領有したにすぎず王権は弱体。

4.第二次民族移動(9C~:マジャール人・ノルマン人)

(1)マジャール人

(2)ノルマン人

  • ①フランス
    • 911年、ノルマン人の首長ロロが西フランク王に征服地の領有を認めさせる。→西フランク王が封土を与えセーヌ川下流域に封臣としてノルマンディー公国を建国。
      • ※1066年にはノルマンディー公ウィリアムがイギリスを征服=ノルマンコンクエス

(3)第二次民族移動の終結

  • 11世紀までに定着・同化。出身地の北欧諸国がキリスト教化して移動がおさまる。