受験生が苦しむ藤原氏シリーズ。表面的に名前と事績だけ覚えようとするより、遠回りに見えても、どのような人物なのかを掘り下げた方が頭に残りやすいと思う(個人的感想)。
【目次】
1.藤原氏の祖
- 藤原鎌足(614-669)
- 舒明朝のはじめ、官位を辞して隠棲。皇極朝になると蘇我氏打倒のため中大兄皇子に接近。645年6月、蘇我入鹿を暗殺し、蝦夷邸を包囲殲滅。皇極天皇が退位した際には、中大兄即位の時期尚早を唱え、孝徳の即位を促し、改新政府を発足させた。鎌足は内臣(うちつおみ)に任じられ政策全般に関与した。663年白村江の戦いに敗北すると緊迫する東アジア情勢のもと、中央集権国家建設のため律令諸制度の整備を推進した。臨終の際に藤原姓を賜わる。
- 大海人皇子(天武)からも信任厚く、鎌足の娘の氷上娘/ヒカミノ イラツメ・五百重娘/イオエノ イラツメはその夫人となった。壬申の乱では大海人皇子は鎌足がいればこのような事態にはならなかったと嘆いたという。
2.奈良時代の政局と藤原氏
2-5.藤原仲麻呂と孝謙(称徳)天皇をめぐる動き
- 藤原仲麻呂(恵美押勝/エミノオシカツ)(706-764)
- 南家。武智麻呂の次男。幼少より聡明で書算に優れる。光明皇后の信任と大仏造立の推進で政治的地位を上昇させ、左大臣橘諸兄と対立(諸兄は755年に密告され辞任に追い込まれる)。皇太子道祖王/フナドオウを退けて退けて大炊王/オオイオウ(淳仁天皇)を擁立。757年の橘奈良麻呂の叛乱計画をおさえ、民政安定策や養老律令施行(757)を進めた。淳仁天皇即位後は恵美押勝の名を賜り、右大臣、760年には太政大臣となり専権を振るう。
- だが同760年仲麻呂の権力の源泉であった光明皇太后が死亡し孝謙上皇の発言力が強まると、寵愛を受けた道鏡が台頭する。孝謙上皇と恵美押勝擁する淳仁天皇の対立が表面化すると、押勝は道鏡を除くため764年に反乱を起こすが失敗し斬殺された。淳仁は皇位を配され、孝謙が称徳天皇として即位した。
3.藤原北家の繁栄
3-1.他氏排斥の時代
- 藤原冬嗣(775-826)
- 北家の祖房前のひ孫。侍従として平城帝・皇太子神野(嵯峨帝)に近侍。嵯峨帝即位後、薬子の変に際し初代蔵人頭に就任。825年左大臣まで昇るが翌年死亡。娘順子を仁明帝の女御とするなど天皇家との結合を強め藤原氏北家繁栄の基礎をかためた。『弘仁格式』の編纂、勧学院、施薬院の復興などを行う。
- 薬子の変(810)…嵯峨帝と平城上皇の抗争。809年4月、病気のために嵯峨帝に譲位した平城上皇は寵愛する薬子やその兄仲成を連れて平城京へ移った。平城上皇は嵯峨帝の政治に干渉し「二所朝廷」と呼ばれる対立を引き起こした。810年3月、嵯峨帝は上皇・薬子の動きを抑える為、藤原冬嗣・巨勢野足を蔵人頭に任命した。9月に平城上皇が平城京遷都を命じると、嵯峨帝は仲成を逮捕し対決に踏み切った。上皇は重祚をはかり挙兵を企てるが坂上田村麻呂の率いる朝廷軍に遮られた。平城上皇は出家、仲成は射殺、薬子は自殺した。
- 藤原仲成(764-810)…式家。種継の子。桓武天皇と皇后乙牟漏(宇合の孫)の間に生まれた平城天皇によって、妹の薬子が寵愛される。それがきっかけで仲成も威を振るったが、平城上皇が旧都平城京に戻り、実弟の嵯峨天皇と対立する薬子の変が起こると、首謀者として処刑された。
- 藤原薬子(?-810)…式家。種継の娘。皇太子時代から平城天皇に仕える。長女も平城天皇の妃となる。平城天皇が即位すると尚侍になり側近として権勢を振るった。平城譲位後には嵯峨天皇と対立。平城上皇の平城京遷都命令で全面対決となり敗れて服毒自殺した。
- 北家の祖房前のひ孫。侍従として平城帝・皇太子神野(嵯峨帝)に近侍。嵯峨帝即位後、薬子の変に際し初代蔵人頭に就任。825年左大臣まで昇るが翌年死亡。娘順子を仁明帝の女御とするなど天皇家との結合を強め藤原氏北家繁栄の基礎をかためた。『弘仁格式』の編纂、勧学院、施薬院の復興などを行う。
- 藤原良房(804-872)
- 藤原冬嗣の次男。嵯峨帝に才能を見出され皇女潔姫と結婚。883年、仁明帝の即位と共に蔵人頭。842年、承和の変で妹順子の子道康親王(文徳帝)を立太子して娘の明子を配する。文徳帝即位後には明子が生んだ惟仁親王(清和帝)を生後9か月で皇太子とした。857年人臣としてはじめて生前に太政大臣となる。866年、応天門の変後に摂政に任じられた。
- 承和の変…842年、佐賀上皇没後、皇太子恒貞親王の側近である伴健岑と橘逸勢らが反乱を企てたとして逮捕された事件。伴健岑・橘逸勢は配流され、恒貞親王は皇太子を配された他、60名余りが処罰の対象となった。新しい皇太子には良房の甥(妹順子と仁明帝の子)である道康親王(文徳帝)が立った。
- 応天門の変…866年、平安宮応天門の炎上をめぐる疑獄事件。はじめ左大臣源信に放火の嫌疑がかけられたが後に大納言伴善男とその子中庸(なかつね)が告発された。善男と中庸は遠流、縁坐した紀夏井らも流罪となった。事件の真相は不明。清和帝の摂政となった藤原良房が炎上事件を政治的に利用して伴善男、紀夏井らを排除したものと推定される。
- 藤原冬嗣の次男。嵯峨帝に才能を見出され皇女潔姫と結婚。883年、仁明帝の即位と共に蔵人頭。842年、承和の変で妹順子の子道康親王(文徳帝)を立太子して娘の明子を配する。文徳帝即位後には明子が生んだ惟仁親王(清和帝)を生後9か月で皇太子とした。857年人臣としてはじめて生前に太政大臣となる。866年、応天門の変後に摂政に任じられた。
- 藤原基経(836-891)
- 叔父良房の養子。幼少から才気煥発で文徳天皇の寵愛を受けた。972年右大臣となり、清和・陽成・光孝・宇多の4天皇20年間にわたり国政を領導した。この間、陽成帝の時に摂政、光孝帝の時には関白に相当する権限を与えられ、宇多帝の時に関白の詔が下された。この詔をめぐり阿衡の紛議を起こしたことで有名だが政治的手腕にも優れていた。元慶官田の設置、元慶の乱の収拾、陽成帝の廃位などを行う。学問・芸術にも造詣が深く、「文徳実録」の編纂を行った。
- 阿衡の紛議…887年、宇多天皇即位に際して起こった藤原氏の示威事件。宇多帝は即位時に先代光孝と同様に基経を関白に任じようとした。当時の慣例に従い基経は辞退したが、橘広相(ひろみ)が起草した2度目の勅答にあった「阿衡の任を以って卿が任とすべし」との辞に対し、基経は「阿衡」には職掌がないと主張して出仕を拒否したため、政争に発展した。天皇は翌年、詔の非を認める宣命を発し、基経の娘温子が入内することで決着した。事件の背後には、広相の娘義子の産んだ2人の皇子が即位した場合、広相が外戚になるという状況があった。
- 元慶官田…879年、藤原冬緒の提言で畿内に置かれた4000町の官田。官人への位禄・季禄支給のために減少した正税や不動穀を補填することを目的とした。
- 元慶の乱…878年、出羽国俘囚が秋田城司の暴政に反発しておこした反乱。俘囚勢力は出羽国軍を撃破して秋田城下を制圧して秋田河(雄物川)以北の独立を要求した。政府軍は窮地に立たされるが出羽国権守藤原保則と鎮守将軍小野春風の策謀と説得により俘囚側が保則に降伏を請い、現地で妥協が成立。政府によって承認された。
- 陽成帝廃位…陽成帝は乱行が絶えず883年には宮中で殺人事件を起こしたため、翌884年に関白藤原基経により廃された。
- 叔父良房の養子。幼少から才気煥発で文徳天皇の寵愛を受けた。972年右大臣となり、清和・陽成・光孝・宇多の4天皇20年間にわたり国政を領導した。この間、陽成帝の時に摂政、光孝帝の時には関白に相当する権限を与えられ、宇多帝の時に関白の詔が下された。この詔をめぐり阿衡の紛議を起こしたことで有名だが政治的手腕にも優れていた。元慶官田の設置、元慶の乱の収拾、陽成帝の廃位などを行う。学問・芸術にも造詣が深く、「文徳実録」の編纂を行った。
- 藤原時平(871-909)
- 藤原忠平(880-949)
- 藤原実頼(900-970)
3-2.藤原北家の内部対立
3-2-2.兼家の孫と子の対立~伊周VS道長~
- 藤原伊周(974-1010)
- 藤原道長(966-1027)
- 兼家の子。兄に道隆、道兼、姉に詮子(円融帝女御、一条帝生母)。986年一条朝になり、父兼家が実権を握ると昇進を重ねる。995年兄道隆・道兼の死に際して甥の伊周と争うが、姉の詮子の援助で内覧の宣旨を受けてその地位を確立、右大臣・氏長者となり、翌年には左大臣となる。999年、娘の彰子を一条帝に入内させ翌年中宮に冊立、彰子は後一条、後朱雀を生む。1011年三条朝になると翌年に娘の妍子(けんし)を中宮に立てるが親王が生まれず三条帝と確執が生じる。1016年後一条朝となり摂政となる。翌年摂政の地位を子の頼通に譲って太政大臣。1018年には娘の威子を後一条帝の中宮として一家三后を実現し、「この世をば我が世とぞ思う」と謳った。翌年出家して行観(のち行覚)。晩年には浄土教に傾倒し法成寺を建立した。