神様になった日 第11話「遊戯の日」の感想・レビュー

Keyのお家芸「記憶」モノ。記憶を有していない個人は同じ人間と言えるか問題。
専門職員から佐藤ひな個人ではなく機械と受け答えしていたに過ぎないと断罪される。
児童介護の専門知識を持たない主人公が示せるのは諦めない心と熱意のみ。
自分がしていることはエゴではないかと苦しみ始める場面が今回のクライマックス。
諦めかける主人公に伊座並さんを始めとする仲間たちから絆の支援が届けられる。
患者に「させる」のではなく、したいことに寄り添うという介護の本質を悟り心を開かせる。

要介護者にとっての幸せとは十分に行き届いたケアか

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  • 人間が人間であると言える自我意識はどこからか。外界の刺激に対して反応しているだけと何が違うのか。
    • 介護施設でケアされる佐藤ひなの様子を見学する主人公。充実した内容のケアを受けられる佐藤ひなは幸せであると専門職員からは評されます。主人公は佐藤ひなと何とかコミュニケーションを取ろうと試みますが、全くうまく行きません。絶望しかける主人公に対してさらに駄目押し。主人公が接していた佐藤ひなは人間としての個人ではなく単なる電脳チップのAIの受け答えであり機械に過ぎないと断罪されるのです。Key作品によくある記憶モノで語り続けられてきたテーマにも通ずるところがあり、記憶リセットであれ認知症であれ、記憶を共有していなければ別個体かという問題に、さらに今回は機械に過ぎないことで味付けがなされています。
    • 精神崩壊寸前となり諦めかける主人公。もしこれがCLANNADまでのKeyだったら主人公に救いは無くバッドエンドまっしぐらだったでしょう。しかしリトバスを経て決して一人ではないことを主張するようになったKey作品は、仲間との団結が主人公を支えます。荒んでいく主人公に対し伊座並さんから電話がかかってきて幼馴染パワーを与えるのです。阿修羅からは友情パワー、妹からは家族パワー、その他これまで佐藤ひなと共に時間を過ごしてきたメンバーたちからメッセージアプリにより次々と支援の言葉がかけられます。
    • こうして主人公は覚醒!専門職員の介護方法を観察してその本質を感じ取った主人公は、これまで自分が佐藤ひなに「させる」ことをしていたと反省。ひながしたいことに寄り添うのが大事であると体得するのです。これをかつてひなが好きだったテレビゲームで応用することでオープンハートさせることに成功します。
    • 一方、主人公に接していた専門職員は自分が生んだ子が重度の障害児であり育てる間もなく引き離されたことがトラウマとなっており、自分(たち)だけが障害児を幸せにできるというプライドを糧として生きてきました。そのため主人公が施設に来てまもなく佐藤ひなと打ち解けたことを訝しみはじめ、主人公が偽装潜入していることに感づくのです。次回は佐藤ひなが別の施設に移される際に「一緒に暮らしたい?」と問いかけることがテーマになるとのこと。
    • 12話のサブタイは「きみが選ぶ日」なのですが、そもそもこの状態の佐藤ひなに選べるだけの自我があるのか。人間を人間たらしめているのは記憶や思考や心なのかという問題にシフトしている気がする。

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