参考文献:『呉市史』第6巻第1章「呉鎮守府」(1-6頁)
- 第1章記述対象
- 軍縮期の呉海軍、戦時下における華々しくかつ悲壮な活動、全面的な解体にいたる呉鎮守府の諸動向
- 軍拡
- 「帝国国防方針」(明治40/1907)にもとづき大海軍建設への計画を樹立、大正期に入ってその実現に邁進。第一次大戦の経験で世界的な大艦巨砲主義の盛行となり海軍軍備を一新せしめつつあった
- 「ワシントン軍縮条約」(大正11/1922、5月調印)で軍拡を一変させる。
- 東郷平八郎元帥→「軍備に制限はあっても、訓練に制限はない」
- 呉鎮守府司令長官野村吉三郎→「人智ノ限リヲ尽シテ船体兵器機関ノ改善ヲ計リ燃ユルガ如キ意気ト真剣味トヲ以テ教育訓練ヲ励行」
- 空軍力の増強
- 軍縮の制限外にあったため
- 昭和6年呉海軍航空隊独立開隊
- 広村の誘致活動
- 漁業補償問題→拡張工事の竣工は昭和9年11月までの日月を要する
- 満洲事変と上海事変
- 昭和6年9月 満洲事変 呉軍港から巡洋艦"天龍"が上海に向けて抜錨
- 昭和7年1月 上海事変 海軍特別陸戦隊が戦闘主力。呉軍港戦闘状態、各艦の出動が続き戦死者が英霊として帰還。3月2日停戦、4月22日全市あげての帰還兵歓迎会が二河公園で催される
- 第二次上海事変と戦火の拡大
- 昭和12年8月13日第二次上海事変勃発、同日呉鎮麾下海軍陸戦隊兵士戦死。
- 海軍は制海権を掌握するが、陸上の戦闘は点と線を確保するにとどまり、南京占領後は重慶政府との長期戦に入る。
- 呉鎮下でも戦死傷者が続出、呉海軍病院拡充の必要性
- 太平洋戦争へ
- 日中戦争の長期化→援蔣ルートの遮断の必要性→南部仏印進駐
- 昭和16年7月~8月 在米日本資産凍結、対日石油禁輸
- 昭和16年はじめから元呉鎮長官の野村吉三郎駐米大使の対米交渉
- 昭和16年12月8日 太平洋戦争開始
- 戦局の展開
- 開戦当日、呉鎮長官豊田副武「帝国ハ自存自衛ノ為米国及英国ニ対シ開戦二決シ」
- 充分な戦闘準備はなく石油をはじめとする軍需必需物資の備蓄はきわめて限られたもの
- 緒戦のみは戦果をあげるがアメリカの物量に圧倒され、昭和17年6月のミッドウェイ海戦で力関係は逆転
- アメリカの対日戦準備
- アメリカの対日戦争準備が無かったというのは事実に反する
- 呉防備戦隊の報告→開戦早々近海に「累次ニ亘ル敵潜発見」、昭和16年12月20日広島湾防潜網設置
- 戦局の悪化と呉空襲
- 昭和18年6月桂島泊地で戦艦陸奥火薬庫爆発により沈没
- 昭和19年7月サイパン陥落、本土爆撃が射程距離に入る→11月呉地区へ偵察飛行開始
- 昭和20年3月19日呉空襲→沖縄作戦への事前攻撃、米軍機と呉軍港などに集結していた艦艇との激しい戦闘、沖縄出動を前に残存艦艇はほぼ戦闘能力を喪失する
- 昭和20年5月5日広工廠及び第11空廠への猛爆、広地区は破壊され尽くしほとんど生産機能を失う
- 昭和20年6月22日呉工廠集中攻撃、絨毯爆撃のあと呉工廠の建築物が消え去る
- 昭和20年7月1日~2日呉市街地無差別爆撃
- 昭和20年7月24日残存艦艇への空襲、7月28日も艦艇への攻撃、呉湾とその周辺の艦艇はほとんどが擱座・着底または沈没
- 呉鎮守府の終戦
- 8月15日敗戦、最後の呉鎮守府司令長官金沢正夫と呉工廠長妹尾知之のコンビが冷静沈着にしのぎ秩序ある敗戦処理にあたる
- 9月26日米軍先遣隊来呉、長官官邸に星条旗がひるがえる、
- 11月30日呉鎮守府56年の歴史に終止符を打ち閉庁