雑録

ワシントン軍縮期の呉鎮守府・呉海軍

参考文献:呉市史6巻-1章呉鎮守府-第1節軍縮期の呉海軍-第1項 ワシントン軍縮後の状況(pp.7-35)

(1)ワシントン軍縮と呉海軍

  • 「帝国国防方針」に基づく「八・八艦隊」のための予算実現
    • 明治40(1907)4月「帝国国防方針」策定、「八・八艦隊」の提起。
    • 大正9(1920)第43議会で全面実現をめざした予算が承認される→アメリカを仮想敵国とする大海軍化の計画を実現させようとする
  • ワシントン軍縮
    • 大正10年(1921)7月アメリカが提案、11月12日開会、進水済みの陸奥をはじめ建造中の7隻をふくむ主力艦の廃棄を提起
    • 会議の末、陸奥は既製艦として除外されたが対英米6割の制限を呑む。大正11年2月6日調印
  • 軍縮の背景
    • 各国の財政事情が深刻、第一次大戦の惨禍を経て世界平和への期待が昂揚していた
    • 日本は世界第3位の海軍国としての地位を確認されたが、さらなる発展を期していた矢先に対英米6割というきびしい制約を余儀なくされる
  • 軍縮の工廠以外への影響
    • 人員整理、下士官兵の大量退団が行われる
    • ただし大正12年4月1日には舞鶴鎮守府が廃庁され管区が拡大されたため、この年は徴募・志願兵数は従前と変わらず。
  • 建造中の主力艦の廃棄
    • 大正13年から14年にかけて実施。
    • 戦艦土佐は大正14年2月に豊後水道で沈没処分となるが、それまでの間に徹底的な実艦実験に供され、その実験データが大和の建造に資するところ大であった。
  • 海軍予算の激減と訓練主義へ
    • 海軍予算は大正10年度は5億余万円であったが大正14年度には2億2000万となる。
    • 東郷平八郎元帥「軍備に制限はあっても、訓練に制限はない」→日本海軍はこの有名な一語に集約される方向に活路を求めていく
  • 猛訓練の時代へ
    • ワシントン軍縮大正11年は海軍大演習も中止になり第一艦隊掉尾に於ける基本演習に横須賀、呉より数隻の予備艦を参加せしめるとどめられたが、翌大正12年からは呉鎮守府でも基本演習などが実施される。
    • 呉鎮の基本演習は毎年春秋2回にわたり実施されており、大正14年秋季(9月24、25日)のときには、はじめて飛行機が参加し、15年春季(4月14~17日)からは燈火管制も実施される。
  • 昭和2年における訓練
    • 昭和2年2月17日、昭和改元後初の観兵式で幕を開ける。
    • 恒例の春・秋2回の基本演習のほか、呉鎮夏季特別演習が7月に3日間かけて行われる。呉鎮参謀長伊地知清弘少将の講評によれば、空軍の威力が確認されつつあったことが分かる。
    • 2年10月実施の海軍大演習では参加団体の多さ、演習区域の広大さは海軍創始以来であり、ワシントン会議以来制限された範囲における新鋭艦艇、航空機、無線電信などの間接兵器に至るまでその機能を発揮する期待をされ演習の近代化がいっそう進んでいた。この大演習の時も、呉鎮管下では対空防衛に力を置く。
  • 燈火管制の不徹底
    • 空襲を仮想しての燈火管制が毎年の演習で実施されるが、呉市民の協力は完全なものではなかった。昭和5年10月の海軍大演習でもその不完全さを露呈させている。
  • 軍縮下における呉海軍の出動
    • 大正12年9月1日関東大震災では天龍以下の諸艦が出港、大阪・神戸などに寄港するなどし、食糧その他の物資を京浜地方に向けて輸送する任務などを遂行。
    • 昭和2年から3年にかけての山東出兵。中国国民党の北伐に対する田中義一内閣の干渉が始まり、昭和2年5月青島に出兵し8月30日に撤兵(第一次山東出兵)。ついで翌3年北伐が再開されると4月19日に出兵を決定(第二次山東出兵)、海軍も佐世保・横須賀から出動。この際呉海軍は所属大半艦隊に服役、出動あと回し。5月に済南事件が起こり邦人2~300名惨殺と報じられると第三次山東出兵となる。日本は山東省を占領、呉海軍も補充出動準備に入っている。5月10日には呉港からもついに出動。
      • 「[前略]7日午前、呉港にある第三戦隊(阿武隈、神通、那珂)へ出動準備命令下り、直ちに食糧弾薬搭載にかかり、9日朝阿武隈、神通に命令、10日午前6時出動。[中略]呉軍港に残る第三戦隊の那珂は14日出動、第一水雷戦隊天龍と第1315駆逐隊も、急遽休暇帰省中の乗員を復帰せしめ、出動待機状態にうつる。爾余の主力艦扶桑、日向および第二潜水戦隊も船体兵器修理を促進、艦上点呼艦として竹原方面巡航中11日寄港した第6駆逐隊4艦も出動準備整えて待機。」(14頁)

(2)軍縮期の呉鎮守府司令長官(p.14~)

  • 14代~19代の司令長官
    • 大正11(1922)年から昭和5(1930)年にかけての呉鎮守府司令長官は計6名の将官が歴任した。
    • 鈴木貫太郎・竹下勇・安保清種・谷口尚真・大谷幸四郎・谷口尚真
  • 第15代 竹下勇(大正13.1.27~大正14.4.15) 海軍大将
  • 第16代 安保清種(大正14.4.15~大正15.12.10) 海軍中将
    • 前歴
    • 在職
      • 大正14年4月15日呉鎮長官、親子二代の長官就任、着任時の感想は「少尉時代の休暇に当地にあった父の下に来たこともあるが、この官舎ではなかった〔……〕」、
    • その後
  • 第18代 大谷幸四郎(昭和3.12.10~昭和4.11.11) 海軍中将
    • 前歴
    • 在職
      • 昭和3年12月10日着任、着任姿は背広服に中折帽子の頗るくだけたもので軍縮期の平和ムードの一端が見られる、
    • その後
  • 第19代 谷口尚真(昭和4.11.11~昭和5.6.11) 海軍大将

(3)組織・機構の変遷(p.18~)

  • 大正12(1923)年3月23日 呉海軍監獄が呉海軍刑務所に変更
  • 大正12(1923)年3月 呉海軍軍需部が新設される
    • 勅令第54号海軍軍令部令制定、需品庫及び兵器庫を工廠から、衣糧科を経理部から脱しこれ等を合わせて開庁。海軍軍需部は当該鎮守府に属し軍需品の準備、保管及び供給に関することを掌る。
  • 大正13年7月31日 海軍潜水学校の移設(吉浦町新宮鼻)
    • 明治37(1904)年11月日露戦争中、日本で潜水艦の建造に着手
    • 大正8年7月4日 海軍省軍務局潜水部設置(大正9年10月1日 艦政本部に移転)
    • 呉鎮に臨時潜水艦実験調査会(昭和4年呉工廠潜水艦部に改称)→大正8年12月呉鎮に海軍潜水学校設立委員設置
    • 大正9年9月4日海軍潜水学校令公布、同月15日より施行
    • 大正9年9月15日 呉軍港内旧軍艦厳島に於いて校務を開始(5月説あり?)、9月20日開校式を挙行
    • 大正13年7月31日、陸上校舎に移る
  • 海軍軍楽隊
    • 明治4年 日本国における海軍軍楽隊創設
    • 明治23年 呉に海軍軍楽隊が設置される
    • 明治44年10月1日夕、はじめて「市民慰安のための公開演奏を実施」
    • 大正14年4月、はじめてオーケストラを編成して公開演奏を五番町小学校講堂で行う
    • 昭和3年9月29日の二河公園音楽堂における演奏曲目が残存
      • 大正9~昭和3に呉軍楽隊長を務めた河合太郎の功績→オーケストラ採用に踏み切る、呉軍楽隊が「呉市音楽隊の観を呈するほどの親しみを持つに至り「仮眠融和」の目的を達する」※戦後昭和29年10月1日河合太郎は呉市より文化功労者として表彰される。
  • 海軍墓地
    • 明治22年7月呉鎮守府開庁と同時に呉市長迫町の山腹に設定された。以後明治23年1月7日の病死者1名をはじめとして多くの戦死病者を埋葬。
    • 大正5年2月19日「呉鎮守府埋葬地弔祭内規」を定める→祭典は毎年秋季に実施されるものとし儀式は仏式又は神式とし毎年交互に行うを例とされた
    • 昭和2年12月22日「呉鎮守府埋葬地規則」制定
  • 大正13年12月20日に艦船部設置
    • 古くは機関部・予備艦部・艦政部などといわれ明治36年の工廠設置後は主としてその工廠検査官の任務とされてきた
    • 大正13年12月「海軍艦船部令」制定→鎮守府に艦船部がおかれ「鎮守府所属艦船ノ保存及整備二関スルコトヲ掌ル」こととなった。

(4)軍縮期の呉海兵団(p.27~)

  • 明治22(1889)年4月制定「海兵団条例」→日本海軍の新兵教育機関としての海兵団が確定をみる
    • 同年7月1日、呉海兵団は呉鎮守府設置とともに開庁
      • 当初は志願兵46名、徴兵104名程度
  • 大正11年9月11日「勅令第405号華府会議で所謂軍縮により制度整理、定員減少等が行われ、任官後服役5年以上の下士官及び服役5年以上の兵に限り現役を退かしめる件を公布」→下士官兵の大量退団をすすめる
  • 青年の軍離れ
    • 昭和3年9月における地方官会議→呉海軍人事部長は徴募成績について横須賀・佐世保鎮守府と比較し、徴募成績は芳しくないと指摘
    • 軍縮期においてはムード的にも青年の一定の軍離れの進行は避けがたいものであった。