参考文献:呉市史6巻-1章呉鎮守府-第2節戦時下の呉海軍-第1項日中戦争期の動向
(1)日中戦争と呉海軍(~p.92)
- 呉海兵団
- 昭和12年10月25日、はじめて事変下で新三等兵4000名終業式挙行→第一線部隊へ配置
- 海軍航空隊の戦闘参加
- 呉鎮下の呉・佐伯両航空隊が拡充され、この戦争で威力を発揮。
- 昭和12年10月頃から 総攻撃開始 泥沼化
- 昭和13年3月24日、任務を終えた陸戦隊がはじめて呉軍港に帰還
- 呉鎮守府 開庁50周年記念日(昭和14年4月28、29日)
- 29日「呉軍港在泊中の各艦船は午前8時軍艦旗掲揚と同時に満艦飾を施し、正午には皇礼砲21発を打ち出し、殷々たる砲声初夏の軍港を圧し、瑞気漲る」と50周年が祝賀された。
(2) 鎮守府諸組織の動向(p.96~)
- 呉海軍人事部の強化
- 軍務の複雑化に処し長期抗戦体制下の人事行政に即応するため
- 昭和16年3月21日「潜水艦基地隊令」制定
- これにもとづき昭和16年4月1日「呉潜水艦基地隊」が開隊された
- 昭和16年11月11日「海軍警備隊令」制定
- これにもとづき11月20日には呉海軍警備隊が開隊。同隊は呉陸上防備部隊と徳山陸上防備部隊とからなる。
- 昭和16年における呉鎮関係の組織・制度上の変更
- 11月12日 軍令海第21号商港警備府令を制定 大阪警備府が設置
- 11月20日 軍令海第25号呉防備隊を廃し下関及び佐伯に防備隊が開隊
- 11月20日 軍令海第24号海兵団令改正 広島県佐伯郡に大竹海兵団が設置
- 兵士徴募増加・工廠繁忙のための工員増大による都市問題
- 住宅難の問題が深刻
- 昭和14年9月6日には、住宅難打開のため、呉鎮は市当局・呉署・憲兵分隊と共通で市内の家主200余名を招いて懇談会をひらく。
- 住宅難は呉市のみならず一般に軍港関係には共通。軍港地市町村会議でも審議の対象に。昭和15年9月に呉市でひらかれた会議でも「軍港地の借家難問題は今後更に慎重協議」となっている。
- 呉海軍軍楽隊の活躍
- 出陣・帰還や銃後支援市民大会などの挙式にはかならず軍楽隊の派遣が要請された。
- 昭和13年6月9日付で「呉鎮守府軍楽隊派遣内規」が定められる
- 呉海軍軍楽隊によって作曲された「呉第二特陸の歌」などが愛唱される。
- 第25代 嶋田繁太郎(昭和13年11月15日から1年5カ月間在任)
- 日中戦争開始時の呉鎮長官は加藤隆義であったが11月15日には嶋田繁太郎が代わった。
- 前歴
- 在職
- 軍港市民の忘れ得ぬ名提督として慕われる。離任にあたっては上下水道問題を指摘。
- その後
- 第26代 日比野正治(昭和15年4月ごろか?~昭和16年9月18日)
- 前歴
- 愛知県出身、海兵34期、明治40年12月少尉任官、第一次大戦には海軍大尉として参加、南洋群島の占拠長として最初の上陸軍政を布く、各艦長、在満海軍部司令官、海軍大学校長などをへて第四艦隊長官となり、中国北部方面の最高指揮官として数々の戦闘を指揮。軍令部出仕をへて呉鎮長官就任
- その後
- 第27代 豊田副武(昭和16年9月18日~昭和17年11月10日)
- 前歴
- 在職
- 大将としての就任は谷口尚真再任時以来のこと。のちには在職中のことを以下のように述懐「呉での仕事は、ただ首脳部からあれをやれこれをやれと言われてそれを受身でやるだけで、真の目途や海軍の決意は判らなかつたものだ。あの当時(9、10月頃)の海軍首脳部には、強固な信念と責任感が欠けておつたと言われても致方がなかつたと思う」
- その後
- 昭和17年11月10日付で軍事参議官、その後横鎮長官、昭和19年5月連合艦隊司令長官、昭和20年5月軍令部総長、徹底抗戦三人組(他梅津・阿南)のひとりでいかなる形の無条件降伏も拒否したが戦後まで軍令部総長であり続ける、昭和20年12月12日戦犯容疑者として囚禁、裁判にふされたが長期にわたる裁判ののち、昭和24年9月6日判決。無罪となった。