参考文献:呉市史6巻-1章呉鎮守府-第1節軍縮期の呉海軍-第2項 ロンドン軍縮条約(pp.36-52)
(1)ロンドン軍縮会議の波紋(p.36~)
- ロンドン条約後の海軍内対立
- 当時の共通した認識とそれに対する方針の違い
- 当時の共通→認識「華府会議といひ、倫敦会議といひ、いづれも米英の策謀によつて成立せしめられたものであり、その終局の目的は米英による世界制覇の野望の実現であり、その当面の目的は新興日本の台頭を圧殺するにあつたといふ一事」
- 良識→国力を勘案し妥協もよぎなしとするとこに責任ある良識が期待されていた
- ロンドン会議中における呉鎮の様子
- 昭和5年3月、呉市内でも「海軍協会から飛檄している目下進行中のロンドン軍縮会議のポスターが呉支部の手により市内の辻々に貼りださる『今や酷わなり(ママ)、我が国運は永遠に決せんとす、立て国民よ、我が全権』と書かれたスローガンに『挙国一致、帝国の主義を貫徹せよ』と朱書」などの状況にあった。
- 同月18日には呉市内で軍縮講演会もひらかれる。
- さらに「勝田市長は軍港市民を代表し19日市会に緊急決議案議決を得て若槻{礼次郎}全権にわが国の主張貫徹の激励電報を打電、『艦船の比率は帝国の主張を極力貫徹せられんことを、市民の議決をもって軍港市民の意志を表明し、併せて閣下の御奮闘を祈る』」といったふうに市民の関心は大いに高まる。
(2)呉海軍航空隊の開隊(p.38~)
- 呉海軍航空隊開設までの経緯
- 大正5(1916)年4月1日、横須賀海軍航空隊設置により日本の航空隊が正式にスタートする。→各軍港・要港その他の用地に航空隊設置を予定
- 大正8年から9年にかけて、呉鎮においても航空隊設置のための調査が実施されているが、山内大佐の調査結果では、呉地区は航空隊用地には不適当との結論
- 佐世保海軍航空隊広分遣隊
- 呉における独立の航空隊の設立
- 昭和5年10月7日、安保清種海将、浜口雄幸首相に請議。アメリカ海軍が航空兵力を増勢していることを指摘。将来における航空軍縮を懸念して焦燥感も示す。
- 昭和5年秋大演習、野村吉三郎呉鎮長官は航空隊の必要を痛感。「広航空隊の独立なども現在の発達とその機能に照らし、海兵団、防備隊の如く呉海軍にも独立隊がなくてはならぬものである、現在のやうに佐世保航空隊の借物といふのでは困る」と述べる。
- 昭和6年半ば、呉航空隊の誘致運動のようなものが起こる
- →独立の航空隊というのは広分遣隊がそのまま昇格するとは限らず、他への移転も考慮されていた。森岡多吉広村村長は「広村が航空隊としてもつとも有力な候補地にみなされてゐながら、漁業組合その他村との問題のため他へ移されるやうなことがあつては、第一模範村として恥ぢる次第でわれわれはどんな犠牲を払つても広航空隊の独立と拡張とを希望してやまぬ」と陳情運動に熱を入れる。
- 広村における漁業権の問題について
- 村会協議会の回答では「本村漁業者二対シテハ村二於テ相当救済ノ方法ヲ講スル二付海軍ヨリ補償セラルル必要ナシ」と確答。海軍には補償の必要のないことを強調することで、呉海軍航空隊の設置決定となるわけである。
- 漁業権保障問題はその後も紆余曲折をたどることになる。
- 村会協議会の回答では「本村漁業者二対シテハ村二於テ相当救済ノ方法ヲ講スル二付海軍ヨリ補償セラルル必要ナシ」と確答。海軍には補償の必要のないことを強調することで、呉海軍航空隊の設置決定となるわけである。
(3)ロンドン軍縮期の呉鎮長官(p.42~)
- 第19代呉鎮守府司令長官 谷口尚真大将 昭和4年11月11日~昭和5年6月11日
- 連合艦隊司令長官からの転任、呉鎮長官としては間に大谷幸四郎中将を挟んでの再任。異例の人事
- 谷口大将在任中にロンドン軍縮条約が締結され、海軍部内は「艦隊派」と「条約派」に分裂し、呉鎮内部も動揺。谷口は「条約派」として動揺を適切に指導。
- 条約を締結してハルピン経由で帰京する財部彪海相に、朝鮮の京城で古賀峯一が山梨勝之進次官の伝言を伝えた際、朝鮮総督の斎藤実大将と共にたまたま検閲に来て居合わせた呉鎮長官の谷口尚真が、財部をねぎらう。
- ロンドン条約の確執により「艦隊派」の首謀加藤寛治軍令部長が退任(のち財部海相も退任)。加藤軍令部長の後任に谷口尚真が就任することになる。昭和5年6月11日
- 谷口の呉鎮長官在任中の業績
- 谷口のその後→軍令部長を昭和7年2月までつとめて軍事参議官となり、昭和8年9月予備役に編入
(4)呉海軍の活動(p.45~)
- 猛訓練と海軍事故