雑録

【レポート】日本海軍のプロパガンダ政策の変遷

 海軍は各時代状況に応じて様々なプロパガンダ政策を行っており、それらの研究は既に盛んに行われている。しかし海軍のプロパガンダ政策の変遷が体系的に記されているわけではなく、各時代の個別具体的な研究にとどまっている。そこで今回は先行研究を参照しながら、日本海軍におけるプロパガンダ政策の萌芽から太平洋戦争の開始までの流れを整理していくこととする。

【目次】

1.日露戦争

1-1.帝国国防方針と八八艦隊

 軍艦建造には莫大な予算が必要であるため、その負担者である国民の理解を前提とし、世論の同意を取り付けるための国民的組織が求められた。この国民的組織の形成については、土田宏成「日露戦後の海軍拡張運動について-日本における海軍協会の成立-」(東京大学日本史学研究室紀要、第6号、2002年3月、1-21頁)が、その形成過程を詳述しており、ここではそれに依拠して経緯を追っていくこととする。

 日露戦争後、1907年の帝国国防方針で海軍の仮想敵国はアメリカとして設定され八八艦隊が目指された。1908年になると佐藤鉄太郎海軍大佐により発表された『帝国国防史論』では軍備問題を軍人以外の国民が自ら当事者の問題として考えるよう促されており、民間の反響を呼んだ。この書籍により、海軍拡張運動家が行動を起こしていくこととなる。

1-2.国防義会と海軍協会

 佐藤鉄太郎に影響をうけた海軍拡張運動家たちは「海軍協会」を構想するが、まずは国民に国防の意識を持たせる「国防義会」の設立が目指された。1914年シーメンス事件が発生すると、海軍拡張の動きは頓挫し、山本権兵衛内閣も倒れてしまう。同年11月に国防義会は正式に発足するが、海軍拡張運動家は熱心に世論啓発を行っていった。
国防義会から分離し海軍協会が正式に成立したのは1917年であったが、この頃になると第一次世界大戦の好景気もあって税収は伸び、既に海軍拡張の必要性も一般に認知されていた。1920年に八八艦隊の予算が成立すると海軍協会は目的を喪失し、さらに1922年にワシントン海軍軍縮条約が成立したこともあり、軍拡を目指す海軍協会の活動は停滞することとなった。
一方で、日本海軍は軍縮時代の新方針について世論の支持を受ける必要性が生じた。

2.ワシントン軍縮と海軍の新方針

2-1.海軍の新方針

 ワシントン軍縮により軍拡方針から転換した海軍は、内外に主力艦に代わる代替案を示さなければならなかった。海軍の政治的な体面を外部に示しつつ、艦隊決戦思想を唱えて対米7割の主力艦を主張する内部を抑えねばならなかったのである。
海軍の新方針は精兵主義であり、巡洋艦駆逐艦・潜水艦などの制限されなかった補助艦を拡充しつつ教育訓練を徹底し、地上設備を削減・併合して経費削減を行うものとして宣伝され、世論から後押しを受ける必要があった。

2-2.軍事普及委員会の設置

 軍縮に対する国民の理解を得るため、海軍は軍事普及委員会を設置する。その設立趣旨は、「海軍軍事普及委員会組織ノ件 大正13年4月12日」(海軍省編『海軍制度沿革 巻二』原書房、1971年)で述べられている。

軍隊ト国民トノ契合ハ倍々緊密ヲ要スルモノニアルニ拘ラス現情二於ケル一般国民ノ海軍に関スル智識ハ極メテ幼稚ニシテ遺憾ノ点アルニ付テハ広ク海軍軍事智識ヲ通俗的ニ紹介シ以テ一般国民ノ海軍ニ対スル諒解及後援ヲ助長シ延テハ優良ナル海軍志願者ヲ増加スル等直接間接二海軍ノ向上発達二資セシムル為此ノ際左記二拠リ海軍省内二首題委員会ヲ設置セラルルコトトス。

 この趣旨から分かるように、国民の海軍軍事知識を「通俗的に」紹介して、一般国民の海軍に対する諒解と後援を助長することが求められていたのであった。

2-3.具体的な普及策

 「海軍軍事智識ヲ通俗的ニ紹介シ以テ一般国民ノ海軍ニ対スル諒解及後援ヲ助長」することが求められた海軍は具体的にはどのような普及策をとったのだろうか。既に海軍は軍縮条約前から国民の支持を得るために宣伝活動を行っており、これらを更に発展させていった。このワシントン体制下における海軍の宣伝・広報活動においては様々な先行研究が見られる。

 中嶋晋平『戦前期海軍のPR活動と世論』(思文閣出版、2021年)は、海軍記念日講和を海軍のPR活動の視点から捉え、国民の世論形成を分析している。また中嶋は軍艦便乗も取り上げており、1920年の海軍少年社の依頼による「津軽」への便乗や、1925年の横須賀鎮守府による「日進」を用いた三陸および北海道沿岸への巡航が成功を収めた事例を紹介し、軍艦そのもののインパクトが海事思想の普及に与えた意義を唱えている。

 木村聡「ワシントン軍縮後の海軍大演習―広報活動としての視点から―」(『軍事史学』55巻1号、錦正社、2019年、118-137頁)では、海軍がワシントン軍縮後の海軍大演習を国民に対する軍事普及に役立つものとして認識していく意識の変化が扱われている。さらにロンドン軍縮に際しては海軍大演習の広報の利用が世間一般から反感を買う結果に終わったことを比較事例として挙げている。

 『呉市史』第6巻では、ワシントン軍縮後の青年の海軍離れを扱っている。昭和3年9月における地方官会議では、呉海軍人事部長が徴募成績について横須賀・佐世保鎮守府と比較し、成績が芳しくない嘆いている。実際に呉海軍人事部「昭和3年地方官会議ニ於ケル人事部長口述覚書」(「JACARRef.C04016028600」)や「昭和3年9月地方官会議ニ於ケル谷口呉鎮守府司令長官挨拶覚書」(JACAR Ref.C04016028700)を見ると、海軍志願兵徴募難の原因として国民が海軍をよく理解していないことを挙げており、海軍思想の普及と一般国民の指導開発を主張している。具体的には軍事講話、活動写真並びに映画、冊子配布、軍港並びに軍艦観覧、軍艦便乗、博覧会などに対する物品の貸与を挙げている。

 以上により、ワシントン軍縮がもたらした海軍の新方針のために、より一層の軍事思想の普及が行われていたことが分かる。

3.ロンドン軍縮と普及政策の転換

3-1.海軍の内部対立と海軍省海軍軍事普及部の設置

 1930年のロンドン軍縮では妥結やむなしの海軍省側である財部海相らの条約派と、軍縮に反対する軍令部の加藤寛治と末次信正ら艦隊派が激しく対立した。また、野党立憲政友会犬養毅鳩山一郎は倒閣を狙って統帥権干犯問題を引き起こした。

 林美和「海軍軍事普及部の広報活動に関する一考察 -海軍省パンフレットを中心に-」(『呉市海事歴史科学館研究紀要』第6号、2012年、60-71頁)では、ロンドン軍縮が海軍によるマスメディアの扇動や怪文書の横行といった戦争プロパガンダに関する政策が実施される契機となったことが指摘されている。1930年9月3日、海軍軍令部が部内限で作成したパンフレット「米国海軍ノ戦備」を皮切りに、海軍は軍縮批判のための言論を展開していった事例が紹介されており、1932年に設置された海軍軍事普及部には、ロンドン軍縮に強固に反対していた加藤寛治海軍軍令部長の思想的影響が色濃く表れていたとしている。海軍省海軍軍事普及部は海軍軍事普及委員会を拡大する形で設置したものだが、新たに世論誘導や諜報、宣伝、検閲などプロパガンダ的側面が強くなっている。

3-2.海軍協会の再興

 1930年のロンドン軍縮における宣伝工作の失敗、1931年の満洲事変の勃発を受けて、海軍は自己の下に国民的組織を持つ必要性を感じた。ここで目をつけたのが、かつて自ら国民的組織とすることを否定した海軍協会であり、1932年3月には斎藤実が会長に就任した。

 海軍は1933年5月24日に海軍省副官から各鎮守府、各要港部、各艦隊の参謀長宛てに通知を出した。「今回宣伝普及ノ為、従来ニ比シ一層海軍協会及有終会ヲ利用スルコトトセラレタル〔……〕」(『海軍制度沿革』巻二、331-332頁)とあり、既存の組織である海軍協会及び在郷軍人会の団体である有終会の活用を図った。

 海軍協会はこれに応えて軍縮条約体制打破の世論誘導を行っていった。土田宏成「1930年代における海軍の宣伝と国民的組織整備構想 海軍協会の発達とその活動」(『国立歴史民俗博物館研究報告』、第126集、2006年1月、53-66頁)では、その具体的な宣伝内容が詳述されており、講演会の実施やマスコミに対する監視・批判が行われていたことが紹介されている。こうして1935年12月から始まる第二次ロンドン軍縮会議の時には従来の軍縮会議とは異なる組織的な宣伝工作と世論誘導が行われ、ついに1936年1月には会議から脱退することになり、同年末にはワシントン・ロンドン両軍縮条約は失効することになった。

3-3.海軍の宣伝・広報活動と呉市

3-3-1. 呉市観光協会の設立(1932)と『呉軍港案内』(呉郷土史研究会、1933年)

 海軍による世論形成には呉市にも関係性がある。その一つ目が軍港見学・軍艦拝観が観光と密接に関わっていたことである。呉市観光協会呉市と商工会が中心になって1932年に設立された。「呉市観光協会会則・第2条」には「本会は呉市および附近における海軍諸施設ならびに軍艦、地理、交通、物産、景勝その他の状況を紹介宣伝しかつ旅行、巡遊に関する施設の保護改善を勧奨し観光者の便益を図るをもつて目的とす」(『呉新聞』1932年8月2日)とあり紹介宣伝の筆頭に海軍諸施設と軍艦が来ていることが分かる。

 また1933年に呉郷土史研究会から発刊された『呉軍港案内』では軍港見学の手続きの方法や軍艦拝観に関する注意点、鎮守府施設の見学方法や見どころが分かりやすく紹介されている。この案内からは「伊勢」が軍艦拝観の対象となっていることが分かる。鎮守府側も広く観光客を受け入れており、呉海軍人事部には海軍軍事普及班が設置され、講演や案内など手厚く海事思想の普及を行っていたことが分かる。海軍側が一方的に宣伝工作を行っていたのではなく、呉市観光協会が観光客を集めるための一助として軍港見学や軍艦拝観を紹介しており、海軍に関する土産物の販売(軍港饅頭や軍艦の模型など)にも余念がないことが窺える。

3-3-2.国防と産業の大博覧会

 軍縮条約体制下において海軍の世論形成と密接な関係があるものとして、国防と産業大博覧会が挙げられる。これはもともと三呉線全通の記念事業として呉市商工会が博覧会の開催を陳情したものであった。しかし海軍の意向があり、いわゆる「1935・36年の危機」に対応するため、国防と産業を扱う博覧会が開催されることとなった。海軍の意向とは「真の非常時は1935年の春より秋へ向つて深まり行き、最も日本海軍が劣勢となり、最も危機に瀕するのは同年秋季であり国防の重大と非常時の認識を強く国民に呼びかけんとするには必ずそれ以前、即ち昭和10年春季たらむべきことを最も賢明とする」(『呉市主催国防と産業大博覧会誌』1936年、31頁)というものであった。

 国防と産業の大博覧会では、軍艦拝観にも力が入れられ初代矢矧と呂号第五十三潜水艦が常設されただけでなく、会期中に第一艦隊が呉に入港すると、特別拝観として戦艦伊勢・榛名への乗艦が許された。こうして呉市主催の博覧会は成功を収める一方で、軍縮条約体制打破のための宣伝の一つでもあった。

4.軍縮条約失効と太平洋戦争の開戦

4-1.地方海軍人事部の設置

 1936年1月の第二次ロンドン軍縮会議からの脱退、36年末におけるワシントン・ロンドン両軍縮条約の失効を受けて、地方の動員が整備されていく。1937年4月30日の海軍人事部令の制定によって、地方海軍人事部が設置された。設置理由としては①海軍志願兵徴募、②増加する在郷軍人数への対応、③軍事援護・軍事普及事業の徹底が挙げられる(「海軍人事部令審議参考資料」『公文類聚・第61編・昭和12年・第8巻・官職6・官制6(陸軍省海軍省)』、国立公文書館蔵)。地方海軍人事部では軍事映画映写・軍事講演・海洋訓練指導・遺族弔問・徴募検査・徴募事務打合が行われた。

4-2.日中戦争と海軍協会

 1937年7月、日中戦争が勃発する。海軍協会はそれまでに作り上げてきた組織をさらに拡大強化して、海軍の宣伝、国民精神総動員運動への参加、慰問金の募集、戦死者への慰問活動、将兵慰問、海軍志願兵徴募への協力など銃後後援活動に取り組んでいく。地方海軍人事部でも志願兵徴募に力が入れられたが、日中戦争で人的資源が逼迫するなか青少年の奪い合いが生じていた。海軍協会は海軍の後援を受けて『海軍志願兵受検参考書』を発刊して配布するなど志願兵募集の強化に力を入れた。

4-3.宣伝工作による世論の強硬化と太平洋戦争の開戦

 1940年になると海軍協会の宣伝工作は世論を強硬化させていく。土田宏成「日中戦争から日米開戦までの海軍協会の活動について」(『神田外語大学日本研究所紀要』4巻、2009年、85-107頁)では、世論の強硬化が太平洋戦争開戦を導いたとしている。

 7月22日に第二次近衛内閣が成立。8月1日に松岡洋右外相談話により「大東亜共栄圏」が広く国民に伝えられ、南進政策の採用が明確となると、海軍協会は「本会多年の主張が次第に国論を醸成し、それが国策に反映するに至つたもので、窃に吾人の欣快とする所である」と自賛。9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結されると海軍協会は「米国の如何なる圧迫にも対処し得る万全の準備を完整し、以て有史以来未曾有の国難を突破せねばならぬ。実に三国条約によりて帝国海軍の使命と責任は一段と重且つ大となつた」と肯定した。
10月には危機認識を国民に普及するため、有終会と共同で全国の枢要の地に講師を派遣して「時局大講演会」を盛んに開催していく。

 1941年度の実施された講演会・懇談会の回数・聴衆数は最終的に、本部は1397回・89万1193名、支部は1673回・103万4076名に達する。

 このようにして、政府の言論統制・世論指導により、日本国内の強硬論はエスカレートしていき、アメリカに譲歩できなくなり開戦やむなしとなるのである。土田氏は同論文のなかで、海軍協会は海軍指導下にある特別な団体であり、志願兵募集や海軍軍拡を支えた点でも対米戦争への道を用意したと結論づけている。

5.小括

 ここでは先行研究に基づきながら、海軍のプロパガンダ政策を以下の時期区分ごとに整理した。①日露戦争後、②ワシントン軍縮後、③ロンドン軍縮後、④軍縮条約失効後の4期である。

 日露戦争後、国際的な建艦競争の中で仮想敵国をアメリカとした日本では八八艦隊を目標に掲げ世論の支持を得るべく民間の海軍組織を必要とし海軍拡張運動家たちが行動を起こした。その活動は八八艦隊の実現を後押ししたが、1917年に海軍協会として正式に発足した時には軍拡の目途は立っており、1922年にワシントン海軍軍縮条約が成立すると軍拡を目指してきた海軍協会は停滞した。

 ワシントン軍縮後には、これまでの政策から180度転換した海軍の新方針を内外に納得させる必要があり、世論の支持を必要とした。そのために設置されたのが、海軍軍事普及委員会であり、国民の海事思想の啓発が行われた。また海軍記念日講和や軍艦便乗、海軍大演習などを利用して世論の支持を得ようとした。

 ロンドン軍縮後には、海軍の内部対立が起こり、いわゆる艦隊派軍縮条約破棄のプロパガンダを行うため、海軍軍事普及委員会を海軍軍事普及部として拡大するかたちで設置した。また海軍は自己の傘下の国民的組織を求め、一度は否定した国民協会を再び活用することとし、軍縮条約体制の打破に成功した。

 条約失効後には軍備の拡大が目指され地方海軍人事部が設置され、日中戦争が勃発すると海軍協会は積極的に支援を行った。しかし言論統制と宣伝工作は次第にエスカレートし、世論を強硬化させていく。アメリカに譲歩することができなくなり開戦やむなしの機運を生み、太平洋戦争を開戦するのであった。

主要参考文献

  • 木村聡「ワシントン軍縮後の海軍大演習―広報活動としての視点から―」(『軍事史学』55巻1号、錦正社、2019年、118-137頁)
  • 木村美幸「軍縮条約失効後における海軍の地方拠点形成-地方海軍人事部の設置と活動-」(『日本歴史』第868号、2020年、19-35頁)
  • 呉市編『呉市主催 国防と産業大博覧会誌』(呉市役所、1936年)
  • 土田宏成「日露戦後の海軍拡張運動について-日本における海軍協会の成立-」、東京大学日本史学研究室紀要、第6号、2002年3月、1-21頁
  • 土田宏成「1930年代における海軍の宣伝と国民的組織整備構想 海軍協会の発達とその活動」『国立歴史民俗博物館研究報告』、第126集、2006年1月、53-66頁
  • 土田宏成「日中戦争から日米開戦までの海軍協会の活動について」『神田外語大学日本研究所紀要』4巻、2009年、85-107頁
  • 中嶋晋平「戦前期の「軍艦便乗」にみる海軍のPR活動と民衆」(『戦前期海軍のPR活動と世論』第9章、思文閣出版、2021年、213-230頁)
  • 林美和「海軍軍事普及部の広報活動に関する一考察 -海軍省パンフレットを中心に-」『呉市海事歴史科学館研究紀要』第6号、2012年、60-71頁