- 概要
- 第一次世界大戦後、総力戦体制の構築が求められ世論形成を行う必要があった。そのためワシントン軍縮後に海軍軍事普及委員会が設立されたのだが、宣伝内容は非政治的なものに限られたので、ロンドン軍縮の際に不十分な対応しか取れなかった。この反省を踏まえて普及委員会は1932年に海軍軍事普及部として再編された。軍事普及部は政治的な宣伝を含め、様々な媒体で世論形成を試みた。本論文の意義は、海軍宣伝の効果を実証するために、当時の新聞・雑誌などのマスメディアを分析したことである。これら出版物の分析により、軍事普及部の海軍宣伝が軍縮体制の打破につながったことが明らかにされた。だが海軍宣伝は地方のオピニオンリーダーによるパーソナルな影響力行使には限界があり大衆自身の能動的な海軍支持運動には結びつかなかった。海軍宣伝に対する大衆の意識については当時の大衆の日記等の研究が必要となる。
1.海軍の宣伝活動
(1)第1次ロンドン会議時の宣伝活動
ア.活動の概要
イ.海軍省の軍縮宣伝対策
- 新聞の利用の試み
- 海軍はワシントン会議の失敗の一因が新聞と海軍の意思が疎通しなかったことにあると考えていた。第1次ロンドン会議に際し、山梨、野村、小林、末次といった海軍首脳は朝日新聞主筆緒方竹虎ら新聞社の代表を招いて小宴会を開き、政府・海軍の方針を示し支持を取り付けようとした。
- 海軍の要望を取り入れて、大新聞は軍縮の成功を望むとともに7割は国防の制定限度であるとする主張を掲げたが、対米7割案は軍縮会議において米英の賛同を得られなかったので、各新聞は引っ込みがつかなくなってしまった。そのため、譲歩してでも会議を成功せしむべしという論説を掲げ、7割要求に固執すべからずとする主張を強く表面に出してゆくこととなり、新聞社を追い込んでしまった。
(2)第2次ロンドン会議に向けた対応
ア.組織改編
- 海軍軍事普及部(1932年10月軍事普及委員会を改編)
- パンレット数の増加
- 1930年が4冊、1931年が6冊だったのに対し、以後3年間は26、20、17冊に及ぶ。
イ.新聞報道への働きかけ
- 軍事普及部の世論対策
- 間接的な世論指導
- 基本的には記事差止等の強圧的手段に出ることをせず、問題が発生する毎に座談会を開いて意見交換を行った上でやんわりと働きかけを行う方法が取られた。直接的な方法よりも間接的なアプローチにより新聞記事に影響力を与える方法を好んだ。
- 1934年から1936年の間、海軍関係の問題について海軍は特別な関心を示さず、日本の艦隊を数字を用いて論じたものを差し止めはしたが反対意見については寛容であった。
- 1936年1月に行われた部内軍事普及関係者の会合では、軍事普及部一課長(新聞担当)自らが軍事普及部の業務は「指導統制」ではなく「連絡総合」であるとの発言をし、また参加者から陸軍志貴の積極的な「国民について来い式」宣伝・指導についても否定的な意見がでるなど、直接的な方法をあまり好まなかった様子が示されている(海軍軍事普及部『海軍軍事宣伝普及事務打合実施経過ノ件報告』軍普二機密第6号、1936年1月29日)。
ウ.娯楽を通じた宣伝
- イメージ宣伝
- 庶民娯楽の利用や芸能界との提携により、庶民の娯楽を通して、国民が海軍に対する関心をもつことや親しみやすさを覚えてもらうことをねらう。
- 海軍は自己のイメージについて特に、強さ、明るさを印象付けるよう盛んに宣伝している。
- 宣伝手段として利用されたのが海軍記念日や観艦式といったイベント、及び雑誌、映画、ラジオといったマス・メディアであり、さらにこの時代に発展した各種大衆芸能。
- 海軍軍事普及部以降の映画宣伝の特徴
- 演劇諸団体との提携
- 婦人・子どもをターゲットにした海軍宣伝
- 「婦人及び子供に対しても宣伝普及の目的を達成するがごとき作品特に歌劇、童謡、童話等の作成を促進す」(昭和10年度海軍軍事宣伝普及実施計画)
- 娯楽的要素のある媒体を通じた宣伝、特に婦人・子どもをターゲットとした宣伝は海軍宣伝の特徴の一つ。
エ.外郭団体による世論操作
- 海軍協会・有終会の利用
- 1932年10月の軍事普及部改変後、1933年に『宣伝普及に関し海軍協会及び有終会利用の件』を決定し、海軍は両者の活動を援助し、軍事普及部を含む3者が緊密な協力体制をとることで宣伝活動の効果を挙げるよう計画。
- 有終会
- 海軍協会
- 軍事普及推進ネットワークの構築
- 軍事普及部は外郭団体を通じ関係省庁や海事関係諸団体を統合し、自己の統制下に置きながら互いに協力させることで、地方レベルにおける軍事普及推進ネットワークを構築した。
2.海軍宣伝の効果
- 問題提起
- 1932年海軍軍事普及委員会を海軍軍事普及部に改組し宣伝戦略を修正したが、戦略の変化によりどの程度の効果が得られたのか。
- 『海軍省年報』(昭和5~10年度)における軍事普及実施状況のデータ
- ①軍事講演者者数、②活動写真観覧者数、③軍艦見学者数、④軍楽隊音楽聴者数、⑤ラジオ放送回数、⑥新聞雑誌寄稿数、⑦軍需品貸与博覧会数の7項目について、③の軍艦見学者数以外は、1930年の数値を上回る。
- 特に1934年の伸び率が高いことについて
- 第2次ロンドン会議及び同予備交渉に向けて、海軍がこの年に質量共に最も活発に宣伝活動を実施した結果。国民の間で海軍に対する関心が高まった結果。数量的データでは海軍宣伝戦略の修正は明らかに効果があったことが認められる。
- プリンテッドメディア(新聞・雑誌)の分析
- 考察方法
- 特徴のある異なった読者層を持つ新聞・雑誌を分析することで、そこに現れた「海軍」に関する痕跡を辿る。そしてそれを元に、軍事普及部の宣伝実施に伴い、人々は海軍に関しどのような知覚を得たのかという、宣伝がもたらした効果を考察する。
- 考察対象
- 掲載比率の分析
- 1930年に軍縮問題として1度注目された後で低調となり、1933年以降に再び記事数が増える。マス・メディアを介して大衆の海軍に対する知覚も、第2次ロンドン会議に向けて再び増していった。
- 考察方法
- 各メディアを目にした人々が海軍の何を知覚したのか
- 海軍のイメージ宣伝の効果
- 都市部中産階級女性と少年…海軍がとった強く華やかなイメージをアピールするという宣伝戦略は効果があった。
- 農村…効果が現れなかった。
- 海軍軍事普及部への改組と宣伝戦略の修正がもたらした成果
- 【結果】
- 政治的事項に関心のあった人々に対し、より海軍の立場を理解させることに成功。
- 今まで海軍に対して政治的な興味がなかった人々に対しては海軍に対する理解を深めることに成功した←人々が海軍に対して持っていた潜在的なイメージを強調し自己とのつながりを知覚させることによって海軍に対する何らかの共感を得る。
- 【地域差】都市部では効果があったが農村では効果はいま一つであった。
- 都市部…海軍が意図した世論の盛り上がりにより政治的中枢にいる人々に圧力をかけるという行為は、実際に政治行動の各アクターの意思決定に作用した。
- 農村部…海軍に対する認識や存在意義に対する理解が低く、宣伝効果が十分であったとはいえない。当時の物流基盤やリテラシー程度では、新聞・雑誌といった印刷媒体の地方における浸透能力には限界があったことも、地方特に農村部における海軍宣伝の効果が低いことの要因となった。
- 【結果】
3.世論形成モデル中での海軍宣伝の位置づけ
- 海軍宣伝の最終的な形
- 政治的主張…対外関係の悪化に対して相応の軍事力を保持することにより解決しようとする強硬論。
- 宣伝手段…なぜ海軍力が必要なのかマスコミを通じて繰返しはっきりと示すことで国民の理解を得ようとする。
- イメージ宣伝…一般的な海軍に対する理解向上を促進し、人々に対して海軍をより身近で好ましい感じのする存在として認識させる。
- シンボルとステレオタイプ
- マスメディアの利用
- 娯楽的な要素を含む様々なメディアで総合的に宣伝を行うことで、海軍は自分の意見を大量に国民に露出することに成功し、海軍の主張は世論において支配的意見となっていった。
- 海軍宣伝の限界
- 単にマスメディア上において支配的意見を形成したに過ぎなかった。
- 沈黙を守り何らかの意見を公然と表明しない大衆については、彼らを反対意見から切り離すことには成功したが、完全に自己の意見の影響下に置いたわけではなかった。
- 国民の間に積極的に何らかの海軍支持運動を起こさせるという意味においては必ずしも成功したとはいえなかった。
- 国家総力戦に向けて国民の精神を動員するという意味では十分ではなかった。
- パーソナルな影響力の欠如
- 海軍には一般の受け手にパーソナルな影響力を行使できるオピニオン・リーダーが不足していた。
- 海軍は陸軍と違って実際の部隊と一般国民との接触自体も少なかった。
- マスメディアの普及率の低かった地方においては知覚の程度も低かった。
おわりに
- 海軍宣伝の成果:世論誘導による軍縮体制からの脱退
- 今後の課題
- 今回内容分析を行った媒体は、当時発行されていた新聞・雑誌のうち代表的ではあったがごく限られたもの。海軍宣伝の影響力分布上の精緻な地図を作るためには、さらにより多くのメディアを調査する必要があり。
- マスメディアが有効な範囲でしか海軍宣伝の影響力を示せず。地方の大衆の海軍に対する意識を知るためには、大衆がその意識を綴った日記等の媒体を複数発掘し分析する必要がある。