雑録

土田宏成「日中戦争から日米開戦までの海軍協会の活動について」『神田外語大学日本研究所紀要』4巻、2009年、85-107頁

  • 概要
    • 海軍軍縮条約体制が海軍協会の運動により打破されたのと同様に、日米開戦不可避論も海軍協会により強硬化した。
      • 軍縮体制からの離脱後、海軍協会は次の目標を模索していたが、日中戦争の勃発により海軍後援に主目標を置く。人的資源の奪い合いに際して志願兵募集に力を入れ、海軍の主張を宣伝する講演会を盛んに開催した。1941年になると日米戦争不可避論を煽り、エスカレートさせ、開戦やむなしの強硬論に追い込んでいく。海軍協会はその特別な地位からして、日米開戦の道を準備したと言える。

はじめに

  • 本稿の趣旨
    • 日中戦争から日米戦争へと向かう時期における日本海軍の宣伝および国民動員政策を、海軍指揮下の民間団体・海軍協会の活動を中心に論じる。

  • 日米開戦における海軍協会の歴史的意義
    • 日米戦争の主役は海軍。日米開戦に向けての海軍の宣伝政策や国民動員政策を明らかにすることは、日米開戦過程を理解する上で重要な意味を持ち、そのための素材として海軍協会は好適。

一 日中戦争前の海軍協会

組織の改革

  • 海軍協会の新たな活動目標の設定と新たな指導体制の確立
    • 新しい目標設定の必要性
      • ←1936年1月に第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退したので、1934年末にワシントン軍縮条約の廃止通告を行っていたこともあり、1936年末の両海軍軍縮条約の失効が確定した。海軍協会は両条約の不当性を訴え続けてきたので目標を達成した。
    • 新たな指導体制確立の必要性
      • ←2.26事件で、1932年1月の会長就任以来協会を支えてきた斎藤実が殺害される。

  • 海軍当局の指導強化
    • 海軍出身者の理事が増加(現役局長級も理事に参加)
      • 左近司政三…北樺太石油会社社長、予備役海軍中将、海兵28期
      • 向田金一…海軍有終会理事、予備役海軍少将、海兵30期
      • 小林宗之助…海軍省人事局長、海軍少将、海兵35期
      • 野田清…海軍省軍事普及部委員長、海軍少将、海兵35期

  • アメリカにも注目される海軍協会
    • 海軍軍縮問題に対する活発な宣伝活動によりアメリカでも注目され、米駐日大使館附補佐官により海軍専門誌に掲載される
      • H.H.Smith-Hutton,"The Navy League of Japan,"United States Naval Institute Proceedings,Vol.63,(February 1937),pp.191-192
        • 公的に誘導された報道、海軍省軍事普及部との密接な関係、毎年の補助金などが指摘される。

海軍館の設立と海軍協会

  • 常設海軍展示施設海軍館の設置
    • 1935年8月「海軍軍事思想ノ普及及海国精神ノ涵養」を目的とした財団法人「海軍館」が設立される。海軍館建設地は東郷神社に隣接していた。海軍は明治天皇を祀る明治神宮の近くに東郷神社と海軍館を配すことで帝国海軍の栄光の歴史を伝える空間を創り出そうとした。1937年5月21日海軍館の開館式が行われ、27日の海軍記念日から一般公開がなされた。

  • 海軍と美術家の結びつき
    • 海軍歴史画
      • 海軍館には海軍に関わる歴史的記録画が展示されることになり、一流画家17名が終結。1936年6月21日に水交社で第1回打合会が開かれる。海軍当局は資料提供のため、軍艦比叡に便乗させて艦砲射撃を行ったり、軍艦古鷹に便乗させて戦技演習の一部を見学させたりするなど、制作のための資料提供に積極的に協力した。17名の海軍歴史画は海軍館の絵画室に展示された。
    • 海洋美術展覧会
      • 1937年の海軍記念日前後5月25日から30日まで三越本店で海軍協会主催・海軍省後援で「海洋美術展覧会」が開催される。美術作品を通して国民の海事思想を鼓吹しようとするものであった。
    • 海洋美術会
      • 1937年6月10日、海洋美術展覧会に出品した洋画家の一部と海軍軍事普及部、海軍協会が「海洋美術会」を結成。海に興味を持つ画家に呼びかけ、会派を超越した大同団結をはかる。
    • 海洋美術展
      • 1937年6月29日、海洋美術会と海軍軍事普及部、海軍協会、東京府が協議し、第1回海洋美術展を翌38年5月中旬に日本橋三越で開き、作品は一般画家や船舶関係者から公募することとなった。以後、「海洋美術展覧会」が毎年海軍協会と海洋美術会の共催で行われるようになる。

ニ 日中戦争の勃発と海軍協会

戦時体制への移行

  • 日中戦争への対応
    • ポスト軍縮条約体制…協会の今後の在り方について検討し、宣伝及び態勢強化に取り組んでいた時、盧溝橋事件が勃発。海軍後援に主目標を置く。
    • 銃後活動…慰問金募集、講演、慰問、弔慰、出版、展覧会など
    • 講演活動…有終会と協同し時局講演会を開催、1937年度における講演会・懇談会の回数は1097回、聴衆数は90万9千人。
    • 出版活動…『海之日本』のほか、日中戦争における海軍の戦線、銃後の「報国美談」を集録した海軍軍事普及部編『支那事変報国美談 輝く忠誠』を刊行、販売。
    • 美術活動…「海軍従軍画家スケッチ展覧会」(1938年)、「海軍従軍画家展覧会」(1939年)

  • 海洋少年団
    • 陸の少年団とともに大日本少年団連盟に属していたが、1938年に連盟から独立、「大日本海洋少年団」となった。

海軍志願兵の募集

  • 青田買いの始まり
    • 艦艇部隊と航空部隊の大拡充に合わせ人材確保が最重要化する。
      • 小学校校長や中学校生徒へ海軍軍事講習を実施

  • 印刷物による宣伝普及活動
    • 海軍省人事局編『海をめざして』(1939年12月)を3000部発行。
      • 「海軍兵の任務等を色刷り図解した四六倍版14枚の美麗冊子」(定価25銭)。青年学校の生徒が、海兵団への入団→進級・乗艦→各学校練習生→下士官准士官→各学校専修学生→特務士官を経て、海軍少佐になるまでの道筋が、カラーイラストにより誇らしげに示されていた。

三 1940年の海軍協会

伏見宮総裁、二六〇〇年記念事業、三国同盟

  • 伏見宮総裁
    • 海軍協会には皇族の就任を想定した総裁職があり、1939年12月25日に皇族にして元帥・海軍大将・軍令部総長伏見宮博恭王が就任することが内定。1940年4月12日、総裁奉戴式挙行。

  • 二六〇〇年記念事業
    • 「全国小学校教員聖地巡幸海上訓練」(3月19日~4月15日)
    • 「御東行巡路漕舟大航軍」(4月15日~29日)
      • 復元した古代軍船「おきよ丸」によって、宮崎神社から橿原神宮まで航行し、神武天皇東行の伝説を現代に再現しようとする大掛かりなイベント。

  • 政府の外交政策
    • 大東亜共栄圏
      • 1940年7月22日第二次近衛内閣成立。8月1日、松岡洋右外相談話により「大東亜共栄圏」が広く国民に伝えられ、南進政策の採用が明確となる→海軍協会は「一は本会多年の主張が次第に国論を醸成し、それが国策に反映するに至つたもので、窃に吾人の欣快とする所である」と自賛。
    • 三国同盟
      • 9月27日、日独伊三国軍事同盟締結。海軍協会は「米国の如何なる圧迫にも対処し得る万全の準備を完整し、以て有史以来未曾有の国難を突破せねばならぬ。実に三国条約によりて帝国海軍の使命と責任は一段と重且つ大となつた」とした。

海軍志願兵募集の強化

  • 日中戦争2年目以降の志願兵募集難
    • 各種方面に多数の青少年が必要となった結果、海軍志願兵の応募者数も素質も悪化。総力戦体制の構築、満洲移民政策、大量動員などの日中戦争遂行・対米戦準備のための諸政策が競合し、青少年を奪い合うという事態が発生していた。
    • 母親の反対で志願を止められたケースも少なくないので、海軍協会は今後婦人に向かって海軍の使命をよく認識させることも考えなければならないとした。

  • 志願兵増加策
    • 1940年9月、海軍協会は海軍省の後援を得て『海軍志願兵受検参考書』を発刊。全支部その他を通じて全国に無料頒布。1940年度は5万3000部、1941年度は10万3000部刊行。1941年度はさらに「海軍志願兵案内」23万枚も刊行された。
    • これまでの小学校長に加え、中学校長にも海軍軍事講習を実施。1940年10月28日、29日の霞ヶ浦海軍航空隊の講習には横鎮管下の北海道と各県の中学校長54名が参加。1941年度には6月と12月の2回、土浦及び霞ヶ浦海軍航空隊で実施され参加者は193名に拡大。
    • しかし海軍志願兵の人材難は1941年度も変わることは無かった。

四 太平洋戦争前開戦直前の宣伝普及活動

  • 1940年
    • 10月下旬~
      • 危機認識を国民に普及するため、有終会と共同で全国の枢要の地に講師を派遣して「時局大講演会」を開催。
    • 11月21日
      • 海軍協会、理事会と評議会を開催し「時局に関する本会の宣言」を決議(12月6日付で公表)。海軍協会は「帝国海軍力ノ充実、海国精神ノ昂揚」に寄与することを期すとした。
    • 11月30日
      • 時局講演会で大本営海軍報道部長の伊藤賢三海軍少将が「現下の国際情勢と海軍」を講演。独英の戦いについて英の海軍力を評価し長期戦になると予想。

  • 1941年
    • 2月
      • 海軍協会新本部事務所が完成。海軍館、大日本海洋少年団、大日本海洋美術協会、海軍協会本部が置かれ、海軍の宣伝普及組織が1カ所に集められた。
    • 3月~ 枢軸派の影響が強く出始める
      • 平出英夫海軍大佐(海軍省軍務局第四課長兼大本営海軍報道部課長、元・イタリア大使館付武官)の活動
        • 3月20日講演「最近の国際情勢並に太平洋問題」→独の勝利は時間の問題であり、イタリアの苦戦は軍備が整わずに参加しただけ。欧州における枢軸陣営の勝利を前提とした日米戦の不可避とその勝利までを語る。
        • 5月27日海軍記念日におけるラジオ講演「海戦の精神」→独米戦による三国同盟の受動的参戦だけでなく日本が自ら参戦を選ぶこともありうるとの立場を示し、そのための準備は整っていると断じる。その放送内容は新聞各紙にも掲載された(『大阪毎日新聞』1941年5月28日)
        • 『海之日本』10月号には「帝国海軍の決意」と題する文章を寄せ、大東亜共栄圏は不変の国是であり対米開戦の決意を述べた。

  • 昭和16年度(1941年4月1日~42年3月31日まで)講演会・懇談会
    • 実施された講演会・懇談会の回数・聴衆数は最終的に、本部は1397回・89万1193名、支部は1673回・103万4076名に達する。日米開戦の危機が喧伝される中で、対米参戦を行った。

おわりに

  • 海軍協会が導いた対米戦争
    • 政府は強力な言論・報道統制と世論指導を行う。新聞や雑誌の記事に煽られ国内の強硬論はエスカレート。日本国内の強硬論の燃え上がりにより、日本政府はアメリカに譲歩することが困難となり、開戦やむなしとの結論に追い込まれる。
    • 各種メディアや団体の中でも、対米戦の中心となる海軍の指導下にあり、伏見宮を総裁に戴き、海軍の在郷のみならず現役の軍人たちも参加していた海軍協会の宣伝は特別な意味を持っていたといえる。志願兵募集への協力を通じて海軍の軍拡を支えた点においても、海軍協会は対米戦争への道を確かに用意していた。