雑録

土田宏成「1930年代における海軍の宣伝と国民的組織整備構想 海軍協会の発達とその活動」『国立歴史民俗博物館研究報告』、第126集、2006年1月、53-66頁

  • 概要
    • 1930年代に拡充された海軍協会の宣伝活動により世論が強硬論に誘導され、軍縮条約体制から離脱することとなった。

はじめに

  • 【先行研究】海軍軍縮条約体制からの離脱に関して、海軍の宣伝とそれに煽られ強硬化した世論の重要性を指摘したもの
    • ステフェン・ベルツ「ロンドン軍縮会議と世論」(『国際政治』第41号、1970年4月)
      • 1930年代半ばの海軍軍縮条約体制からの離脱の原因として「海軍の宣伝活動が条約を終結に導いた決定的要素だった」と指摘。海軍は新聞・雑誌などの報道機関への働きかけ、大量のパンフレットの出版、海軍に同調的な各種の組織・団体の活用などによって、国民の支持を取り付け、政府に軍縮終結を受諾させるに至ったとする。
    • 今村佳奈子「ワシントン条約破棄と日本海軍」(『日本研究』第16号、広島大学総合科学部広域文化研究講座内日本研究研究会、2003年3月)
    • 岡久仁子「1935年 ロンドン海軍会議と日本政府-外交政策決定過程を中心に-」(『日本歴史』第674号、2004年7月)

  • 海軍の宣伝力の源泉~海軍協会~
    • 満洲事変後に宣伝力強化の必要を感じた海軍が、1930年代半ばの海軍軍縮条約の改定に向けて宣伝政策を展開していった結果、軍縮条約体制から脱退することになった。その際、海軍の最大の弱点である国民的基盤の弱さをいかに克服するかが課題となった。海軍は国民的組織を持とうとするが、それは新組織の設立ではなく、既存組織の拡大強化であり、それこそが海軍協会であった。

  • 本稿の趣旨
    • 1930年代の海軍の宣伝政策を、海軍がそのための国民的組織とすべく育成した海軍協会の動向に注目して論じる。

1.斎藤実の海軍協会会長就任

  • 強化前の海軍協会略史
    • 設立:1917年、海軍軍拡(八八艦隊)の実現を目指す団体として海軍協会が設立される。
    • 停滞:①当初は海軍軍拡運動を協力に推進するため国民的組織とすることが目指されていたが、設立前に軍拡の見通しがついてしまい、その必要性が薄れる。②海軍当局も組織の巨大化によってコントロールが効かなくなることを懸念し、国民的組織化路線が否定される。③さらにワシントン軍縮により軍拡という最大の目標を喪失する。
    • 延命:活動の中心を海軍のPR事業(海事に関する調査研究、軍艦・軍港見学の開催、海軍記念日における行事の主催など)に置き、海軍大臣逓信大臣管轄下の社団法人となる。全国組織には程遠いものであった。

  • 海軍協会の強化
    • 満洲事変と国防宣伝:1931年9月の満洲事変勃発により海軍も国防宣伝の必要性が生じる。海軍は1930年のロンドン軍縮会議における宣伝政策の失敗や、陸軍の在郷軍人会を動員した国防思想普及運動の成功にかんがみ、自己の指導下に国民的組織を持つことの重要性を認識する。そうした海軍が目をつけたのが、一度は国民的組織とすることを否定した海軍協会だった。
    • 支部長会議の開催:1931年11月25日、海軍協会にとって多年の宿望でありながら経費上の関係で実現できなかった支部長会議が開かれことから、海軍の宣伝が強化されはじめる。
    • 組織改編:海軍協会はそれまで海軍出身者を会長にしてこなかったが、従来の慣例を破り、海軍長老で前朝鮮総督斎藤実退役海軍大将を会長に迎えることに決定。斎藤を会長に迎えた効果は絶大。5.15事件によって斎藤に組閣の大命が下るも、海軍協会会長を辞することなく従来通り兼務。斎藤会長の首相就任で海軍協会の権威はますます高まる。

2.地方組織の整備と海軍の後援・指導

  • 海軍協会の会勢拡大のための様々な施策
    • 機関紙の拡充…『海之日本』、隔月から月刊化へ
    • 地方組織整備…全国府県単位で支部を設置。各府県知事に支部長を、学務部長に副支部長を依嘱。支部組織を地方行政機関と一体化させることで地方基盤を強化。支部は原則府県単位で設置。軍港所在には例外として独立支部が置かれた。
    • 会員資格の緩和…会員に「通常会員」(毎年1円以上を拠出する者)を設け、会員資格を緩和し、国民的組織化の方向性を打ち出す。

  • 海軍協会の改革は海軍の宣伝強化策の一環
    • 1932.10.1 海軍省内に従来の海軍軍事普及員会を拡大する形で海軍省軍事普及部が設置される。
    • 1933.4.17 地方長官会議における大角岑生海軍大臣の海軍協会に対する挨拶
      • 「〔……〕蓋し二年後なる昭和10年は、帝国が実質的に国際連盟より脱退する時機にして、且つ華府条約の第一次の満限は翌年に迫り、又次回の海軍軍縮会議が開催さるる等、帝国海軍と致しましても幾多重要なる事件に遭遇することを予想するのであります。従つて此等の事項に関連し、国民一般に帝国海軍の立場を充分に徹底諒解せしむることは、海軍としてのみならず、帝国としても極めて必要なることであると考へるのであります。而して之が為には海軍協会の力に俟つ所頗る大なるものがあります〔……〕」(『海之日本』第87号、1933年1月、53-54頁)
    • 1933.5.24 海軍省副官から各鎮守府、各要港部、各艦隊の参謀長宛ての通知
      • 「今回宣伝普及ノ為、従来ニ比シ一層海軍協会及有終会ヲ利用スルコトトセラレタルニ付テハ、海軍省ハ左記要領ニ依リ右両会ト触接スルココト可致ニ付、右御含ノ上可然両会支部ト連絡セラレ度」(『海軍制度沿革』巻二、331-332頁)

  • 海軍省の海軍協会と有終会の利用
    • 新たに国民的組織に衣更えした海軍協会と、在郷軍人会の団体である有終会を宣伝のために積極的に利用しようとする。それぞれを単独に利用するだけでなく、組み合わせての利用を企図していたことが重要
    • 海軍省は有終会の専門性と海軍協会の国民的組織としての性格に着目して、両者を有機的に組み合わせる(具体的には有終会に海軍協会を指導させることにより)宣伝の効果を高める工夫を凝らした。

  • 『海之日本』1932年7月号巻頭
    • 「〔……〕過去の失敗は、主として国民の無関心に基けり。之に憤激して我協会は海、海軍並国防に関する有ゆる知識を国民に普及し、一大国民運動に依て、我海軍国策に寄与する所あらんとす〔……〕」
    • 土田氏の論→海軍協会は海軍軍備の英米との「均勢」を主張し、過去において日本が英米に対して劣勢な比率を受け入れたことを「失敗」と位置付け、その失敗の主原因を「国民の無関心」に求めた。そのため、1935年に予定されていたロンドン海軍条約の改定に向けて、「一大国民運動」を起こすという。この運動は「1935・36年の危機」を煽り、ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約体制の打破を目指すものであり、まさに当時の海軍の立場を代弁していた。

3.第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に際して

  • 国民世論を交渉材料として用いる
    • 国民世論は、会議からの脱退も辞さない海軍にとっては、主にその主張を貫徹するためのものであり、他方国際協調を重視する外務省や政府首脳にとっては、日本政府の主張はあくまでも国民世論を汲んだもので、政府としては国際協調主義を放棄するものではないことをアピールするためのもの。(「海軍会議予備交渉の方針に関する訓令」1934年9月7日、外務省編・発行『日本外交文書 1935年ロンドン海軍会議』1986年、111頁)

  • 海軍協会を用いた世論誘導
    • 政府は、軍縮会議関する諸情報を交換し、かつ会議に関する内外宣伝、ならびに世論の指導統制をはかるため、外務・海軍・陸軍の三省で連合軍縮委員会を組織。国内については「公正ニシテ信念アル輿論ヲ喚起シ、明年ノ本会議終了迄之ヲ維持スルト共ニ、将来ニ於ケル帝国ノ立場ヲ有利ナラシムルガ如キ雰囲気ヲ醸成ス」とする。(「海軍軍縮問題に関する輿論啓発の方針について」1934年10月16日、『日本外交文書 1935年ロンドン海軍会議』、121-125頁)
    • 海軍協会は政府の方針を受けて宣伝活動を本格化させる。10月15日、海軍協会は海軍軍縮会議に対する決議を行う。その決議内容は反軍縮条約体制であり、政府・海軍の主張に沿ったもの。
    • 海軍協会はこの決議を山本五十六代表宛に打電しただけでなく、その英訳を会議参加国米英仏伊の各海軍協会宛に送付。国内では東京を皮切りに全国各地で「軍縮問題大講演会」を開催、その主張の普及に努め、内外の宣伝に従事する(『海之日本』第109号62頁、第110号45-46頁)。
    • 1935年3月、海軍協会により招かれた午餐会での山本五十六の発言→「海軍協会は会員に広く各方面を網羅して居り、従てその軍縮問題に関する意見は頗る有力である。世論を指導して吾々を後援せられ感謝に堪えず」(『海之日本』第115号58頁)

4.海軍協会の宣伝活動の内容

  • 海軍協会による、組織的かつ統一的に周到な配慮をもって行われていた宣伝
    • 1935年12月9日から始まる第二次ロンドン海軍軍縮会議の本会議への対策
      • 昭和10年海軍軍縮会議ニ関スル国論指導要旨」→国民の間に「非常時」に慣れ、緊張を欠く空気が見られることや、会議開始後に外国の宣伝策謀がなされることに注意し、日本の主張を国民が一致団結して熱心に支持するよう誘導しなければならない、とする。
      • 昭和10年海軍軍縮会議ニ関する講演論文資料」→この資料に基づき具体的な宣伝を行う。「帝国ニ不利有害ナル言説ガ地方新聞等ニ表ハルゝ如キ場合、遅滞ナク本資料ヲ基礎トシテ反駁ノ態度ニ出ヅル等機宜之レヲ利用スルコト」とあり、全国のマスコミへの監視、批判も海軍協会の重要な役目とされていた。

  • 海軍の主張を支持する世論の勃興による軍縮条約体制の打破
    • 海軍の主導によって、第二次ロンドン軍縮会議予備交渉・本会議では、従来の軍縮会議では見られなかった組織的な宣伝活動が展開され、国内世論は指導、統一されていった。
    • 軍縮に不満を持つ艦隊派により支配されるようになっていた海軍の圧力によって、政府の国際協調主義的軍縮政策の維持は困難になりつつあったが、海軍の主張を支持する世論の勃興は政府を窮地に追い込み、海軍に対する譲歩を余儀なくさせた。

おわりに

  • 結論
    • 海軍の主導によって海軍協会を利用した従来の軍縮会議の際には見られなかった組織的な宣伝活動が展開され、国内世論は指導、統一され、日本はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約体制から離脱していった。
    • 1936年1月日本は第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退したが、ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の失効を目前に控えた12月16日海軍協会は、挙国一致して国防上不安なき海軍軍備の整備に努める声明を発表。両条約の不当性を訴え続けてきた海軍協会にとって、ついにその目標が達成された。

  • 軍縮条約体制打破後の海軍協会の動き
    • 目標達成は目標喪失をも意味しており、今後も協会が活動していくためには新たな目標の設定が求められた。次なる目標を模索していた時に、盧溝橋事件が発生。日中戦争以降、海軍協会はそれまでに作り上げてきた組織をさらに拡大強化して、海軍の宣伝、国民精神総動員運動への参加、慰問金の募集、戦死者への慰問活動、将兵慰問、海軍志願兵徴募への協力など銃後後援活動に取り組み、やがて百万人を超える会員を擁する、文字通りの国民的組織へと成長していく。