木村美幸「昭和戦前期における海軍協会の宣伝活動と海軍志願兵徴募」(『ヒストリア』267、大阪歴史学会、2018年、1-27頁)

  • 概要
    • 本論文の意義は、主に3つ。
      • 静岡県磐田郡の史料を用いて地方での海軍協会の活動を扱い地方行政組織との重層性を取り上げた。
      • ②海軍協会の達成目標が1932~37年の軍縮条約体制打破から1940年以降の志願兵徴募強化に転換するまで、1937~40年の間に南洋進出を掲げていたことを指摘した。
      • ③女性の役割に焦点を当て、志願兵徴募における母・姉という属性からの働きかけの重要性や、青年の代替労働力としての女性の活用の提唱を扱った。

【目次】

はじめに

  • 本稿の目的
    • 海軍の宣伝機関の一つとして、全国に支部を持ちつつ活動した海軍協会を取り上げ、地域の中での活動の実態と、志願兵徴募との関連について明らかにする。
      • ①海軍協会海軍宣伝普及活動においてどのような位置にいたのか
      • ②海軍協会が実際に地方(静岡県磐田郡)でどのように事業を行ったのか
      • ③海軍協会の事業がどのように志願兵徴募へと展開し、どのように志願兵を宣伝したか

  • 海軍協会とは何か
    • 成立
      • 1917年に海軍出身者、貴族院議員などによって設立。当初の設立目的は八八艦隊の実現をはじめとした軍拡の推進であり、予算成立により実を結ぶ。
    • 衰退
      • ワシントン軍縮により会勢は衰退。活動の中心を政治的主張から海軍・海運のPR事業に切り替え立て直しのための努力をするも、会員数は減少。一部地域に支部があるも全国組織にはほど遠い状況。
    • 転機
      • 1932年、斎藤実が会長に就任し改革が行われる。海軍協会は、ワシントン・ロンドン両軍縮条約の破棄に向けた国内世論の指導・統制に貢献。また、この時期から会勢を拡大。その要因としては会員種別の中に通常委会員を設けたことで、より簡単に入会できるようになったこと、道府県単位での支部の設立を行ったことがあげられる。
    • 発展
      • 2.26事件で斎藤実が暗殺された後も会勢は衰えず、1937年4月、副会長であった貴族院議員の有吉忠一が会長に就任。海軍の記念館である海軍館の設立、美術会の創設など普及事業を強化した。1940年には、海軍軍令部総長伏見宮博恭が総裁に就任した。

  • 研究の射程
    • 海軍協会会長に斎藤実が就任し、積極的に事業を行い、全国の道府県支部が設立されていった、1932年以降の活動を取り扱う。

  • 静岡県磐田郡を扱う意義
    • 非海軍地域
      • 従来の研究においては、師団・連隊が設置されている地域、軍港・要港部などが設置されている地域と軍隊との繋がりを問うことが多かったが、海軍は全国から志願兵を集めており、軍港・要港部など海軍の拠点が無い地域でどのように活動していたのかは重要な論点。
    • 史料的価値
    • 静岡県支部の特性
      • 会員数全国一の支部として発足するが、その後会員数が大幅に減少した地域。会員募集に苦戦したからこそ、積極的に会員の勧誘を行っていたと考えられ、海軍協会の地方での活動実態を見る上で適当な事例。

第1章 海軍の宣伝普及活動と海軍協会の位置づけ

第1節 海軍省の宣伝普及活動

  • 海軍軍事普及委員会
    • 1924年成立。人数構成は10名程度で小規模。
    • 活動内容は活動写真の制作・映写、軍艦・基地の見学に関する事項など。
    • 軍縮問題をはじめとする政治的問題は取り上げなかったので、効果的な宣伝活動を行えず、ワシントン会議ロンドン軍縮会議に対する国内世論を十分に高めることができなかった。

  • 海軍軍事普及部
    • 1932年委員会を普及部に改編。組織の規模は20名程度へと拡大。
    • 宣伝普及の関連業務にあたる部内の統制権を得るなど、積極的な事業を行うことが出来るようになった。
    • 新聞報道への働きかけや政治的主張を押し出した映画の制作を行うようになった。
    • 新聞記者への働きかけの関しては、直接的な手法をとらず、問題となる記事が出るたびに座談会を開いて意見交換を行うなど、間接的に働きかけを行っていた。

  • 海軍省の宣伝機関(委員会・普及部)の問題点
    • 陸軍に比べて宣伝活動が小規模だった
    • 地方での拠点がなかった

  • 普及部の廃止
    • 1942年に廃止。以降は大本営報道部と内閣情報局で宣伝活動が行われる。
    • 内閣情報局が新聞記者への働きかけなど普及部が行っていた活動を引き継ぐ。
    • 海軍独自の宣伝は軍務四課が担うことになったが、規模は大幅に縮小された。

  • 普及部廃止以降の宣伝活動の担い手
    • 普及部廃止以降の時期に本格化する志願兵徴募を考える場合、これ以降の時期が重要となる。
    • 1940年に伏見宮博恭が総裁となり、活動を活発化させた海軍協会は、アジア・太平洋戦争期まで宣伝活動を行った機関として注目すべき。

第2節 海軍協会と有終会の関係性

  • 有終会とは
    • 設立と会員数
      • 海軍協会よりも早く1913年10月に設立。当初の会員は元海軍士官を中心に230名程度。1938年時点では3044人であり、海軍協会と比べて規模の大きい組織とは言い難かった。
    • 規模が小さい理由
      • 入会懇願書の発送が海軍士官のみを対象としており、下士官・兵を会員としなかったこと。多くは将官、佐官クラスで、尉官はごく少数いるのみ。
    • 水交社との重複
      • 海軍の将校クラブ水交社と実質的に重複し、有終会の会合の多くも水交社の事務所で行われる。
    • 主な事業
      • 機関紙や海軍関係の書籍・冊子の発行、軍艦や工廠の見学、各種講演会への講演官の派遣。講演会の内容は海軍軍備に関することが中心。講演官の派遣は元海軍士官を主な会員とする有終会の得意分野。

  • 海軍協会と有終会の関係性
    • 向田金一「海軍協会と在郷海軍軍人」(『有終』322、1940年9月、130-133頁)より
      • 海軍協会は舞台で、海軍有終会は役者。その理由は有終会の全国支部は1940年段階でも30程度で大都市に多いので、全国に支部を持っている海軍協会の活動が重要であるから。
      • 海軍協会は民間組織で有終会は軍人組織であるという区別があったことから海軍協会に入ることは二重負担という認識があったが、伏見宮博恭が海軍協会の総裁となったころから海軍軍事に寄与する団体であるということが強調され、海軍軍人の入会も増加した。
      • 1940年以降には退役する海軍軍人に対して、軍を通して海軍協会への入会を斡旋するなど、海軍協会の規模拡大が行われた。

  • 普及部廃止以降の有終会と海軍協会
    • 普及部廃止以降の講演活動の主体として、有終会の会員=在郷海軍士官が考えられている。
    • 海軍協会と有終会は、1940年の普及部廃止以降、同一の人間が双方の会員になるなど、必ずしも分離して活動していなかった。

  • 海軍から海軍協会に期待されたこと
    • 多数の会員から構成されることによる全国基盤と、1940年以降は海軍の中核的宣伝機関としての役割

第2章 町村分会での活動

第1節 支部・分会の成立と展開

  • 海軍協会静岡県支部
    • 海軍協会県支部は1932年各道府県知事を支部長に、学務部長を副支部長に委嘱して、学務兵事課において事務を扱うことにする制度が確立して以降、本格的に設立された。
    • 静岡県支部規則では、静岡県一円の区域のなかで各都市に連合分会、各町村に分会を置くと規定される。
    • 静岡県支部では比叡への乗艦を利用して会員募集を図り、1934年に約13000人の会員を擁立して設立され、全国1位の規模であった。

  • 分会レベルでの会員募集
    • 磐田郡町村長会長発各町宛「海軍協会々員募集ノ件」(『往復文書綴』1934年9月10日)
      • 海軍協会会員の募集人員が町村ごとに平均30人と決まっており、町村規模を考慮したうえで掛塚町では56人と通知される。
      • 会員募集の取り纏めを町村長が行っていることも注目される。

  • 海軍協会静岡県支部会の凋落と対応策
    • 1934年には13000人いた会員が1939年には10000人を下回り、1942年には8622人となる。
    • 1943年になると再び数値目標を設定して会員募集が行われる。
      • 1943年6月24日、磐田郡では海軍協会の会勢拡充についての協議が行政組織の会議(磐田郡管内町村長が集まる例会)で行われる。町村ごとに割当人数が決められ、龍山村においてはさらに細かい字ごとの割当が行われた。

  • 海軍協会地方支部のまとめ
    • 海軍協会は地方において艦船便乗特権などを用い会員募集を行い、1943年には割当制を含む入会が行われた。
    • 運営は道府県あるいは市町村の行政担当者によって、組織化され運営されるなど、強く行政組織と結びついた組織であった。

第2節 分会の活動

  • 静岡県磐田郡掛塚町分会の具体的な活動
    • 軍艦便乗の斡旋(1935~1939)
    • 海軍記念日行事の開催(1937年・1943年)
    • 会報の配布
    • 会費の徴収など

  • 海軍記念日映画会の意義
    • 支部とのやりとりが明確に残っており、年ごとの変化を追うことができる。
    • 艦船便乗などとは違い、映画会は海軍協会の会員のみを対象としたものではなく、会員外にも働きかける事業であり、宣伝活動の解明に有益。

  • 海軍記念日とは
    • 日本海海戦勝利の日である5月27日であり、各地でイベントが行われ、海軍の宣伝のために利用された。そのため、普及部・有終会・海軍協会の行事の多くがこの日に行われている。掛塚町分会も例外ではなく、軍艦便乗と映画会がこの日に行われている。

  • 映画会開催にみる海軍軍事普及部と海軍協会の違い
    • 町分会が事業を行うにあたっては、普及部や県支部と頻繁に連絡を取り合っていた。その中で、普及部の宣伝隊は海軍協会の支部に比べ、出張費用などの金銭面での問題があり、掛塚町が選んだのは、県支部の映画であった。
    • 地方で海軍関係の行事が行われる際、地方に支部を持つ海軍協会は、それを持たない普及部に比べ、魅力的な存在だった。
    • 普及部の廃止後は、希望日程で映画会が開催出来ないほど多数の申請が寄せられるなど、映画会開催は地方に広く根付いた行事であった。

第3章 海軍協会と海軍志願兵

第1節 南洋進出から海軍志願兵徴募へ

  • 海軍協会の目的→「海事思想」「海軍思想」の普及
    • 「海事思想」とは
      • 海洋に関連するあらゆる事業。海軍、海運、造船、航海、通商貿易、水産漁業、その他植民等に至るまで、あらゆる諸般の事業の総称。一切の海事関係の事業。
      • 「海事思想」の普及とは「海事」に対する理解や共感を得るための普及活動。
    • 「海軍思想」とは
      • 「海事思想」のうち海軍に限った内容。海軍軍備に対する理解。

  • 普及活動の達成目標の時期ごとの違い
    • 1932年~36年:両軍縮条約の破棄
      • 軍拡に向けた国内世論を後押しする。第二次ロンドン軍縮会議はこの時期の海軍協会の一番の関心事。軍縮条約は破棄され目標を達成する。
    • 1937年~40年:南洋への進出
      • 日中戦争の開始に伴い委任統治領のみではない「南洋進出」が訴えられるようになる。その背景には資源の不足や海上交通保護の観点から、南洋を確保しなければならないという考えがあった。地方においても南洋進出を意識した会員募集が行われ海洋発展に無知な者に海軍海事思想を普及するとした。
      • 1940年9月の松岡外相の演説と北部仏印進駐によって、海軍協会は自らの要望が実現したとした。
    • 1940年以降:志願兵の奨励
      • 対米戦に備えた軍拡を目標とし、その達成のための手段が海軍志願兵の奨励。海事思想の普及が海軍志願兵の徴募成績に結び付く。

第2節 海軍協会における海軍志願兵徴募活動

  • 海軍協会の志願兵事業
    • 受験者案内の発行
      • 1940年以降、海軍当局の検閲を受けて志願兵受検参考書を、役場や志願兵相談所で、無料配布。
      • 内容は志願兵の意義、兵種、志願条件、試験内容、入団後の待遇、学力試験の過去問題など。海軍の受験情報のみではなく、海軍に採用されてから入営するまでの心構え、海軍入営後の進級給与などの現実的な問題にも触れる。
    • その他の事業
      • 小中学校生徒を対象とした講演会・映画会
      • 在郷海軍軍人と志願を希望する学生の座談会
      • 志願を考えている少年が相談する海軍志願者相談所の設置
      • 志願者を対象とした予習教育・模擬検査
      • 徴募成績が優良な家庭に対する表彰
      • 入団予定者に対する予習教育
      • 1944年3月には『指導者用海軍志願兵参考書』を発行

  • 静岡県で海軍協会が行った事業
    • 映画会…志願兵徴募のための創意工夫として講演幷映画班の派遣が紹介され、映画会は志願兵徴募に有効とされる。
    • 志願兵相談所…志願兵に向けて行う事業の中でも中心的な事業。『指導者用海軍志願兵参考書』では「海軍志願兵の意義を認識せしむると共に、特に志願書用紙を備えこれを手交して志願の意思を堅確ならしめる等、努めて積極的なる働きかけをなすやうでありたい」と述べ、単に志願についての説明をするのみでなく、志願を半ば強要する場面もあった。

  • 海軍協会支部会・分会と行政組織
    • 各地で支部もしくは分会が、地域に根差した活動を行っており、かつ支部長・分会長に道府県知事・市長村長をあてているからこそ、行政組織を活用し、少年一人ひとりに声をかけることが出来る活動を行い得た。

  • 海軍協会本部の志願兵についての主張
    • 志願兵は在営年限が長く時間をかけて技術の習得が出来るため、海軍において志願兵は重要。
    • 支部の拡充がそのまま志願兵徴募の成績につながると説明されるようになる。

  • 志願兵のための『海之日本』の記事
    • ①海軍に志願を考えている青少年向けの文章
      • 志願兵が抱えている悩みに答えるような文章や、基本的な兵種とその概要や志願の方法など
    • ②海軍志願兵を指導する人物にあてた文章
      • 女性の役割を重視していることに特徴
        • 「日本の女性に告ぐ」(『海之日本』191、1940年9月)では志願兵の母や姉に向けて「どうか日本の女性よ、日本を護る海軍に貴女の立派な御子さんを、有為の弟を、海軍で御奉公せしめると云う気持ちになつて頂きたい」と子弟や弟を志願させるように求めている。
        • 海軍協会の会員には女性も含まれており、呉や兵庫には婦人部が設立されるほど、女性会員が存在していた(「呉支部に婦人部壇上」『海之日本』173、1939年8月、8頁)。
    • ③海軍協会の方針として志願兵の必要性を説く文章
      • 人的資源の競合の問題。競合相手は軍需工場・各種産業・地方農漁村・満洲拓殖。海軍協会は志願兵が他の労働力に優越するという記事を掲げ、「海軍志願兵第一主義」が「国策」であるとしている。
      • 同じような層を応募者とした満蒙義勇少年兵との競合については、茨城県内の満蒙義勇少年兵訓練所において志願兵検査を行った例を挙げ、海軍志願兵が満蒙義勇少年兵よりも優越するとしている。
      • 他の労働力との競合に勝つために、海軍志願兵の優越は、国も認める「国策」であるということを、海軍協会は主張していた。
      • 代替労働力としての女性を重視。

  • 海軍協会本部と行政組織
    • 地方に拠点を持つ利点を背景に、行政と連携しながら志願兵個人とも関わる事業を行い、機関紙上でも呼びかけを行う。

おわりに

  • 本稿で明らかにしたこと
    • 海軍協会の支部は地方で行政組織を使用しながら活動を行い、海軍協会本部の動向に従い軍縮条約破棄・南洋進出と事業を進め、1940年ごろには志願兵徴募に最も力を入れるようになり、地方基盤を生かした事業を展開したことを明らかにした。

  • 先行研究とは異なる独自性
    • 従来の研究においては、宣伝活動は海軍協会の役割、志願兵徴募活動は行政・学校の役割と考えられてきたが、宣伝活動を地域で担った人物をみていくと、両者は必ずしも別で考えるべき問題ではなく、むしろ同一の問題。海軍は地方において行政組織に基盤を置いて活動していた。