少女☆歌劇 レヴュースタァライト 第12話「レヴュースタァライト」の感想・レビュー

少女から新たな可能性を引き出すべく不幸を与えるキュウべえやキリンは消費者自身なんだよ!
需要と供給。作品は制作者だけでは成り立たず消費者が必要で、両者がいるからこそ成り立つ。
誰も見たいと思わなければ、シナリオが綴られることは無い。
それ故消費欲を満たすため少女たちをわざと不幸にしそれを乗り越えるシナリオを生み出すのだ。
すなわちキュウべえやキリンといった存在は我々視聴者の消費欲なのである。
だが私たちの悪意などキャラ達は超えていき想定外の動きを示す。
最後は何故かキリンの口からメタ的な物語観が提示された。

消費者が望むからこそ悲劇となるが、その悲劇すらキャラが乗り越える

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  • キャラ達の物語改変による悲劇からの脱却
    • キリンによるバトルロイヤルはキュウべえシステムと同じで優勝者の望みを歪んだ形で叶えるために敗北者の煌めきを奪うモノでした。神楽ひかりは愛城華恋の煌めきを守るため自分だけが犠牲者となることで、結果として皆の煌めきを守りました。しかしその代償は大きく、一人きりで幽閉されたひかりは記憶を失くし、賽の河原を繰り返していたのです。愛城華恋は原著邦訳によって物語の原典を知ることで、シナリオは幾重にもリライトされてきたことを知ります。じゃあひかりの悲劇も書き換える!と言わんばかりにひかりの下へとやってきました。
    • 神楽ひかりが記憶を失くしていたことに気が付いた華恋は愕然としますが、その想いはついにひかりに届きます。記憶を取り戻したひかりとファイナルバトルが始まります。ここでも華恋は敗北を喫し、ひかりの永遠の孤独が確定されかけます。しかしここで1話がフィードバックされ「アタシ再生産」が発動するのです。何度もコンティニューできるのが愛城華恋の強さなのかもしれません。何度でも舞台の上に這い上がり脚本を書き換える煌めきこそ、キリンがバトルロイヤルで求めたものだったのです。華恋の煌めきはキリンの思惑をも凌駕し、キリンを絶頂させることで、レヴューの呪縛から自分たちを解放します。エピローグではひかりと華恋を主役に『スタァライト』の上演が行われますが、その脚本は書き換えが行われたものであり、悲劇を積み重ねたからこそのハッピーエンドとなったのでした。

 

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  • キリンからのメタ的な話
    • 愛城華恋の「アタシ再生産」により運命が書き換えられた際、キリンの口からメタ的なお話が矢継ぎ早に語られます。舞台は役者だけでも観客だけでもダメで、両者の存在により成り立つもの。そのため観客の消費欲を叶えるために、少女たちは悲劇に晒されることになります。これはゼロ年代を風刺していると考えられ、当時求められた「泣き」がエスカレートしたことで不幸少女が大量生産され、シナリオがトラウマ解放物語ばかりになった背景を指しています。
    • 2010年代に入るとインキュベーターが登場し、新たな時代に入ります。思春期の少女の感情の激しさや疾風怒濤は、それを愉悦の対象とする存在によって「仕組まれたもの」となるのです。あらかじめ舞台装置の支配者によって予定された悲劇、そしてルールの支配者を乗り越えることがシナリオの最終目的となります。
    • さらに本作のキリンの場合、そのカタルシスすら消費の対象とします。ライターから、「このキリンは自分が仕組んだルールが打破されるほどの煌めきを求めているので、感動する物語を求めている点で消費者の象徴であり、お前たち視聴者とイコールなんだぜ」と共犯関係を抉り差されるのです。(自己の解体&傍観者である視聴者の物語への参入)。神楽ひかりや愛城華恋が可哀想な目にあってるのはお前たちが原因でもあるんだぜ!?ということ。我々の欲求に従いキャラ達の物語が消費されていくというのです。しかしこれすらキャラ達が乗り越えていくというのが本作最大の魅力と言えるでしょう。2018年作品の『スタァライト』は「物語の枠組みをぶっ壊せ系」作品の爛熟期の一種と歴史的には位置づけることができるかもしれません。

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