- 共通テスト2022世界史の特徴
- 丸暗記の知識偏重を避けるため、図表や資料の読解、教科横断をふんだんに取り入れている。だが単なる純粋国語(歴史知識が全く必要なく文章読めれば解ける問題)に堕している設問【21】、中学社会【20】や小学校算数【19】など大学入試において世界史の学力をはかるのにはそぐわない設問も散見される。
- 出題パターンとして目立ったのは、「空欄補充をさせた上で問題を解かせる」形式(【4】【12】【15】【16】【26】【27】【29】【30】【33】)。知識を活用することが学習指導要領でも謳われており、それは必要な能力だと思うが、今回の形式は完全にクイズ大会であり、知識の活用に該当しない。もっと資料読解をした上で、歴史の知識を使って解く問題を出すべきだと思われる。
- 一方で歴史事象の複数解釈と概念操作を取り入れた【25】はこれからの時代に必要とされる能力をはかるものと言える。
【目次】
第1問 世界史上の学者・知識人
B ハサン=ブン=イーサー(9世紀イラン北東部に生きた人物)の伝記記事
問4【4】資料読解+空欄補充(ウラマー)
問5【5】イランにおけるキリスト教の歴史
- 正文判定
- ①【誤】サファヴィー朝は、神秘主義教団の指導者イスマーイール1世がトルコ系遊牧騎馬軍団キジルバシュの支持を得て開く。後、神秘主義教団からの脱却が図られ、12イマーム派がイランの支配的宗教となる。
- ②【正】ネストリウス派はイエスの神性と人性を分離する考え方で、エフェソスの公会議で異端とされた後、ササン朝を経て唐代の中国に景教として伝わる
- ③【誤】クシャーナ朝のカニシカ王が保護したのは仏教。
- ④【誤】シク教でイスラーム教と融合したのはヒンドゥー教。ナーナクはイスラーム神秘主義とカビールの影響を受けてヒンドゥー教を改革しシク教を創始。ヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラーム教を融合し、偶像崇拝や苦行、カースト制を否定した。
問6【6】9世紀に異教徒の多くがイスラーム教に改宗したアッバース朝の政策
- 正文判定
- ①【誤】バーブ教徒の乱は、1848〜52年に起こったカージャール朝の封建的体制と英露の外国勢力に反対したイラン民衆の反乱。バーブ教はサイイド=アリー=ムハンマドが始めたイスラーム教シーア派系の神秘主義的新宗派。反乱とバーブ教は直接関係なかったが、反乱に参加した貧農にはバーブ教徒が多かったので、こう呼ばれる。
- ②【誤】ダレイオス1世はアケメネス朝ペルシャ(位前552〜前486)。新都ペルセポリスの造営やペルシャ戦争の遠征失敗で名高い。
- ③【誤】アフガーニー (1838/39~1897) は各地を旅して「帝国主義に抗するムスリムの団結が必要」という思想を説く。ムスリム没落の原因を内的な退廃に求め、立憲制・議会制を導入してイスラーム改革をすべきだと主張した。これが各地のイスラーム世界に影響を与えていく。
- ④【正】ウマイヤ朝がアラブ人が特権を有する「アラブ帝国」だったの対し、アッバース朝はイスラームのもとでの平等を原則としたので「イスラーム帝国」と呼ぶ。アラブ人の特権廃止(アラブ人にもハラージュを課税・全ムスリムのジズヤを廃止)
C 近代中国の学者王国維が著した論文
問8【8】チベット仏教の歴史
- 正文判定
- ①【誤】ワッハーブ派はイスラーム教の一派。近代アラビア半島におけるイスラーム改革で原始イスラームの回帰を主張した。
- ②【誤】ガザン=ハンはイル=ハン国でイスラーム教を国教化した。黄帽派はツォンカパがチベット仏教を改革した宗派。ツォンカパは従来のチベット仏教が中国王朝の厚遇をえて退廃したことを厳しく非難。厳格な戒律の実行を説く。従来の宗派を紅帽派と総称したのに対し、ツォンカパらの宗派を黄帽派(ゲルク派)と呼ぶ。以後、黄帽派の教主がラサを首都としてチベットの政治と宗教を支配するようになる。
- ③【正】ダライ=ラマ14世は1959年のチベット反乱でインドに亡命した。1958年に中国で毛沢東の「大躍進」が失敗するとチベットでも大量の餓死者が発生。政教一致の原則とチベット仏教の布教を求めて首都ラサで大規模反乱が起こった。これによりダライ=ラマはインドに亡命。インドはダライ=ラマと反乱軍を支持し、中国軍と衝突。ソ連はインドの立場を支持し1959年12月に中ソ技術協定を破棄した。
- ④【誤】北魏で手厚い保護を受けたのは道教。北魏の第三代皇帝太武帝は華北を統一。寇謙之を重用して道教に帰依し、廃仏を断行した。
第2問 ある出来事の当事者の発言や観察者による記録
A ウィンストン=チャーチルの『偉大な同時代人たち』
問1【10】空欄補充 スペインと英仏の関係
- この苦難(ナポレオンの侵略)から100年経った今も【ア】とスペインとの間に共感は芽生えようがない。【イ】にジブラルタルを奪われたことは〔……〕いまだにその意識に大きな影響をもたらしている。
問2【11】地図(スペイン最後の植民地)
- 地図の中からスペイン最後の植民地を選ぶ
- a【誤】アルジェリア:フランス領。ブルボン家のシャルル10世が国民の不満をそらすために1830年に出兵。国王は七月革命で追放されたが、フランスの支配は続き1847年に併合。
- b【誤】タイ:独立を維持。イギリスとフランスの植民地支配の緩衝地帯となった。
- c【正】フィリピン:米西戦争でスペイン領からアメリカ領になる。米帝はキューバのスペイン反乱を支援してメイン号事件を口実にスペインに宣戦・圧勝。米西戦争中、アメリカ軍はマニラを占領し2000万ドルで買収した。この他アメリカは、米西戦争でフィリピン東部の島グアムを獲得した。
- d【誤】ペルー:スペイン領であったがナポレオン戦争の際にサン=マルティンにより解放された。
B キューバ危機と部分的核実験停止条約
問4【13】部分的核実験停止条約
問5【14】ソ連史
- 正文判定
- ①【正】中ソ対立。1969年珍宝島(ダマンスキー島)事件が勃発。ウスリー川にある島を巡って武力衝突が発生し、双方に多数の死者が発生。ソ連側が核兵器の使用に言及するほどの激しい対立となる。
- ②【誤】サンフランシスコ講和会議は西側諸国とのみの片面講話。ソ連とは日ソ共同宣言。鳩山一郎自らモスクワに赴き日ソ共同宣言調印(56.10.19)で国交回復を実現。
- ③【誤】クウェートに侵攻したのはサダム=フセイン。1990年、イラクがクウェートの石油資源をねらって侵攻、併合を宣言。国連安保理は対イラク武力行使を決議。中東の石油利権を確保するという利害から多国籍軍が形成された。1991年、湾岸戦争開始。大量の新兵器が使用されイラクは大敗した。
- ④【誤】アメリカからアラスカを購入したのではなく、アメリカに売却した。ピョートル1世はベーリングにシベリアを調査させていたが、皇帝没後の1741年にアラスカを領有。1867年に財政難に苦しむアレクサンドル2世がわずか720万ドルで売却したが、直後に金鉱が発見されたのは有名な話。
第3問 世界史上の人々の交流や社会の変化
A 明治期の政治小説に描かれた国際情勢についての授業
問1【15】1848年の革命(空欄補充をした上での正文判定)
- 空欄補充「【ア】と呼ばれる革命の時期に活躍したハンガリー出身のコシュート」。
- 正文判定
- ①【誤】ロシアで立憲民主党を中心に臨時政府が樹立されたのは1917年の三月革命(露暦二月革命)。
- ②【誤】青年トルコ革命は1908年。日露戦争における日本の勝利により立憲制が専制政治に勝るという認識が広がりミドハト憲法復活の声が高まると「青年トルコ人」は若手将校と結んで1908年に政権を奪取。立憲政を復活させた。
- ③【正】フランス二月革命の影響により首都ベルリンで市民が暴動(ベルリン三月革命)を起こすと、プロイセン国王が譲歩した結果、自由主義内閣が成立して憲法制定を約束したため全ドイツの統一と憲法制定のためフランクフルト国民議会が開催される。ドイツの統一をめぐる論争が勃発し大ドイツ主義と小ドイツ主義で対立。1849年3月、小ドイツ派が、自由主義憲法を採択した上で、プロイセン国王にドイツ皇帝への就任を要請するが、普王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は、革命派から王冠をうけられないとして拒否。1849年6月、武力弾圧により解散させられた。
- ④【誤】オーストリアで失脚したのはディズレーリではなくメッテルニヒ。ディズレーリは19世紀イギリスの保守党の首相。
問2【16】ウラービー(空欄補充をした上での正誤組み合わせ)
B 世界の人口の推移についての授業
問4【18】表の読解と見せかけて置いて、解答に表読解が必ずしも必要と言えない
- 正文判定
問5【19】日本と東南アジアの国際関係史(小学校算数と正文判定)
C オセアニアの先住民についての授業
問6【20】中学社会科地理的分野(先住民の呼称)
問7【21】歴史の試験で歴史知識を必要としない純粋国語の問題を出すことについて
- 先生の二つ目の台詞→「「土着のもの」を意味する英語に由来していて、オーストラリアへの入植者が現地の先住民を指して用いる」
- 先生の三つ目の台詞→「先住民は入植者を指して「白人」を意味するバケハという呼称を用いました。現在のニュージーランドでもバケハは入植者やその子孫の名称として取り入れられています」
問8【22】オセアニアの歴史
- 正文判定
- ①【誤】白豪主義が廃止されたのは1970年代以降。オーストラリアは有色人種を移民として受け入れない人種差別政策「白豪主義」をとっていたが、1970年代以降転換して異文化との共存を尊重するようになった。
- ②【誤】ハワイを併合したのはアメリカ。マッキンリー時代の帝国主義政策。米西戦争の際に獲得したグアム・買収したフィリピンの連絡路とする「太平洋の飛び石」。
- ③【正】クックは現在のオセアニアにあたる地域を探検した。オーストラリアは1770年にクックが探検し英領となった。ニュージーランドに到達したの1642年のタスマン。
- ④【誤】1870年代半ば以前のイギリスでは植民地不要論が唱えられた。国防費の削減を求め、植民地を領有することは余計な浪費と見なす考え方。白人移住者の多いカナダなどの植民地に対しては、現地の自治的な責任政府を通じて間接支配を行うようになり、1867年、カナダが最初の自治領となった。以後オーストラリア(1901)、ニュージーランド(1907)、ニューファンドランド(1907)、南アフリカ(1910)。ニュージーランドが自治領となったのはカナダよりも後。
第4問 歴史評価の多様性
A ジョージ=オーウェルとスペイン内戦
問1【23】民主主義がファシズムに敗北した事例~日本の望むままの行動の容認~
問2【24】ヒトラーの共産党弾圧とイタリアのファシズム
- ヒトラーの共産党弾圧
- イタリアのファシズム
- ①【正】イタリアは経済基盤が脆弱なため恐慌により行き詰り、ドイツの再軍備に対する35年4月のストレーザ線も崩壊したので、エチオピアに侵攻した。国際連盟は経済制裁を実行したが効果はなく威信は損なわれた。
- ②【誤】九カ国条約は第一次世界大戦後のワシントン体制における中国での日本封じ込め。1917年のアメリカ参戦後に日米間で結ばれた石井・ランシング協定(日本の二十一カ条要求の承認)は失効。日本は二十一カ条要求で得た山東半島の旧ドイツ権益を中国に返還することとなった。
- ③・④【誤】イタリアがリビアを併合したのは青年トルコ革命の時。イタリア=トルコ戦争でイタリアがトリポリ・キレナイカ(現リビア)を併合した。
問3【25】歴史事象の複数解釈
オーウェルは、ヒトラーやムッソリーニの政権と同様に、同じ時期の日本の政権をファシズム体制とみなしていた。©世界史の教科書には、これと同様の見方をするものと、日本の戦時体制とファシズムとを区別する立場から書かれているものとがある。どちらの見方にも、相応の根拠があると考えられる。
問.下線部©について議論する場合、異なる見方あ・いと、それぞれの根拠として最も適当な文W~Zとの組み合わせとして正しいものを選べ。
- 【異なる見方】
- 【日本の戦時体制はファシズムか否かの根拠】
以上により、【あ】の根拠は【W】、【い】の根拠は【Y】であり、組み合わせ【① あ-W,い-Y】が正解となる。
B 絵画と映画で歴史を読み解く授業
問4【26】人物史・イヴァン4世(空欄補充をした上での正文判定)
- 空欄補充
- 正文判定
- ①【誤】ステンカ=ラージンの乱は1670~71。ロマノフ朝時代の出来事。
- ②【誤】ロシアでギリシア正教が国教となったのはキエフ公国のウラディミル1世(位980?~1015)時代。
- ③【誤】バトゥにワールシュタットの戦いで敗れた後、ロシアはキプチャク=ハン国に服属した(タタールの軛)が、イヴァン3世時代に独立した。
- ④【正】イヴァン4世はコサックを利用し、その首領イェルマークはシベリアに遠征した。コサックはロシアの圧政を逃れ、南ロシア辺境に住み着いた農民など。狩猟・漁業・牧畜などを生業とし、略奪を行う。ステンカ=ラージンやプガチョフなどがロシアの圧政に抵抗する一方で、イェルマークなど体制側に使役されることもあった。
問5【27】世界史上の税制(人物の空欄補充をした上で、その人物の税政に関する正誤判定を行い、さらに全く別の地域の税制に関する正文判定を行う)
人物の空欄補充とその税政までは理解できるが、他地域の税制は完全に脈絡が無い。「税制の歴史」という枠組みで無理やり結びつけている感がある。
- 空欄補充
- 「明を建国した彼(【イ】)」
- 中学でも習う有名な語呂合わせのフレーズ「勇むや明の朱元璋」。
- 「明を建国した彼(【イ】)」
- 朱元璋(洪武帝)が行った税制
- 税制の歴史
- X【誤】農民に土地保有権を与え、政府が直接徴税するのはライヤットワーリー制。ザミンダーリー制は地主・領主に土地所有権を与えて農民から地税を徴収させてそれを納税させる。
- Y【正】共和制ローマの属州支配。ローマは属州を獲得し直轄支配を行うが、属州に赴任する総督・騎士身分の徴税請負人が属州で収奪を行い、巨利を得た。土地を購入し、戦争捕虜による奴隷を大量に使役してラティフンディウムを経営。オリーブ、ぶどう、小麦などの商品作物を栽培した。
- Z【誤】七年戦争後イギリス重商主義帝国が成立すると「有益なる怠慢」から転換し徴税を強化した。印紙法に対して植民地側は「代表なくして課税なし」と抵抗したため、本国イギリスは撤回せざるを得なくなった。
第5問 世界史上の墓や廟について
A 中世フランス史
問1【29】カール大帝とその業績(空欄補充をした上での正文判定)
問2【30】カペー朝の国王(空欄補充で【イ】を埋め、文章読解で地図の墓の位置【ウ】を当てる)
B 写真を題材にした授業(関羽)
問4【32】中国人の移民
問5【33】地図(空欄補充した上で該当する地域を選ぶ)
問6【34】中国経済史
- 空欄補充
- 「彼ら(山西商人)が全国的な商業活動を展開した【オ】の時代から【カ】〔……〕」
- 【オ】→山西商人が全国的な商業活を展開したのは明代。「山西商人・徽州(新安)商人は政府と結びついて北方の軍事地帯での物資調達を担当して巨富を積み、その資本をもって東南沿岸の大都市で金融業などを営んでさらに富を増やした」(『詳説世界史研究』2017年、229頁)
- 【カ】→明代では会館・公所が設けられた。「商人の全国的な活動が盛んになるにつれて、大きな都市では、同郷出身者の互助や親睦をはかるため、会館や公所とよばれる集会所がつくられた。同郷の者は同じ業種に従事することが多かったため、これらの建物は同業者のクラブともなった」(『詳説世界史研究』2017年、229頁)
- 【カ】の外れ選択肢である「黄河と大運河が交わる地点に都が置かれ、商業の中心となった」の「都」は恐らく「開封」。隋の煬帝が建設した大運河の拠点の一つであり、五代(後唐を除く)の都となった。北宋でも開封が都となり、その繁栄の様子は「清明上河図」とかで頻繁に受験で出題される。
- 「彼ら(山西商人)が全国的な商業活動を展開した【オ】の時代から【カ】〔……〕」
【参考】これまでの「世界史B」解説