【巡検】中標津町郷土館

役場近くの丸山公園内に佇む小さな資料館。入口に名簿が置いてあるのみで、見学者は勝手に入室して好きなように見るというスタイル。展示室には暖房がついてなくてとても寒い。資料の温湿度管理などが気になる所。

郷土館外観・町指定文化財
  • 展示室概観
    • 展示室は2つに分かれている。左側の部屋は大型実物展示が中心で、剥き出しの民具がそのまま陳列されている。壁面一体には中標津の地図が時系列純に貼ってあり、年代ごとに開拓が進んでいく様子を示している。
    • 右側の部屋は壁面がガラスケースになっており、左の壁面から考古→開拓農具→飲食店特集→北海道農事試験場根室支場→民具1→戦争→民具2と周回させる導線になっている。中央部には展示ケースがあり、標津線関連の鉄道資料や中標津高校が甲子園に行った際の記念品などが展示されている。
    • 展示は時系列順になっているわけでもなく、体系的な分類がなされているわけでもなく、キャプションも少ないので、何がコンセプトなのかイマイチ良く分からなかった。鉄道資料はもっと解説が欲しかった。標津線がなぜ敷設され、どのような意義があり、どうして衰退したのかを説明するキャプションがあればウケそうなものだがと思った。またキャプションは紙をラミネート加工したものなのだが、蛍光灯に反射して読みにくいことしきり。

  • 北海道農事試験場根室支場
    • 展示の中で比較的解説が豊富だったのが、北海道農事試験場根室支場の展示。「今も残る昭和初期の開拓景観」とタイトルがつけられているコーナーである。北海道農事試験場根室支場の建設を契機に中標津の市街地形成が進むのであるが、この施設が設置された背景が丁寧に解説されていた。
    • 昭和2年に第二期拓殖計画が樹立されて釧路川以東の大原野の拓殖計画が進められることになり、新たな農業試験場を開設することになった。この場長として白羽の矢が立ったのだが松野傳であった。試験場の開設地については武佐地域、開陽地域が誘致合戦を展開したが、松野氏は場内の電化を目指しており、自家発電ができる小川のほとりにありレアクション・タービンを設置できる場所として中標津二十四線を選んだ。
    • 松野氏は移民を安心させるためと称し、原野の中に鉄筋コンクリートの近代的庁舎を建設。これにより「第二の帯広」との二つ名を得て、中標津への移住者を引き付けるプル要因となり、中標津の市街地形成が進んでいった。

  • 中標津町通史
    • 北海道農事試験場根室支場が中標津市街地の形成を促したことは理解できたが、それ以外の中標津の歴史は分からなかったので、図書館へ飛んだ。中標津町図書館は「しるべっと」という文化会館の中に入っている。町史を読んだが、大体の流れは以下の通りである(と、いうか自治体の歴史の概観を掴むには、小学校社会科の副読本が馬鹿にならないと近々感じるようになった。)
    • 中標津村はもともと標津村に抱合されており、戦後に分離独立した。北海道は沿岸部への進出は近世より進んでいたが内陸奥地の開発は進まなかった。標津村も同様であり、中標津原野に入植したのは明治も44年になってから、乾定太郎を団長とする集団移民からであった。内陸の開発にはインフラ整備が不可欠であり、大正14年には厚床中標津間の殖民軌道ができた。昭和2年には第二期拓殖計画の樹立により北海道農事試験場根室支場が設置され中標津の市街地形成が進んでいく。だが昭和6年・7年に大凶作が発生し道東における農業経営は厳しいことが痛感され、酪農への転換が進んでいく。昭和9年には標津線の一部が開通、昭和12年には全線が開通し、内陸部への進出がさらに促された。標津村において内陸部は蔑視されることも多かったので、中標津の人々は分村の動きを生じさせたが戦争により鎮静化。戦後の昭和21年になってから、中標津村が誕生することとなった。
考古・農具
飲食店・第二期拓殖計画と根釧原野の開発
民具・戦争
民具2・標津線
大型実物展示