【巡検】鶴居村ふるさと情報館

中の人の専門は教育学(教科教育)と歴史学(近現代史)であり、普段は教育や歴史に関する業務に従事したりなんだりしている(メディア文藝と観光学も少しやる)。

近年は社会教育や博学連携を担うことが多いので、末端自治体における郷土資料館の整備と活用の研究を少しずつ進めていかねばと、思ってはいる。グローバルヒストリーではないけれど、自分たちが住む地域の歴史が日本史の中でどのように位置づけられるか、世界史の大きな流れによりどのように規定されているかを考え(させ)ることは、子どもたちや地域住民にとって意義のあることである。末端自治体には地域の郷土資料館があるが、その施設こそが町や村がどのように形成されて来たかを示す役割を担っている。そのため出来得る限り末端自治体の郷土資料施設を訪れてサンプルを取り、各自治体の学芸員がどのような取り組みをしているかを分析する必要を感じている。

前置きはともかくとして、今回は北海道釧路管内鶴居村に行ってきたので備忘録程度だがメモしておく。

ふるさと情報館の中に常設展示のホールが設置されている
  • 導線
    • 鶴居村の郷土資料施設はふるさと情報館の内部に設置されており、入口正面右側が展示ホールで左側が図書館になっている。中央には酪農のジオラマがあり、導線的には壁面を左回りに①歴史(入植→畑作と林業→馬産→酪農)、②牛(家畜)、③丹頂(鶴)と回る流れである。その他、突き出した小部屋に考古の展示、柱の展示に簡易軌道に関するパネルがある。このパネルは釧路市立博物館の企画展で使用されたものが流用されている。導線は理解してしまえばその通りに回れるが、子どもだったらまず中央の酪農のジオラマに飛びつくだろうし、私は何か鶴が見たかったので最初にそちらの方に行ってしまい結果的に導線を逆回りしていることに途中で気付いた。やはり導線の明確化は必要だと思われる。

  • 初期の移住者は和人ではなくアイヌ
    • 印象的だったのは、初期移住について。最初に集団で鶴居村にやってきたのが和人ではなくアイヌの人々だったということ。明治18年に27戸のアイヌの人々が釧路村茂尻矢から下雪裡に移住してきたとのこと。ここで疑問となるのが、鶴居村にはチャシを含む72か所の遺跡があるのに、そこにいた人間はどこへ行ってしまったのかということ。また釧路村茂尻矢から移動することになったプッシュ要因は何なのかということ。また下雪裡に移住したアイヌの人々は現在どうなったのか。色々と疑問を抱かせる内容であった。

  • 開墾と林業
    • 続いて林業との関係性。鶴居村では和人の入植の契機を明治29年の「北海道地形図」と翌年の「北海道国有地未開地処分法」としている。入植者たちは開拓を行い畑作を試みたが作物は上手く実らず、結局は山稼ぎをしなければ生活が出来なかった。また開墾の際にも、切り倒した木を集めて焼き払う苦労があったため、例え低価格でも立ち木を売って現金収入を得た方が良く、造材に従事しなければならなかった。開拓は林業とセットだった。

  • 家畜の導入
    • 「混同農業」と家畜について。根室県は鶴居村について農業だけでは経営が成り立たないので、牧畜を加えた「混同農業」が適切だと考え、明治18年から移住者1戸に1頭ずつ馬を与えて開墾に当たらせていたのだという。明治41年に「未開地処分法」が改正され、一般入植者でも土地を貰うことができるようになった際、「混同農業」で経営することが条件とされていたとのこと。こうして鶴居で牛馬が広まっていった上、釧路地方は明治30年代後半から40年代にかけて馬産地となっていく。その背景には明治34年に白糠に「軍馬補充部釧路支部」が開設されたことや明治44年に大楽毛家畜市場が開設されたこと等がある。そして、昭和初期の大冷害で畑作が大打撃を受けると適地適作と有畜農業が学ばれ、馬産が盛んになっていった。昭和になると軍馬の改良が進み「日本釧路種」、「奏上釧路種」などの改良新種馬が生み出され、日中戦争の勃発による軍馬需要もあり、生産者が潤うようになっていく。

  • 馬産から酪農への転換
    • 昭和6年からの凶作が根釧台地では畑作だと経営が成り立たないことを知らしめたのは上記の通りである。これにより鶴居・幌呂の両産業組合は乳牛の導入に踏み切る。元々大正期に入植した茂雪裡の秋里廣衛や茂幌呂の松井貞樹により乳牛の飼育が始まっており酪農経営の礎となった。一方、盛んだった馬産は自動車やトラクターの普及により昭和30年代後半から衰退していった。戦後、酪農は昭和29年の「酪農振興法」公布や、31年に釧路管内全域が「集約酪農地域」に指定されたことにより機械化された酪農業が進展していった。
壁面に解説パネル、その前に開拓農具が展示されている。
鶴居村名物「簡易軌道」