【巡検】別海町郷土資料施設(鉄道記念館・郷土資料館・加賀家文書館)

標津線根釧原野の開発・戦後パイロットファームを学ぶために訪問した雑感メモ。
鉄道記念館は標津線根釧原野の開発に与えた影響を学ぶことができる。
郷土資料館は考古・自然・生活・農業・水産・北方の第1展示室と写真中心の第2展示室がある。
加賀家とは商い場に仕えた一族で特に伝蔵がアイヌ理解に長じ多くの文書を残した。

鉄道記念館

標津線根釧原野開拓に果たした役割

西春別にあり廃線となった標津線の記録を展示している施設。館内はとても寒い。標津線標茶から東進する路線と厚床から北進する路線が中標津で交わり根室標津に至るという路線である。一番印象的だったのは標津線は開拓路線なので黒字になるわけがないという説明。広大な根釧原野だが寒冷な気候により稲作にも畑作にも不向きであり、さらに農作物を作ってもインフラ未整備で販路が無いという状況だった。そのため人々を内陸部に根付かせるためには鉄道が必要だったのである。標津線敷設の際に労働力となったのは、昭和恐慌の大凶作(昭和4年~7年)で打撃を受けた開拓者たちであり、土工として働いたのであった。また戦後の別海ではパイロットファーム事業が行われるのだが、西別-中春別間の東側に床舟第一地区、西側に床舟第二地区が形成され入植が進み「酪農のまち別海」になっていった。また館内のビデオコーナーでは「緑の大地に夢見た鉄路~思い出の標津線~」として廃線となる時に作られた映像資料を見ることができる。

郷土資料館

殖民軌道や簡易軌道の写真がある

第1展示室はオーソドックスな展示で考古・自然・生活・林業・農業・水産・北方だが導線が1周するようにはなっておらず、番号順にみると行ったり来たりするような配置になっているのでちょっと分かりにくいかもしれない。入ってすぐに町内の地域地図があり、かつては地名のスイッチを押すと電灯がついたのだろうが今は壊れている。剥製がわりと充実しているのが印象的。動物がいっぱいいる。第1展示室の入口にはジオラマとパネルで農業と林業が解説されている。今回は根釧原野で酪農が行われるようになった背景を学びにきたので、これが目的とも言える。
 

当初は賃金を得やすい漁業が中心であったが内陸部への入植を進める

根釧台地の農業を概略すると以下の通り。開拓使の政策により開墾が始まるも根付かず漁業などの賃金労働者へ流れてしまった後、明治31~32年に殖民地区画が解放され農耕従事者が定住。第1期拓計(明治43)、第2期拓計(昭和2)により原野への団体移住が進んでいった。だが寒冷な気候は厳しく昭和4~7年は大凶作となり、現地を視察した佐上真一道庁長官は昭和8年1月に「根釧原野農業開発五カ年計画」を策定し、酪農へと進んでいくことになる。戦時下では農業は疲弊するも、戦後は戦災者や引揚者の入植先となる。だが昭和28~29年にはまたもや例外。政府は酪農の振興と安定のため、昭和29年に酪農振興法、翌昭和30年には根釧パイロットファームの建設が実施される。パイロットファームは世界銀行の融資を受けることとなり、昭和31年には床舟第2地区、続いて床舟第1地区で計画的に進められた。昭和36年には農業基本法により農業構造改善事業が進められ、昭和40年には乳牛2万頭を達成、全道一の乳牛多頭数飼育優良村として表彰される。昭和45年には第二次農業構造改善事業が実施され、昭和48年には新酪農村建設事業が発足。昭和53年には北海道により自給飼料特別対策事業が発足し、大型近代酪農群が次々と誕生した。

加賀家文書館

場所請負商人のもとで活躍した加賀家

郷土資料館の隣にあったので、加賀家って誰やねんって感じなノリで訪問。加賀家は文字通り石川出身の人物で北前船交易を背景に蝦夷地に渡り、場所請負人のもとで働いて来た一族。蝦夷地や商場、先住民族に関して豊富な知識を持ち、活躍した。徳兵衛・鉄蔵・伝蔵・常蔵・恒吉と代々蝦夷地に渡ったが、3代目の伝蔵が多くの文書の記録を残し、その資料を中心に展示しているのが、この加賀家文書館であるそうな。場所請負制度の実情や近世江戸期の蝦夷地開発などが良く分かる。特に先住民との関わりの中で、その言語にも通じており先住民の言語を和訳したり、和語を先住民族の言語に訳したりするなど通辞として活躍していたこと当時の風習が伝わってくる。また伝蔵は松浦武四郎とも親交があり、鮭の筋子を送るよう懇願している書簡などが残っている。