いかにして摩周湖・屈斜路湖は阿寒湖と共に国立公園になりしか

2024年、国立公園指定90周年を迎える阿寒国立公園。当初は阿寒湖だけが国立公園に目されていたが、屈斜路湖摩周湖も同時に阿寒国立公園に内包されることとなった。日本における国立公園の歴史は、大正9年(1920)に田村剛が内務省衛生局の嘱託となり、翌年から調査を開始したことに始まる。結論をあらかじめ述べれば、釧路管内をあげて国立公園調査会委員を大々的な招待旅行に誘致し成功を収めたことが、屈斜路湖摩周湖が阿寒湖と共に国立公園に指定された要因である。昭和初期に国立公園指定運動は大きな盛り上がりを見せるが、釧路管内は一丸となって、阿寒湖だけでなく屈斜路湖摩周湖を加えるように働きかけ、その一環として国立公園調査会委員の招待旅行を実施したのであった。

ここでは国立公園指定50周年記念として釧路観光連盟から出版された書籍の引用を抜き出しておくこととする。

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国立公園の祖・田村博士が公園行政を専攻した背景

「〔……〕木を伐ることと運び出すという仕事が、博士の性格になじまなかったのである。迷った博士は師の本多静六氏に教えを乞うた。本多氏は釧路市とも縁が深く、大正5年当時の釧路町の依頼を受けて、壮大なプラン春採公園基本計画を樹立されたその道の泰斗である。本多氏の教えは、木を伐ることだけではなく、森林をそのまま利用する風景致についての研究をすすめられた。これが博士のそして日本の自然公園への道の第一歩となったのである。」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、16頁)

「阿寒」が国立公園の候補地となったきっかけ

「博士が国立公園に手を染めた大正9年、当時博士の足跡は十和田湖までであって、北海道は全く未知の世界だった。恩師本多博士のすすめる登別温泉大沼公園を候補地としたものの、道東は依然空白のままだった。そんな或る日、新島善直博士が上京され同期の本多宅を訪れた。新島博士は造林学と森林保護学研究のため3回も外遊され、当時の林学としては珍しい森林美学の講義も取り入れたその道の泰斗で、明治45年から22年間にわたって野幌林業試験場長をされた実務家でもある。本多博士は早速愛弟子の田村博士を呼び寄せて紹介した。その席上の質問から阿寒湖の名が登場した。阿寒湖が世に出、やがて輝かしい国立公園の座を占める第一歩は、森林美をこよなく愛する三人の林学者の出逢いによって踏み出されたのである。〔……〕阿寒湖を候補地に採用したのは田村博士、それを推薦したのは新島博士、従って阿寒を世に出したのは、新島善直北大教授ということができる。」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、47-48頁)

釧路保勝会の創立 ~屈斜路湖摩周湖編入を目指して~

「当地方の観光団体の創立は、昭和2年10月21日に発足した釧路保勝会が初見である。〔……〕設立は守屋癸清釧路国支庁長と永山在兼釧路土木事務所長との協議によって生れ、その目的は国立公園の候補地が阿寒湖を中心とした小範囲のものから、屈斜路湖摩周湖を含めた真の大公園指定に発展させようとすることにそのねらいがあった。両地区の編入については大正10年12月道議会で建議案が提出採択され、これが効を奏して大正12年内務省中越延豊技手の調査実施の運びとなっている〔……〕」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、52-53頁)

近藤直人釧路営林区署長の登場

「近藤が〔……〕釧路営林区署長として、再び釧路に着任したのは昭和3年10月1日のことだった。12年ぶりの釧路勤務である〔……〕近藤が、なぜ阿寒国立公園の指定実現に執念を燃やしたのか興味深い。このことについてはアイデアマン近藤の面目躍如とした手記が残っている。「〔……〕本道でもっとも開発の遅れているのは釧根原野で、どうすればすみやかに開発ができるかを考えた結果、中央から要路の人を呼んで現地をみてもらうに限るということだった。それには釧路には他地方に見ることのできない風光明媚の阿寒、摩周湖、それに硫黄山の風景などがあるので、これを内外に宣伝して大いに観光客を誘致し、そのついでに未開発の釧根原野を親しく視察してもらえば、釧根両国も大いに開発されると考えていた。ところが、その後国立公園指定の話が起り、このさい、ぜひ指定してもらえるよう運動することとなり、地元の方も国立公園指定期成会を設立して内務省に運動し、ついに多くの困難を突破し、国立公園に指定されるにいたったので、実に思い出多い。」〔……〕」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、174-175頁)

昭和6年国立公園指定運動

「〔……〕国立公園法審議を期に釧路地方の指定運動が爆発的な盛り上がりをみせた〔……〕。昭和6年1月阿寒湖部落総会で国立公園指定のための運動を決議し、2月には釧路市議会議員連署の国立公園実現促進の議会請願を実施、3月には釧路商工会議所も陳情書を提出している。同じく3月には阿寒湖周辺だけではなく、雌阿寒岳屈斜路湖摩周湖も国立公園にしてほしい旨請願し、衆議員請願委員会で採択されるが、これは〔……〕特筆すべき行動で、国立公園調査委員会を招待し、阿寒湖はもとより屈斜路湖摩周湖も見てもらうべきであるという機運にまで発展している。国立公園調査会委員の招待は、地元の盛り上がりからではあるが、演出は道の拓殖部長関谷延之助(大正15年から昭和6年12月まで在任)らの労によるところ大と考えられる」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、55頁)

阿寒国立公園期成同盟会の成立

「〔……〕6月7日付(※昭和6年-引用者)の釧路新聞で北海道の三国立公園候補地が、すべて落選かと報道され、続いて2日後に阿寒は第二次指定、大沼と登別はその後の指定、その打開策として調査委員40名を招待し実地視察を、との記事が出た。その対応は実に早かった。6月12日釧路国支庁会議室で早速会議が持たれた。メンバーは吉村釧路国支庁長、佐藤釧路市長ほか支庁管内各町村長、土木、営林、鉄道、報道関係者等約50名。道庁からは一条・三国の2氏が出席し、吉村支庁長の動議によって事情にくわしい一条属が座長となり会を進行している。〔……〕遠藤釧路新聞社長からは招待を実施し国立公園の指定を不動のものとするために、保勝会とは別に阿寒国立公園期成同盟会を設け、一丸となってこれに当たるべしとの動機が出され、満場一致で可決された。〔……〕期成同盟会の会則〔……〕第2条で、「本会は釧路国阿寒郡雄阿寒雌阿寒両山岳地帯並に川上郡屈斜路湖摩周湖付近を抱擁する地帯を国立公園に指定の実現を図るを以て目的とす。」とあり、当時国立公園調査会が阿寒湖を中心とした小範囲な国立公園対象としていたものを、総力をあげて摩周湖屈斜路湖を含めた現在の大阿寒国立公園実現達成を悲願としたもので、これが管内全市町村を結束させた要因となった〔……〕」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、177-178頁)

田村剛博士の来弟

「〔……〕国立公園調査委員会の招待を前に、釧路管内有志一同を憂慮させる事態が生じた。それは国立公園指定の中心人物田村剛博士の来訪が困難視されてきたことである〔……〕地元としては摩周湖屈斜路湖をぜひ国立公園域としたいし、阿寒湖単独では国立公園にパスするかどうか不安である。何とか博士を招致したいと運動した。そのかいあって博士の来訪が実現する〔……〕6月26日札幌からの夜行列車で釧路駅に到着した博士は、駅長室で少憩の後午前10時5分発の列車で弟子屈に向った。随行は道庁からの桑名技師、直別駅まで出向えた近藤釧路営林区署長、釧路からは吉村釧路国支庁、佐藤釧路市長、阿部運輸事務所長が同行するという豪華メンバーで、北海タイムス吉島記者(後に阿寒湖荘を経営)等の記者団も参加、地元の写真家前原好雄が自作の写真で概況説明し、田村博士は携行の5万分の1地図で真剣に勉強するという一幕もあった。一行は弟子屈から4台の自動車に分乗して摩周湖・硫黄山・川湯・屈斜路湖を視察して鐺別温泉に宿泊しているが、天候は曇天ながら摩周湖は見え、途中道路を修復している土工夫の姿が見かけられたが、これは田村博士の好印象を期待しての釧路土木事務所の配慮だったのであろうか。翌27日博士一行は、永山在兼釧路土木事務所長が生涯をかけて拓いた阿寒横断道路を経て阿寒湖滝口に達した。」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、57-58頁)

国立公園調査委員会の来弟

「本隊は佐藤釧路市長が札幌まで出迎え、吉村支庁長等が厚内まで先行して接待にあたり、昭和6年7月16日午前9時33分釧路駅に到着、直ちに釧網線で川湯に向っている。この中に近藤が案内役として同行した〔……〕。調査会委員一行のコースは、本命となっている阿寒湖を後廻しとし、地元が悲願の弟子屈町景勝地巡視を先にして、第一印象をよくしようという苦心の作戦だった。札幌まで出迎えた佐藤釧路市長や、厚内から同行した吉村支庁長・近藤署長はそのまま案内役となり、釧網線で川湯に下車、十数台の自動車を連らねてエゾイソツツジの咲く硫黄山を見物、川湯を経て仁伏から4隻の船に分乗して屈斜路湖を周遊、和琴から再び自動車で摩周湖を探勝し弟子屈温泉で第一夜をすごしている。幸い天候に恵まれ、摩周湖では日本一との声があがった。〔……〕印象はまことに好評で、一条公爵はこれほどの観光資源がPR不足であったことは地元も道庁も怠慢であったと言い、本多博士は再遊を希望し、新井観光局長と森本事業課長は、口をそろえて摩周湖を激賞。まずはこの招待作戦見事に成功し、その後の国立公園候補地の選定にあたり、阿寒は常に優位を占め、摩周湖屈斜路湖編入も不動のものになったのである。」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、179-182頁)

戦後デカンショ観光からの脱却 阿寒横断道路の除雪

「〔……〕横断道路の除雪は昭和46年のテスト除雪後、昭和47年度から本格的に除雪開始が行われ、48年11月から阿寒パノラマコース(阿寒湖~摩周湖~美幌峠~美幌間)の定期観光バスが運転されるようになり、阿寒観光創設以来の悲願である通年観光の夢がついに現実のものとなった。」(『阿寒国立公園の三恩人』釧路観光連盟、1984、152-153頁)