【感想】藤子・F・不二雄SF短編作品「定年退食」

社会福祉の限界により老齢者に対する国家保障が打ち切られ、若者の為に死ねと言われる話。
当時は手厚く社会保障を受ける老齢者の勝ち逃げに対するアイロニーだったのかもしれない。
(機械鳥の故障を直せない老人に新しいのを買うしかないと言わせることで姥捨てを正当化させている)
だが2023年現在になって読むと割と本当に現実味を帯びている主題であり恐怖すら覚える。
年金や医療保険など"現在"の高齢者の福祉を維持するためであり自分たちの世代が保障を受けられるわけではない。
そのために出来る自己防衛は節制くらいしかないが、焼け石に水と気づいているのである。
私たちは勝ち逃げした老齢者を羨みながら若者の為に道を譲って死ぬことを受け入れねばならない。

私たちが生産年齢人口の時には社会保障のために搾取され、いざ老年人口になったら社会保障が受けられず死ねという現実

社会福祉の限界により老年人口を切り捨てることになった日本
  • 若き時はお年寄りに尽くし、老いた時には若者に道を譲る
    • ストーリーの最初は豊かに老成したおじいさんが健康で長生きするために節食や運動をしているような出だしで始まる。だが実はそうではなく、社会全体の配分が少なくなり社会保障が維持できなくなった世界を描いていた。この作品が描かれた当時は、社会保障が重い負担になり若者が搾取される状況に対しての皮肉として読まれたのかもしれない。だが2023年現在になってこの作品を読むと、お前たちが老年人口になったとしても将来社会保障なんてまともに受けられるわけねーだろという絶望を突きつけているのである。
    • 将来年金制度や医療保険介護保険が破綻することは確定的明らか。だがこれを改善しようとしたとしてもシルバー民主主義により票田を失ってしまうため、どうすることも出来ずにただ手をこまねいているだけ。そうこうするうちに現在の老年人口に人々は勝ち逃げしていく。そして現在の生産年齢人口の人々が将来老年人口になった時には完全に崩壊する。問題が現実化してからようやく動き出すのが社会というものであり、これまで老年人口の社会福祉のために搾取されてきた人々が、今度は真っ先に槍玉にあげられるのである。
    • 作品の中では、当初は社会保障を受けられる定年制に一定数が割り当てられており、自分がその枠内に入りたいと色々と気を巡らせるのであるが、最終的に制度が突如変更されどう足掻いても社会保障を受けられなくなる。そんな現実に対して、今まで少しでも生き延びるために小賢しく立ち回ろうとしていた主人公の老人が「わしらの席は、もうどこにもないさ。」と全てを受け入れて終わる。
機械鳥の故障により姥捨ての正当化をする
教育テレビの歌がもう既に思想教育
新しいのを買うという表現
席を譲ると言う事
国家による切り捨てを受け入れるジジイ