『ナギサの』プレイ中

現在『ナギサの』をプレイしており、正ヒロインである夏生を攻略したところです。

・・・
鬱るんです。
・・・

まぁ、話のおおまかな筋はこんな感じなんだ。良くある進学校で勉強漬けになっている主人公が田舎で生き生きとした体験を送ることで、自分が何のために勉強していたのかわかんなくなっちゃうんだ。今まで自分を証明できるものが勉強しかなくて、その勉強にもついていくのが精一杯で。それで学校を休学してヒロインと時を過ごす中で「自分が勉強をする理由」を見つけていく。その「理由」っていうのがヒロインの存在なわけで、そう考えるとH2Oと同じ匂いがしますね。結局は愛するオンナという存在のために現実世界を頑張れると。
徳田秋声『新所帯』(オンナが精神的支えになるという考えを一挙に破壊してくれる作品。家庭生活の幻滅を描いた。)


・・・
で、大学の長期休暇で暇を持て余していると自分のことを考えざるを得ないわけですよ。それは『つよきす』のフカヒレの如く。
cf.http://allenter.jpn.org/log/ero/fukafire.html

帰宅部のベスト・ウォーリーは私の中にある!!
モラトリアムの神様が来たッ
「俺はこのままでいいのか?青春をダラダラ無駄にしていないか? いや、まだ本気出してないだけ。
 俺はやれば出来る子って言われてるんだからな うーん、でも真面目に自分の将来を考えるとハッキリ言って怖いぞ、
 とりあえずゲームでもして気を紛らわせよう!」!!!

高校時代、一応は進学校に入ったものの将来に対して考えを深めることが出来ず、周囲に流されるままに勉強していて。そして自分の価値を示すには当然「有名大学合格」ぐらいしかないわけですよ。そりゃもう勉強しましたけど、将来に特にやりたい勉強があったわけでもなかった。どんな大学で何を研究したいのだとかは全然念頭にすら無かった。どんな研究室があって、どんな教授がおり、どんな論文を書いているのか碌々調べもせず、ただ闇雲に焦っているだけだった。そんな態度では「有名大学」なんてものに受かるはずも無く。でもそんな自分の態度を認めることは自分が劣等生であることを認めるということ。自分の現実を受け入れたくなくて、全ては田舎の教育体制のせいにして、親に我侭言って上京までして浪人した。根本的な欠陥が自分にあるのだから、それを改善しない限りなんら解決することもなく。ここでも悲喜交々あったのだが、結果だけみれば別に浪人しなくとも現役の時にも受かったであろう地元底辺国立の教育学部で妥協してしまっていた。全てを諦めたということもできる。


確かに大学に入った当初は「底辺国立であろうが、そこで何をするかが大事」とかほざいていたものだ。自分がおこなった選択は「妥協」なのではなく、その限界を受け入れ「自分の能力に見合った」ことをやろうという新しい道なのだと。だがこの三流地方駅弁大学での生活の味気なさはどうだ!!きちんと自分に向き合わずお茶を濁してしまったことの弊害は大きい。何も考えることをしなかったため結局は根本的な解決はみられなかったというわけだ。そのため大学の気風(酒と大衆娯楽と性的快楽)に馴染むことなどできず、俺がやっていた行為などお笑い種だ。毎日毎日律儀に底辺国立の講義を聴き、鬱々とした表情で図書館に篭り、黴臭く日焼けした今にも崩れそうな本に鼻を突っ込み、ズボンのお尻をすり減らしている。振り返って考えてみれば、それが我が3年間だ。今更どうすることもできまい。おそらくこのまま流されるように教員採用試験を受け、見事に落っこち、それを「採用数が少ないからだ」とか「うちの大学は義務教育専門だから高校は受かりづらいんだ」とかなんとか言い訳をするに決っている。そして屑にしかならないような卒業論文を書き散らし、トコロテンのように押し流されて卒業を迎え、代用教員(大学のコネで誰でもなれる)で糊口をしのぐ・・・


ここでお約束の定型句である永井荷風の『ふらんす物語』が発動だ。

前途を考えるに当たっては、真面目に過去を顧みる煩いが生じる。
顧みるだけならよいが、解決の出来ない疑問が残る。
疑問は煩悶だ。
煩悶を避けるにはぶらぶら無意義にやっていくのが一番だ。
ぶらぶらやって行くには、毎日毎日大使館を退出後、物を食って寝るまでの時間をどうしてぶらぶらやって行くべきか、その方法を考えなければならない。
これだけはどうしても免れがたい義務である。