雑録

ソルジェニーツィン著/木村浩・松永緑弥訳『煉獄のなかで』(タイムライフブックス)

スターリン支配下ソビエトロシアにおける特殊収容所を描いた作品。
ソルジェニーツィンの創作態度の特徴として「一定の主人公を生み出すものではない」とされているが、話は収容所の中であるネルジンと収容所の外であるヴォロジンを軸として進んでいく。特殊収容所は、一般の収容所とは違い、様々なスキル持ちを集めて技術の開発を推進させるところである。ネルジンたちは、盗聴した電話を解析するため声紋を調べる研究を行うことになる。原題の意味は聖人たちが収容されるという地獄の「第一圏にて」を意味しており、特殊収容所が他の収容所と比べて地獄であるにも関わらず待遇が良いことを暗示している。その「第一圏」でのネルジンたちの声紋の研究により、物語の冒頭で個人的縁故の為に秘密漏洩をした外交官のヴォロジンが罪に問われ囚人に堕ちて行く。収容所の中ではネルジン以外にも個性煌く囚人たちが独自の哲学を展開し、囚人の家族との関係も描き出していて読んでいて興奮する。ヴォロジン側では収容所とは別の原理で動いていくソビエトロシアとその平穏な日常があっけなく崩れ去る危うさを孕んだものであると示唆している。

われわれの生活が年ごとに均等に我々の記憶に残るわけのものではないことは古くからいわれているところである。人それぞれに自分をもっとも十分に発揮し、自分をもっとも深く感じ、自分にも他人にも一番いい所を見せた特別の時期があるものである。そしてその後、はた目にはどんな重大な事件がその人に起ころうとも、それはもう下り坂の出来事でしかない。

訳者あとがき抜粋

ソルジェニーツィンはかつてあるインタビューに答えて次のように自己の創作態度について語ったことがある。


「わたしの一番心を惹きつけている文学作品の形式はポリフォニックなロマンです。そこには登場人物がなく、作品の中ではその章で物語りに『出会った』人物がもっとも重要な人物になるのです。そして、作品の中での事件の時代や場所は正確な特徴を備えているのです」


長編『煉獄のなかで』はまさにこのような彼の文学的主張を最もはっきり貫いた作品ということができる。この作品の主要なドラマは1949年12月末に、モスクワ及び近郊の特殊収容所で展開されている。全編を通じて誰が主人公であるかを決めることはむずかしい。彼の主張するように、「その章で物語りに『出会った』人物がもっとも重要な人物」なのである。強いてこの長編の主人公をあげるならば、それは「スターリン時代」ということではなかろうか。だが、それとても完全には正確ではない。ソルジェニーツィンは、スターリン時代の頂点だった1949年12月末の数日間を描きながらも、歴史的な展望にたって、革命後のソビエト国家の歩み全体を、大きく捉えているからである。そこにはソビエト社会に生きる人々の苦悩が、その内なる魂の叫びが、声なき声が、偉大な作家の温かい眼差しに見守られて、われわれの前にくり広げられている。