アダム・スミスと自己利益 アマルティア・セン『経済学の再生』麗澤大学出版会 2002年 41-48頁

1.慎慮と自己利益を同一視することは正確ではない
  • スミス:「共通の慎慮という原理が常に個人の振る舞いを支配するわけではないが、それは常に各階層内の多数の行動に影響を与えるものである」
  • スティグラー:「自己利益が大多数の人間を支配する」→慎慮=自己利益と解釈
  • 慎慮の徳は「理性と理解」と「自制」という二つの資質が統合されたもの
  • 自制の概念≠「自己利益」
2.ストア哲学と慎慮
  • ストア派によれば、人間は自分自身を切り離された存在ではなく世界の一市民として、自然という広大な共同体の一員としてみなす」べきで、「この大いなる共同体のために、いつの時も自らの小さな地益を犠牲にすることを少し厭わぬべき」
  • 慎慮は自己利益のはるか遠くをいくも
  • スミスによる慎慮の定義
    • 全ての徳の中で個人にとって最も役に立つもの
      • 人間愛、正義、寛大さ公の精神=他の人々に対して最も役立つ
3.スミスと自己利益
  • 自己利益とその達成に関して、いわゆる「スミス派」の立場をとる多くの経済学の著作において、スミスが「慎慮」に加えて「共感」を重視している点がなぜ見落とされる傾向にあるのか
  • スミスが、私たちの行動の多くは自己利益によって導かれ、それが実際に良い結果を招くと見ていたことは事実
    • 「我々が食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲からではなく、彼ら自身の利害関心からである。我々が呼びかけるのは、彼らの人類愛に対してではなく慈愛心に対してであり、我々が彼らに語るのは、我々自身の必要ではなく、彼らの利益についてである。」
4.自己利益(自己愛)だけで良い社会は出来ない
  • 上記の一節の趣旨;「市場での通常の取引はなぜ、どのように行われるのか、労働の分業はなぜ、どのように行われるのかを説明すること」
  • 「双方に有利な取引が一般的」≠「自己愛だけで良き社会ができる」
  • スミスは経験的豊かさの実現をただ一つの動機に頼ることはしない
5.スミスの批判
  • スミスは徳を慎慮のみで捉えようとしたエピクロス派を非難
  • すべてをある一つの徳にまとめようとする哲学者も非難
  • エピクロスは <様々な徳性のすべてをもまた、このひとつの種類の適宜性にまとめることによって> (すべての人にとって自然的であるが特に哲学者たちが特別な愛好をもって涵養しがちな)一つの性向を、<彼らの才能を表示するための大きな手段として>、溺愛したのであった。それはあらゆる現象を、できる限り少数の原理によって説明しようとする性向である」
6.逆説的なスミス解釈
  • 特別な愛好=自己利益 がスミスの特徴とされるようになった
  • ※センは、スミスは全く逆のことを言ったと解釈している
7.スミスの自己利益の位置づけ
  • 「自己愛」に対するスミスの態度はエッジワースに共通する
  • エッジワース(p.163)
    • 「経済的計算」を倫理的評価の対極にあるものとみなし、「戦争と契約」に通ずるものとする
    • この「契約」がスミスの「取引」に酷似(取引は双方に有利な契約によってなされるから)
  • スミスと自己利益
    • 経済の内外には単純な自己利益の追及だけでは説明しきれない多くの活動がある
    • スミスはその著作において自己利益の追求を他よりも上に位置するものとはしない
8.スミスの経済分析への誤解
  • 「飢饉と飢餓」の問題は、利潤動機とは間接的にしか関係していない
    • 飢餓の元凶として商人たちが実際に引き起こすことはなく、飢餓は「真の欠乏」から生じる。
  • スミスと公的支援
    • 取引を抑え込むことに反対であったが貧困層への公的支援には反対していない
    • マルサスと違って貧困救助法に反対していない
    • 制限的な規定が貧困層に及ぼす過酷さと逆効果を批判した
9.市場メカニズムを伴う経済プロセスから飢饉が生じる可能性
  • 労働の維持に当てられる基金が減少している国
    • (1)毎年において、使用人・労働者に対する需要は、前年よりも少ない
    • (2)上流階級は自身の階級では雇用を見つけられないので下層階級の業務を探す
    • (3)最下層の業務は上層の流入により供給過剰となっている
    • (4)雇用競争は激しくなり、賃金は最も惨めで乏しい水準まで引き下がる
    • (5)こうした状況でさえ雇用を見つけることが出来ず、乞食化・強盗化
    • (6)困窮・飢餓・死亡がすべての階級に及び、住民数は暴政と残存する収入・資本で扶養される程度まで減少
10.スミスと公共政策
  • 大英帝国政府は「飢饉不介入政策」を正当化する根拠としてスミスを引用する。
  • 公共政策に対するスミスの倫理的アプローチは貧困層のエンタイトルメント擁護のための介入を否定してはいない
  • スミスは取引を抑制することには反対した。
  • スミスは失業と低賃金を飢饉の原因とする見方に対しては、公共政策の必要性を示唆している。
10´スミスの公共政策(p55-56)
  • 人が十分な食料を得ることに失敗する要因
    • a.「得ること失敗」:失業や実質賃金の低下による所得の減少から起こる
    • b.「対応の失敗」;商人が需要を適切にすのではなく、買占めによって大きな利益が得られるように市場操作する
  • スミスの飢饉を防ぐ対策の真のメッセージ
    • 政府が何も行動しないのではなく、補充的な所得を生み出すことで、犠牲者の「エンタイトルメント」を生み出す
  • 短期的な救援方法
    • 救援キャンプへの直接支援には反対
    • 通常の労働と生活の場で現金を支給、市場での食糧供給を増やす
    • 純然たる援助よりも生産指向の政策を示唆
11.現代経済学の発展と経済学・倫理学の乖離
  • 動機と市場に対するスミスの複雑な見解が誤って解釈され、感情と行動に関する倫理的分析が看過される。
  • スミスは"お互いに有利な取引の本質と分業の価値の分析"において先駆的貢献をなした。
    • この指摘は、人としての善さと倫理を排除した人間の行動とまったく矛盾しない。
  • 経済と社会に関するスミスの思想(1.困窮に対する論考/2.共感の必要性/3.人間行動における倫理的思考の役割/4.行動規範の用いられ方)は経済学のなかで廃れる
12.現代経済学とスミス
  • 自己利益の根拠はアダム・スミスには見出せない。
  • 現代経済学においてスミス流の幅広い人間観を狭めてしまったことが、現代の経済理論の欠陥
  • 経済学の倫理学からの乖離は第三章で
13.経済学・倫理学の乖離と厚生経済学
  • 経済学・倫理学の乖離は、厚生経済学そのものの影響力と妥当性の弱まり→第二章のテーマ。