はじめに
一 植民地時代におけるアイデンティティ
1 植民地社会のイギリス化
- 北米植民地のヨーロッパ化
- 13植民地の「イギリス化」
- 生活様式・消費様式のイギリス化
- 消費社会の登場
- ①植民地市場のイギリス化 ②消費財の選択幅の急激な拡大 ③消費行動の標準化 →各植民地と本国は消費構造を通じてより強く結ばれる
- 新大陸の植民地を重要な構成要素とするイギリス第一帝国→「財の帝国」として緊密な紐帯を誇る
2 帰属意識の所在
- 客観的な整備(ヒト・モノ・カネの円滑な流れによる基盤の整備)→新大陸の英領植民地同士のつながりの強化,しかしアメリカ人意識を生み出したわけではない
- 意識のレベルでのアメリカ人としての一体感、アメリカ人意識が独立革命前にすでに成立していたのか?
- 1760年代半ばまで、北米植民地共通のアイデンティティの中でイギリス人意識の占める比重は大きい
- 帝国の統治構造の位相においてそれぞれの植民地は本国と直接に結び付いていた→アイデンティティは自らの植民地と自らが所属する国家(=「ヴァジニア人」にして「イギリス人」、「アメリカ人」でない)
- フレンチ・インディアン戦争→イギリス人意識を一層強める、イギリス帝国への大いなる貢献を自負→帝国の利害は植民地の利害
- 1763年パリ条約の後まで、13植民地人はイギリス人として本国との一体感→「最初の国民国家」を創り上げるにあたり、萌芽的ナショナリズムたるアメリカ人意識を利用することは困難→「想像の共同体」を人工的に創造する必要性
二 独立革命期におけるナショナル・アイデンティティの生成
1 イギリス人意識の消滅
- 独立革命
- なぜ独立を求めた植民地の数は13だったのか?(cf.1760年代の新大陸における英領植民地30〜40)
- 13植民地とイギリス人意識
- 革命前夜には社会のイギリス化→どうして独立へむかわなければならなかったのか?→「有益なる怠慢」の終焉
- 七年戦争後「有益なる怠慢」の転換、1765年印紙法(植民地全体に網をかける)→ 政府の「陰謀」が広く認識
- 植民地人、方針転換を理解できず、自らの衒示的消費(消費行動のイギリス化を示す)の自制論→「有益なる怠慢」の復帰を求める
- 「有益なる怠慢」こそ植民地人のイギリス人意識の前提、帝国への高い寄与度を自負するエリート層の自尊心を根底で保障
- 本国政府、植民地に完全従属を求める→双方の意識のギャップ→植民地人のイギリス人意識が急速に消え去る
- アメリカ人としてでなく、イギリス人としての共通の権利を主張した植民地人にとって革命の選択はイギリス化の頂点
- アメリカとはイギリスが生み出した悪夢―双方の誰もが望まなかった副産物―だった
- 革命前夜には社会のイギリス化→どうして独立へむかわなければならなかったのか?→「有益なる怠慢」の終焉
2 活字メディアと国民化の儀礼
- 活字メディアが伝達した具体的な行為
- 国民統合の直接の要因
- イギリスの軍事的脅威に対抗する必要性→多様な人々をまとめあげた直接の要因
- イギリス軍の圧力なしには統合は不可能
- 当時のナショナル・アイデンティティとは「予期されなかった即席の人工物」で革命が生成した「弱々しい存在」に過ぎず、その確立は将来に委ねられた
三 建国機から1830年代までのナショナル・アイデンティティの展開
1 統合の枠組み
- 統合の為の新たな枠組みの必要性(←結合の結節点たるイギリス本国からの離脱、共和政の選択、軍事的脅威の消滅)
- 憲法において明確に定められた共和政体は、政治的枠組みとしてどのように統合を保障しうると考えられたか
- 広大な領土を支配する「新共和国」の存続の困難さ →「有徳の市民」が私益ではなく公益を優先させることでシステムの暴走を妨げる
- ヨーロッパの旧い君主制に対するアメリカの新しい共和政→劣等感の裏返しの優越感の表出→ナショナル・アイデンティティの拠り所に
- 君主のいない共和政国家=国家という抽象的な存在それ自体に対して、直接に人々を結び付ける必要性 ⇔君主制国家=君主という可視的な「身体」に対する忠誠心をその君主の体現する国家への統合の手段とする
- 共和国には「想像の共同体」の形成のために、具体的なイメージや可視的シンボルが不可欠→「国民化」を推進するための装置の形成(独立革命の一連の指導者、文書、日付が建国神話となる)
- とりわけ特徴的なのが、独立宣言、独立記念日、ジョージ・ワシントン、国旗
2 祝祭・英雄・シンボル
- 祝祭
- 英雄 ジョージ・ワシントン=「人型」をした重要なシンボル
- 連邦派:ワシントンの立ち居振る舞いや敬称、コインの意匠にまで思索し、統合のシンボルとすべく図る
- 共和派:個人ではなく徳を強調、ワシントンが掲げる原則を祝う
- 1799年のワシントンの死去、1801年の共和派政権→政治文化の色調は急速に変化、党派色も薄まる→中立的なシンボルとなる