一 はじめに
- 日本人と愛国心
- 15年戦争は「誰一人、愛国心などには興味がない」ような人々によって遂行されたか? ←玉砕、特攻に象徴される狂信的愛国者たちというイメージ
- 愛国心、ナショナリズムとは何か
- ホブズボーム;近代のナショナリズムとは、民族的・文化的・言語的・伝統的な結びつきの単位=ネイションと政治的単位、とりわけ国家=ステイトが一致すべきである、というイデオロギー。 →このとき、ネイションは「二重の現象」、すなわち本質的には上から、政治的権力によって構築される理念であるが、同時に「普通の人々が抱く様々な臆説、希望、必要、憧れ、関心」にも媒介されている。
- アンダーソン;「公定ナショナリズム」と「民衆ナショナリズム」
- 二重のナショナリズムが限りなく単一に近づいたとき、つまり国家の政治的なネイションへの意志を民衆の愛国心が自発的に支えるならば、ナショナリズムは― 国民意識として ―最も強固なものとなるはず
- 敗戦により大日本帝国が崩壊したとき、それまで帝国の基盤を支えていたと思われていた日本人の愛国心が、実は存在していなかった、という説 →では日本人たちを明治からずっと、戦争や植民地支配にかりたてていったものは一体なにか? →奴隷根性
- 近代日本のナショナリズム研究の通説とそれへの疑問
- 通説; 「もともと「日本」などなかったのだ。「日本」ははじめから、国家イデオロギーの生み出した幻想にすぎなかった・・・・・・日本の「国家」が存立しえているのは「日本」という幻想に支えられてのことである」との論理(西川長夫『国民国家論の射程』柏書房 1998) →ネイションは「想像の共同体」であり、国家の国民統合に"回収"され、利用される虚構にすぎない
- 疑問; 「想像」が極東の島国の人々に許されていたのか →ネイションを「想像」する力≠現実の国家への必然的な基準 →「想像」する力は、真の個人主義と民主主義をめざして、「官僚制的国家による厳しい管理と差別に対して抵抗し、自己の固有の属性、その起源と神による選びのへの確信を対置」する可能性を孕む(スミス『20世紀のナショナリズム』法律文化社 1995) →日本人にネイションがなかった=日本人は「想像の共同体」であることを強いられた=想像することすらできなかった
二 超国家主義と日本
- 昭和初年代の日本の特徴
- 「離心性」
- 農村の窮乏と回帰
- 日本の近代化と都市文化の発展と農村の後退・産業構造の変化による地域偏差の拡大と都市と農村の格差・マスコミによる窮乏の農村というイメージ操作 →農村にとって都市は次第に反発の対象となる
- 農村の青年たち、都市の非本来性を明らかにするために、都市=西洋的なるものの一切、という概念を持ち出す →この概念は、都市における文化の頽廃、資本主義、政党腐敗など、きわめて雑多で多義的な要素に投影 →一方で、農村に肯定的な、回帰すべき本来性としての日本的な一切を求めてゆく
- 1930年代における農村の恐慌脱出のさまざまな試みに、この反発と回帰の枠組みが大きく反映 →超国家的な故郷としての「日本」を呼びだしはじめる
- 二・二六事件
- 青年将校たちは昭和の日本から、天皇機関説に象徴される自由主義=欧化思想に影響された元老、重臣、財閥、および軍閥を完全に抹殺しようと企てる ←これら国家の支配層は国民と天皇の直接的つながりを分断し、私利追求のために天皇を利用しているのだと思われたから
- 明治以来、近代化を追求しつづてけて到達した国家の現実は、彼らが幼年学校以来教え込まれてきた「国体の観念」、すなわち「一君万民、君臣一界といふ境地」と、完全に乖離
- 青年将校たちの暴力は、ただ「大君とともに喜び、大君と共に悲しみ、日本国民が、本当に天皇の下に一体となり建国以来の理想顕現に向つて前進するといふこと」のみにささげられる →それゆえ、彼らの観念の天皇は、軍規に代表される、現実の支配的な制度や統制からさえも離脱しうる根拠として存在
- 重要なこと;天皇を明治国家システムに対する変革のシンボルとみたこと →この変革の論理は、明治国家が多くの国民に注入し続けていた「顕教」、すなわち神格化された天皇のもと「一君万民」が実現されねばならない、というイデオロギーそれ自体によって生み出されたもの →公的ナショナリズムを現実の政治的国家機構に対する破壊力として読みかえる
- 結末;青年将校の「国体」は天皇自らが憲法体制維持の意思を表明を示したことで裏切られる →日本近代によって析出された個我が、ネイションを個人主義と変革のための力として求め、そして無残に敗れ去ったことを意味した。
三 回帰と伝統
- 日本近代に新しく生まれた個
- 1930年代後半における<日本への回帰>
- これらの個我もまた、1930年代後半には次第に見失われたもの、回帰すべきものとしてのネイションの模索に向かう →あらゆる知識人はこの時期、何らかの日本的なるものを捜し求めた →しかし33年から36年前後までの論壇では、次第に強まる国家の思想統制や、それを支える日本精神論の跋扈に対抗していた。日中戦争を契機として、日本的なるものや伝統をめぐってさかんに論議を始める。
- 知識人の回帰はなぜ行なわれたのか
- 多くの知識人が日本回帰に託していたのは、「自らの頭の中で作つた小さな論理を以て批判する。それが世の中に実現しない。或は自己の論理と違ふ生活の論理が実際に展開するとて、神経衰弱になつて居た」ような「生活力の弱さ」の克服である
- それは全体主義の進行という現実に対し、思考がいかに無力であるか、という苦悩にさいなまされる知識人の個我がとりえた、唯一の「離心性」の表現 →そのほとんどは、直観にしたがって「素直に我々個が日本民族の全体の生命の中に融け込む」とか「先づ自らが国家といふ全体のなかに没入していく」ような思考停止以上のもはではない
- 彼らの多くが伝統や古典を偶像視するのは、現実の日本、「自分の国」の姿を直視しようとすることからの逃避に過ぎない
- 1940(昭和15)年以後、大政翼賛会を中核とした国民統合のための末端システムが整備され後半な強制的同質化が推進
- 戦時下の民衆
- 近代日本のナショナリズムとその想像力の限界
- 日本人の多くがいきついた結論が近代日本のナショナリズムとその想像力の限界を示す →この悲惨な出来事に、学ぶことのできる遺産は何も残されていないのか
- 萩原朔太郎の思想
- 国家や国粋主義者が鼓吹するような、日本人みなが帰るべき安住の家郷など、もはや失われている。しかし、にもかかわらず「西洋的なる知性」の存在によって、日本人の否定しえないアイデンティティとしての伝統は認識されねばならない
- 「西洋的なる知性」とは、「具体的なるものを分析統合することによって、一の定義や観念を創造しようとするところの、イデーへの抽象的、浪漫的熱意を本質とした知性」であり、その源泉するところは、個の尊厳と自由とを求めてやまぬ精神、すなわちヒューマニズム
- 朔太郎が西洋的知性のゆえに伝統を自覚せねばならぬ、と主張したのは、前述した多くの「回帰」する知識人のように伝統や古典を「新しい逃避の形式」とするのではなく、むしろ、個の自由への抑圧に抗し、人間性を擁護する「闘争の武器」にまで鍛えあげるべきだと考えていたから
- 現実の国家の呪縛をはなれた新しい共同性の希望
- 朔太郎の伝統≠不変の実体、やすらかに帰るべき家郷 →ドイツ・ロマン主義の古典論と響きあう
- 古典とは「何らかの創造的精神がそれを認識するところにのみ成立する」 →伝統とは不易の規範、回帰すべき何かではない―そのような意味では、伝統などはじめから存在しない →伝統が求めるのは、みずからを絶えざる反省と変化のもとにみちびく冷徹な知性の光、すなわち「理念」に他ならない
- 朔太郎にとって事実の歴史などどうでもいい →彼の伝統による闘争は「たとへ現実の日本がなく、すべての日本的なものが虚妄であつても、尚且つ我らは、イデーとしての日本を所有せねばならないのだ」という悲痛な決意に支えられる →ナショナルな伝統をロマン主義的な想像力によって、現実の国家の呪縛をはなれた新しい共同性の希望に綱得ようとする意志があった
- 朔太郎1942年に死亡→「イデーとしての日本」は姿をあらわすことなく忘却の彼方
- 朔太郎の伝統≠不変の実体、やすらかに帰るべき家郷 →ドイツ・ロマン主義の古典論と響きあう