吉田孝「「律令国家」と「公地公民」」『律令国家と古代の社会』岩波書店 1983 25-69頁

一 古代日本の歴史的環境

  • 7世紀前後の東アジア
    • 発展段階・社会構造を異にする諸民族が隋・唐を中心とする国際的交通によって結ばれる。
    • 「倭」から「日本」へ
      • 倭人は歴史上はじめて体系的な機構を持つ「国家」を形成。中国からの呼称である「倭」を捨て「日本」と称す。
      • 倭が中国に対して正式に「日本」と称したのは701年に出発した遣唐使。はじめて編纂した体系的な「律令」法典である大宝律令を唐に示す
  • 支配層による統治技術の先取り
    • 大宝律令は唐からそのまま継受されたもので、日本から自生的に生まれる性質のものではない →統治技術の先取り →日本の社会から自生的には生まれない早熟的な国家を生み出す
    • 要因:隋唐の朝鮮出兵を契機とする国際的動乱と、それに対処するための権力集中と軍事態勢強化の所産 ←隋唐帝国の成立に触発され、脅威に対処するために国家を形成した周辺諸民族と基本的には同じ類型に属する国家形成

二 中国律令の継受

  • 何故、中国と陸続きの朝鮮諸国よりも海を隔てた日本の方が中国の法制をより徹底した形で摂取しようとしたのであろうか。
    • 冊封新羅は唐から冊封を受けていたが日本は受けていなかった。冊封を受けていた新羅では帝国法の性格を持つ律令法典の編纂を認められなかった。
    • 新羅との対抗関係:日本は冊封を受けていなかったが朝貢は維持 →唐に対する朝貢を維持し、新羅渤海を従える小帝国を形成するには?→中国律令を模倣した律令法典を編纂し、中国的な律令制を形成する。
  • 律令の世界法的な性格
    • 7世紀前後の中国と日本とでは、発展段階に大きな隔たりがあり、その社会構造も質的に異なる →後進的で異質な社会構造の日本に継受されたのは、唐律令が世界法的な性格を持っていたから。以下のような性質のため、周辺民族の受容を可能にした。
      • (イ)礼と併存
      • (ロ)主として公法的な法規のみ
      • (ハ)王権のあり方を直接的には規定していない=律令が国制の一部しか機能していない
  • 条文の書き換えと機能の仕方の相違
    • 日本の律令制定者は、日本の実情に合うように書き換えに苦心。
    • 律令と全く同じ条文でも、その機能の仕方が日本と中国では異なる →律令法そのもののあり方を、王権との関連を中心に考える。

三 律令法と天皇

  • 天皇の位置
    • 天皇畿内豪族政権のなかで、特定の役割を果たすために共立された首長であり、決して畿内豪族と並立する立場にはない→ 7世紀の日本の天皇はすでに特定の世襲カリスマを持った特殊な存在として、畿内豪族層の承認を得ていた。その特徴は以下の2つ。
      • 国家機構の最高の機関、すなわち「百官の長」
      • 王民制にもとづく統一体の最高の首長
    • 日本の律令国家の天皇は、中国の皇帝に比べると直接執政者としての性格が薄く、権力行使の主体としては畿内豪族の権力機関である太政官が大きな比重を占める →天皇太政官の関係は役割分担であり、権力をめぐる対立ではない →天皇を首長とする畿内豪族政権と地方の豪族たちとの関係がより本質的な問題。
  • 地方支配としての律令
    • 日本の律令は、天皇を首長とする畿内豪族政権が地方を支配するための手段としての性格が強い。
    • 律令国家形成の主題は、畿内政権の地方支配の体制を如何にして確立するかであり、律令の編纂はその目標の提示。

四 日本の「律令国家」

  • 大宝律令
    • 大宝律令は、唐の律令だけではなく、唐の礼や格式に相当するものも部分的に含んでおり、律令だけで一応完結した体系を備える →建設すべき律令国家の骨格を示す青写真 
    • 大宝律令の編纂は、律令国家体制の創立という「明白な革新的意図に導かれた目的主義的な編纂」
  • 律令国
    • 日本では律令に高い価値を附し、律令は国家形成の重要な手段として意識される。
    • 律令が国制の骨格として編纂され、律令に高い価値が附されていたことから、著者はあるべき国制の基本が律令によって規定されている日本の古代国家を「律令国家」と呼ぶ。
  • 律令法の継受
    • 要因;王権のあり方を異にし、発展段階も社会構造も異にする日本が、律令法を継受できたのは、律令が国制の一部分しか占めていなかったために、固有法的な国制や未開な社会構造と重層することができたという特色が大きい。
    • 日本の律令国家は、大化前代のいわゆる固有法的な国制を前提とし、「律令制」と「氏族制」との二元的国家
    • 律令の機能の仕方は基礎にあった氏族制的ないし首長制的な社会の構造に大きく規制される
    • 日本の律令国家で現実に機能していた「公-私」の概念が、律令の「公-私」の概念と食い違っていたのもその一つのあらわれ

五 「公地公民」とは何か

  • 律令国家の基本的な特質として「公地公民」があげられるが、「公地公民」の「公」は「律令」における「公」とは異なっていた。
    • 中田薫律令時代の土地私有権」における土地公有主義学説:口分田は律令の体系においては「公田」ではなく「私田」、律令時代の法律家は口分田を私田と呼びその享有者を主(田主)と称した証明をあげる。
  • 中田・仁井田説に対する二つの点からの検討
    • (1)中国律令における土地所有権についての中田・仁井田説は正しいかどうか、またそのような法制上の概念は中国で現実に機能していたかどうか。
    • (2)中国律令から継受した、日本律令における対象物件についての「公(官)-私」、享有主体についての「官-私」は、日本の律令時代に現実に機能していたかどうか。
  • (1)中国律令における土地所有権についての中田・仁井田説は正しいかどうか、またそのような法制上の概念は中国で現実に機能していたかどうか。
    • 中田・仁井田説の基本的な考え方
      • 中国の均田制における口分田は、環受の対象とされない永業田とともに「私田」とされていたので、口分田と永業田のあいだに土地私有権として本質的な差異はなかった
      • 私有の外的標識(私と主)が動産・不動産を通じて一貫していることを強調し、対象物件の公(官)と私の区別、享有主体の官と主の区別が、動産・不動産(園宅地・永業田・口分田)を通じて明確になされていることを実証した
    • 問題点
      • 私有の外的標識とした「私」と「主」が私有権の標識として確かなものであったか →官田宅を借りた「見住見佃人」を「地主」としているので「主」という語がつねに私有権の主体を指すとは限らない
      • 歴史上の用語として「私」を法制史学上の「私有権」の私に引き付けて考えてよいか疑問 →中国「律令」における公-私の概念は、ほぼ官‐民の概念に近いものであったと推測される
    • 結論
      • 公と官とは、少なくとも唐代を中心とする時期の法制史料においては、類似した概念として用いられている場合が多く、それに対する私と民もまた、類似した概念として用いられている場合が多い
      • 唐の律令における「私田」も「民田」と相通ずる概念であった可能性が強い
      • 中田・仁井田が「私」という語を手がかりにして私有権の問題を追求したのが正しかったかどうか、再検討の余地
      • 「私」は、―少なくとも唐の律令においては―公とか官、すなわち国家に対する概念であって、共同体との関連における私有権の標識にはなりえない
    • 中田・仁井田説の意義
      • 唐代を中心とする中国の社会において、個々の家が「享有」する動産・園宅地・田地のすべてに共通する私有の外的標識が成立しており、公田・官田と私田・民田とが明確に分離していることを立証したことは、意義を失っていない
  • (2)中国律令から継受した、日本律令における対象物件についての「公(官)-私」、享有主体についての「官-私」は、日本の律令時代に現実に機能していたかどうか。
    • 律令とは異なる「公」の概念
      • 律令の注釈書は口分田を私田としており、律令の関係条文から機能的に推論しても、律令の体系においては口分田を私田とするのがもっとも自然である。
      • しかし、問題の口分田が「私田」であることを示す史料は律令の注釈以外のは見当たらず、逆に口分田が「公田」であることを示す史料が、奈良時代の後半からたくさんあらわれ、平安時代に入ると公田が口分田を含むのはむしろ一般的な用法となってくる
      • 公田の概念が墾田永年私財法を契機として変質する以前からすでに律令とは異なった「公」の概念が存在していた
      • 天武・持統朝=日本の律令制度が整備されてくる段階、日本的な編戸制・班田制はこのころ本格的に施行されはじめる=この時期に律令の規定にはみえない「公民」の語が正式に使われ始めるのは、日本の律令体制の実質が「公民」と「公田」(口分田を含めた意味での)とを基礎とする体制であったことを示す。
    • 日本における即時的な王土思想
      • 日本には王土と公田(公地)を明確に区分した史料を見出すことができない →公と私を区別しない即時的な王土思想
      • 即時的な王土思想で「公」がどのように観念されたか? 寺家や王臣家の囲い込みから百姓の生活を守る→百姓は「公」として王臣家の「私」に対比されているのであり、それは公民の口分田を「公田」として寺家の「私墾田」と対比した論理と同じ。
    • 結論
      • 百姓が公民と観念され、公民の口分田が公田、民要地が公地と観念されるのは、百姓を包括する共同体が、そのまま律令国家の体制のなかに統合されていた。
      • 王臣家にや寺家による共同体の侵食は、そこに日本古代の「私」が成立してくる萌芽があり、日本において「公」と「私」が意識的に問題とされ始めるのはまさにその反映。
      • 奈良時代前後には、一般百姓は朝廷に統合される「公」の世界に埋没していた