一 古代日本の歴史的環境
- 7世紀前後の東アジア
三 律令法と天皇
- 天皇の位置
- 天皇は畿内豪族政権のなかで、特定の役割を果たすために共立された首長であり、決して畿内豪族と並立する立場にはない→ 7世紀の日本の天皇はすでに特定の世襲カリスマを持った特殊な存在として、畿内豪族層の承認を得ていた。その特徴は以下の2つ。
- 国家機構の最高の機関、すなわち「百官の長」
- 王民制にもとづく統一体の最高の首長
- 日本の律令国家の天皇は、中国の皇帝に比べると直接執政者としての性格が薄く、権力行使の主体としては畿内豪族の権力機関である太政官が大きな比重を占める →天皇と太政官の関係は役割分担であり、権力をめぐる対立ではない →天皇を首長とする畿内豪族政権と地方の豪族たちとの関係がより本質的な問題。
- 天皇は畿内豪族政権のなかで、特定の役割を果たすために共立された首長であり、決して畿内豪族と並立する立場にはない→ 7世紀の日本の天皇はすでに特定の世襲カリスマを持った特殊な存在として、畿内豪族層の承認を得ていた。その特徴は以下の2つ。
五 「公地公民」とは何か
- 中田・仁井田説に対する二つの点からの検討
- (1)中国律令における土地所有権についての中田・仁井田説は正しいかどうか、またそのような法制上の概念は中国で現実に機能していたかどうか。
- 中田・仁井田説の基本的な考え方
- 中国の均田制における口分田は、環受の対象とされない永業田とともに「私田」とされていたので、口分田と永業田のあいだに土地私有権として本質的な差異はなかった
- 私有の外的標識(私と主)が動産・不動産を通じて一貫していることを強調し、対象物件の公(官)と私の区別、享有主体の官と主の区別が、動産・不動産(園宅地・永業田・口分田)を通じて明確になされていることを実証した
- 問題点
- 私有の外的標識とした「私」と「主」が私有権の標識として確かなものであったか →官田宅を借りた「見住見佃人」を「地主」としているので「主」という語がつねに私有権の主体を指すとは限らない
- 歴史上の用語として「私」を法制史学上の「私有権」の私に引き付けて考えてよいか疑問 →中国「律令」における公-私の概念は、ほぼ官‐民の概念に近いものであったと推測される
- 結論
- 中田・仁井田説の意義
- 唐代を中心とする中国の社会において、個々の家が「享有」する動産・園宅地・田地のすべてに共通する私有の外的標識が成立しており、公田・官田と私田・民田とが明確に分離していることを立証したことは、意義を失っていない
- 中田・仁井田説の基本的な考え方
- (2)中国律令から継受した、日本律令における対象物件についての「公(官)-私」、享有主体についての「官-私」は、日本の律令時代に現実に機能していたかどうか。
- 律令とは異なる「公」の概念
- 律令の注釈書は口分田を私田としており、律令の関係条文から機能的に推論しても、律令の体系においては口分田を私田とするのがもっとも自然である。
- しかし、問題の口分田が「私田」であることを示す史料は律令の注釈以外のは見当たらず、逆に口分田が「公田」であることを示す史料が、奈良時代の後半からたくさんあらわれ、平安時代に入ると公田が口分田を含むのはむしろ一般的な用法となってくる
- 公田の概念が墾田永年私財法を契機として変質する以前からすでに律令とは異なった「公」の概念が存在していた
- 天武・持統朝=日本の律令制度が整備されてくる段階、日本的な編戸制・班田制はこのころ本格的に施行されはじめる=この時期に律令の規定にはみえない「公民」の語が正式に使われ始めるのは、日本の律令体制の実質が「公民」と「公田」(口分田を含めた意味での)とを基礎とする体制であったことを示す。
- 律令とは異なる「公」の概念
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- 日本における即時的な王土思想
- 日本には王土と公田(公地)を明確に区分した史料を見出すことができない →公と私を区別しない即時的な王土思想
- 即時的な王土思想で「公」がどのように観念されたか? 寺家や王臣家の囲い込みから百姓の生活を守る→百姓は「公」として王臣家の「私」に対比されているのであり、それは公民の口分田を「公田」として寺家の「私墾田」と対比した論理と同じ。
- 日本における即時的な王土思想