- 概要 古代土地制度の流れ
- 大化の改新で打ち出された公地公民制は、律令国家で確立された。しかし律令税制は負担が重く班田制は動揺、奈良時代に土地政策が行われ初期荘園が成立するが、それは律令制に依拠するものであった。戸籍・計帳による公民管理が破綻すると班田制そのものが崩壊した。10世紀初頭には地方支配制度の転換がはかられ、従来の個別人身支配から土地支配に変わり、国司の徴税請負人化・負名体制が成立する。ここから開発領主が発生し開発した土地の権益を保持するため国家や国司から承認を得たり、荘園として寄進したりするようになる。寄進地系荘園が増加し、公領を圧迫すると11世紀後半には延久の荘園整理令が出される。これにより荘園と公領の区別が明確化されるとともに院への寄進が集中するようになり領域型荘園の形成が促進された。こうして荘園公領制が成立したが、公領は院宮分国の制度・知行国の制度により私領化していく。院政期には私的な土地所有が展開して広く権力が分散していくことになり、古代は終わり中世社会が開始されるのであった。
1.公地公民制
- (1)公地公民制
- (2)班田収授
- 中国の均田制にならって制定された土地国有を原則とする律令の基本田制。6歳以上の良民男子に2段、女子にその3分の2、官戸・公奴婢に良民と同額、家人・私奴婢に良民の3分の1の口分田を班給し、6年後とに作成される戸籍に基づき収授した。口分田の売買と質入れは禁止されたが、終身用益(死ぬまで使える/死ぬと収公)と賃租は許され、段別2束・2把の田租が徴収された。
- 飛鳥浄御原令施行以後に本格的に成立したとされる。
- 6年後との班田のサイクルは8世紀後半には崩れ、9世紀には臨時に12年の年時による班田を行った。口分田の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍・逃亡の増加、大土地所有の拡大と農民層の分化、国司・郡司の不正などの進行により数十年間班田が施行されず、902年の班田以後、実質的に廃絶した。
2.奈良時代における土地政策の推移
- 8世紀初頭頃 公地公民制による税収の不足
- 人口が増加して口分田が不足
- 過重な負担により班田農民が浮浪人化→税収・財源の不足
- 722年 百万町歩開墾計画(長屋王政権)
- 農民に食料・道具を支給し、10日間開墾に従事させる→だが成果上がらず
- 723年 三世一身法(長屋王政権)
- 目的…徴税対象地の拡大
- 内容
- 灌漑施設を新設して開墾した者には、三世代の所有を認める。
- 既存の灌漑施設で開墾した者は、本人一代(一身)の所有を認める。
- 開墾地は輸租田。
- 結果…「一身」の政府への返却が近づくと墾田は荒廃
- 743年 墾田永年私財法(橘諸兄政権)
- 765年 加墾禁止令(道鏡政権)
- 寺院などを除き開墾禁止
- 772年 墾田永年私財法復活(道鏡失脚)
3.初期荘園(8~9世紀)
- (1)初期荘園の成立
- (2)東大寺領荘園
- (3)初期荘園の衰退
- 初期荘園の多くは在地の郡司の権威に依存していたので、有力農民の台頭による郡司の弱体化に伴い、維持が困難になり衰退した。
4.班田制の崩壊
- (1)農民の抵抗
- 内容:浮浪(口分田を捨てて戸籍に登録された土地を離れる)・逃亡(都の造営工事現場から逃げ出す)・偽籍(徴税負担の重い成人男性ではなく女性として戸籍に登録)
- 影響:戸籍・計帳による公民管理の破綻・班田収授実施困難
- (2)桓武の改革
- 内容
- 班田収授の励行→班田期間の改革(6年1班を12年1班に変更)
- 負担軽減による公民の維持→公出挙の利率軽減(税率5割から3割に)、雑徭期間の短縮(年間60日から30日に)
- 結果
- 効果は無く9世紀には班田が行われない地域が増えて行った
- 内容
- (3)国家財政の窮乏化
- (4)土地集積の進展
- 諸司田…中央諸宮司の財源をまかなうために設置された田。757年、大学寮・雅楽寮・陰陽寮・内薬司などに設置。881年、官田が諸宮司に配分されて以降、広範に成立した。
- 勅旨田…皇室財政を支える為に天皇の勅旨で設置された田。不輸租田。8世紀から始まり、9世紀前半の天長・承和年間には大規模で全国的な勅旨田化がみられる。設置木帝は皇室独自の私的経済説から国家的開発の面を重視する説に至るまで学説が分かれる。一般農民の耕作障害が問題となり、902年の延喜の荘園整理令で以後の開田が停止された。
- 賜田…天皇が個別の勅で任意に特定の個人に与えた田。輸租田。平安時代になると100町以上の大規模な荒廃田を皇族に賜う例が多くなった。
- 院宮王臣家…8世紀末~9世紀に天皇と身近な関係にあった皇族や貴族の呼称。新たに台頭した有力農民と結託して大土地所有を展開した。禁制の対象となったが、10世紀以降国家が阻止できなくなり、この呼称は史料上から消える。
5.個別人身支配から土地支配への転換
- (1)延喜の荘園整理令(902)
- (2)王朝国家体制
- ①概要
- 10世紀初頭に成立した、古代国家が解体して中世国家が成立するまでの、過渡期の国家体制。下限については11世紀半ばまでとする説と12世紀末の鎌倉幕府成立までとする説がある。後者では11世紀半ばを境に前期と後期に区分する。
- ②地方支配体制の変化に着目
- ③特徴
- ④11世紀半ばにおける再編成
- ①概要
- (3)負名体制
- ①名と負名
- ②負名体制とは
- 王朝国家が地税を確保するために、負名に比較的自由な形態で名の耕営・徴税を請け負わせたもの。
- ③負名の自立性と限界性
- 自立性:負名は律令制国家期と比較して国家に対して経済的に依存しておらず、みずからの計算と責任で経営を展開するようになっていた。
- 限界性:負名は公田において私的な占有権を確立していたわけではなく、官物を進納しなければその地位を失った。
- (4)開発領主の発生
- (5)免田型荘園(初期の寄進地系荘園)
- (6)遙任国司の出現