岡本隆司『李鴻章』岩波新書 2011

  • この本の趣旨
    • 李鴻章は、19世紀における中国清朝支配体制の変化に対し「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」と「督撫重権(とくぶじゅうけん)」により応じた。これにより安定はみたものの、社会構造と政治体制の根本的変化とはならず、伝統的な東アジア国際体制(冊封朝貢)は、西洋の国民国家への変容を迫られる。李鴻章は根本的な解決もままならず、国際体制の変化に対処していく。

メモ

18世紀においては栄えていた中国がなぜ19世紀になると衰退したのか?というのは皆が思う疑問だろう。この本は以下のように説明する。19世紀になると、中国清朝では君主独裁、名君による善政は機能しなくなる。理由は、人口増加と経済の拡大による紛争の多発・治安の悪化により、漢人の統治にかかるコストが量的に激増し、皇帝独裁では対処できなくなったから。

このような事態に対し、中央では「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」が行われるようになる。皇帝が成人になると独裁を行わざるを得ないので、幼帝を擁して一身に集中する権威・権力・権限を分散し、コスト軽減を図って、分業分担により効率化する。幼帝に代わって権力を担ったのが西大后で、これを「垂簾聴政」という。一方、地方では「督撫重権(とくぶじゅうけん)」の状態が生み出される。地方の治安維持のための軍事力と現地調達の軍費を督撫が担い、北京中央も承認する。身近な現地当局が機動的に軍隊を動かせるよう多くの裁量を督撫に委ねる、ということである。李鴻章は19世紀の中国の内乱に対し、「垂簾聴政」と「督撫重権」を噛み合わせ、安定に導いたのであった。

だがしかし、これらは矛盾を孕む社会構造と政治体制を根本的に解決するものではなかったため、歪みが生じてくる。その歪みとは、近代的な国民国家に生まれ変わることができなかったということである。現代では国民国家が当然のものと自明だが、19世紀はそうではなかった。西アジアではイスラーム国際体制が、東アジアでは冊封体制が敷かれていた。武力を伴う西洋列強の資本輸出を狙った対外進出により、アジア諸国はこれらの国際体制からの転換を迫られる。だが、清朝末期は科挙による知識エリートが幅を利かせていたため、保守派の旧弊により社会体制の革新が上手くいかない。李鴻章の洋務運動も中国全体の改革とはならなかった。そこへ西洋列強の冊封体制への侵略が始まる。琉球処分ベトナムをめぐる清仏戦争・朝鮮をめぐる日清戦争などである。李鴻章清朝の政治体制・伝統的な東アジア国際体制の中で、西洋列強に対処したのであった。