近現代東アジア史【1】近現代中国史

1.繁栄する清朝に訪れる影

嘉慶白蓮教徒の乱

  • 背景
    • 18世紀に清朝は繁栄を迎えて人口が増加したが、それに伴って土地不足による農民の貧困化と過開墾による環境破壊が発生し、社会が不安定化していた。
  • 乱の結果
    • 清朝の弱体化が露呈!!
      • 正規軍である八旗・緑営だけでは嘉慶白蓮教徒の乱を鎮圧できず、郷紳らが義勇軍である郷勇や農村の武装組織である団練を組織して活躍。
    • 清朝の財政は窮乏化した。

2.清朝冊封体制に対するイギリス自由貿易帝国主義の挑戦

(1)イギリスの自由貿易要求

  • ①イギリス、輸入超過で銀が流出して困る
    • イギリス産業革命で労働者にも茶の摂取が広まり需要増となるもイギリスの綿製品は中国で売れなかったため輸入超過となり銀が流出していた。
  • ②イギリス、貿易自由要求をする
    • (a)マカートニー…乾隆帝時代の清朝に派遣(1793)。広州1港の現状に満足せず、その他の港の開放など自由貿易を要求した。乾隆帝朝貢貿易以外は認めず、イギリスの要求を拒否。
    • (b)アマースト嘉慶帝の時代の清朝に派遣(1816)。マカートニーに続いて貿易関係関税を求めたが三跪九叩頭の礼を拒否したため、嘉慶帝に謁見することもできなかった。

(2)アヘン三角貿易

  • ①アヘン三角貿易
    • イギリスは従来の片貿易を再編し、イギリス本国の綿製品をインドに、インド産のアヘンを中国に、中国の茶を本国に運ぶ三角貿易を始める。清朝ではアヘンの吸引が広がり、アヘンの密貿易は増えて、大量の銀が国外に流出。
  • ②欽差大臣:林則徐
    • 湖広総督時代にアヘン厳禁論を奏上し、道光帝から欽差大臣に任じられる。1839年、広東でアヘンの没収と廃棄を強行し成果をあげる!

(3)アヘン戦争・アロー戦争

  • アヘン戦争(1840~42)
    • 林則徐のアヘン取り締まりに対し、英は中国の不当な貿易体制打破を大義名分に掲げて開戦!
  • 不平等条約の締結
    • 南京条約(1842)…香港島の割譲・上海、寧波、福州、厦門、広州の5港の開港・公行の廃止・賠償金の支払い
    • 五口通商章程 (1843年7月)…清はイギリスの領事裁判権を認める
    • 虎門寨追加条約(1843年10月)…輸出入税率、片務的最恵国待遇、開港場における土地租借と居住権の付与(租界に発展)
      • アメリカとは望厦条約(1844)・フランスとは黄埔条約(1844)
  • ③アロー戦争(第二次アヘン戦争)(1856~60)
    • a.アロー号事件…イギリスはアヘン戦争後も期待したほどの利益はあがらず不満が生じ、条約改定の機会をうかがっていた。そのためアロー号事件(イギリス船籍を主張する船の中国人乗組員が海賊容疑で逮捕された事件)を口実にしてフランスと共に出兵する。※この間、清は国内の太平天国の乱(1851~64)でも苦戦していた。
    • b.ロシアの調停:天津条約(1858)…外国公使使北京駐在・キリスト教布教自由・外国人の中国内地での旅行の自由・開港場の増加と貿易の自由。
    • c.戦闘再開:天津条約批准書交換使節の入京を清軍が武力で阻止し、戦闘再開
    • d.再びロシアの調停:北京条約(1860)…天津条約の批准・天津の開港・九龍半島南部の割譲・付属協定でアヘンを「医薬品」として輸入を自由化

3.連鎖する清朝への反乱

☆アヘン戦争後→民衆の不満!=重税による窮乏化+清朝統治に対する不安感

(1)太平天国の乱

辮髪をやめたので清朝側から長髪賊と呼ばれる

  • ①指導者:洪秀全
  • ②政策  
    • 「滅満興漢」をかかげて清朝の打倒を目指す
    • アヘン吸引や纏足などの悪習慣の廃止。
    • 天朝田畝制度…男女別なく土地を均分する理想社会(実現せず)
  • ③鎮圧
    • 郷勇の活躍…漢人官僚が郷里で組織した義勇軍が太平軍をやぶる。曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍。
    • 西洋諸国の対応…当初は、太平天国に同情的だったが、北京条約後は清朝擁護に転じる。ウォードやゴードンの率いる常勝軍が清軍に協力。1864年に天京は陥落。太平天国滅亡。

(2)反乱の連鎖

4.清朝近代化の苦悩

(1)洋務運動

  • ①概要
    • アロー戦争後の清朝では幼年の同治帝(位1861~74)の叔父:恭親王奕訢(初代総理衙門長官)が中心となり従来の排外主義を転換。外国との和親や西欧の進んだ技術の摂取、近代産業の育成と富国強兵による国家体制の再建がはかられた。
  • ②総理衙門の設置
    • 東アジアの伝統的な国際秩序=冊封体制
      • 中国が世界の中心であり、皇帝の「徳」が及ぶ範囲以外は蛮族の地。明確な国境はない。周辺地域は中国に朝貢し、皇帝は彼らを周辺の王として冊封する。
      • 従来中国は、外国を対等の存在でなく国内の延長のようにみなしていたため、特別に外交を扱う場所は設けられていなかった・・・
    • 北京条約による外国公使の北京駐在に伴い外交交渉の必要性
    • 1861年、外務省にあたる総理各国事務衙門(総理衙門)の設置。
  • ③主導者…太平天国の乱の平定に活躍した漢人官僚たち。
    • 曾国藩(1811~1872)…太平天国討伐の湘軍を率いる。洋務運動の中心人物
    • 李鴻章(1823~1901)…曾国藩の命を受けて安徽省で淮軍を組織し、太平天国や捻軍を鎮圧。最高実力者として内政・外政を担当した。
    • 左宗棠(1812~1885)…曾国藩のもとで太平天国の鎮圧に活躍。回教徒の乱を鎮圧して新疆を回復。ロシアとの国境紛争であるイリ条約にかかわる。清仏戦争時に病没。
  • ④主な事業…兵器工場、紡績工場、汽船会社の設立、鉱山開発、電信事業など。
  • ⑤中体西用…洋務運動の基本的精神。儒学を中心とする中国の伝統的な学問を基礎として、西洋の学問・技術を利用するという考え。西洋文明は利用すべき技術・手段に過ぎないといた。
  • ⑥洋務運動の限界…西洋の思想や社会制度を導入しようとするものではない。
    • 政治体制の改革や中国社会全体の近代化は目指さず、西洋近代技術の表面的な模倣に始終したので、清仏戦争日清戦争に敗北して挫折した。

(2)仇教運動

  • 概要
    • 中国における反キリスト教を掲げた排外運動。1860年の北京条約でキリスト教布教の自由が認められて以降、伝統的な村落秩序や民衆感情との摩擦が生じ、各地で儒教を信奉する地方官や郷紳が民衆を組織して、教会焼き討ちや宣教師殺害事件などを引き起こした。

(3)同治中興

    • 同治帝の治世が表面的に内政・外交の安定期であったことによる呼称。太平天国の乱や捻軍の乱が平定され、漢人官僚による洋務運動が推進された時期にあたっていた。
    • 西太后…咸豊帝の側室で同治帝の母。同治帝即位後、実権を握り咸豊帝の皇后(東太后)とともに摂政となった。同治帝死後には光緒帝の摂政にもなり、政治を左右した。

(4)露清関係

  • アイグン条約(1858)…アロー戦争に乗じムラヴィヨフがアムール川以北を獲得。
  • 北京条約(1860)…アロー戦争講和斡旋の代償としてムラヴィヨフが沿海州獲得。→ウラジオストーク港建設
  • イリ条約(1881)…東トルキスタンの混乱に乗じてロシアが獲得したイリ地方を返還させる。
    • ※ロシアは中央アジアでも南下の勢いを示しウズベク人のブハラ、ヒヴァ、コーカンドの3ハン国を支配。コーカンド=ハン国のヤークーブ=ベクは清朝治下の新疆を征服して独立政権を建てようとする。ロシアはこれを契機にイリ地方を占領したが、左宗棠がヤークーブ=ベクを破りロシアにイリ地方を返還させた。
    • トルキスタンの国境を画定。ロシアのアレクサンドル2世と締結。

(5)清仏関係

  • 清仏戦争(1884~85)
  • 天津条約(1885)
    • 英の仲介で清の李鴻章と仏のパトノートルが調印。清は宗主権を放棄してベトナムに対する仏の宗主権を認めた。また清南部での通商・鉄道建設にフランスの特権を与えた。
  • ☆敗北後の清朝李鴻章がさらなる軍備強化を目指し北洋艦隊をつくりあげ、旅順や威海衛の軍港を整備!

(6)明治維新後の日清関係

5.東アジアの主導権を巡るヘゲモニー争い

(1)朝鮮半島をめぐる日清抗争

  • 江華島事件
    • 1875 日本、江華島事件を起こして、朝鮮を圧迫→日本の軍艦が朝鮮沿岸で挑発的な演習を行い、江華島付近で両国軍が激突!
    • 1876 日朝修好条規 …領事裁判権などを含む不平等条約で釜山など3港を開港。
  • ②壬午軍乱
    • 1882年、開化政策へ不満を抱く旧式軍隊が反乱を起こすと、その混乱に乗じて大院君(攘夷・親清)が閔氏政権(開国・親日)にクーデタを起こす。清朝が介入して大院君のクーデタを鎮圧したので、閔氏政権は親清派に転換した。
    • これにより開化派開化派は事大党(親清)と独立党(親日)に分離!
  • ③甲申政変
    • 1884年ベトナムをめぐって清仏戦争勃発し清朝勢力の劣性が露呈。独立党(親日派)の金玉均は日本の武力でクーデタを起こし事大党(親清派)の閔氏政権を打倒するが…
    • 閔氏政権はロシアと手を結ぼうとするがロシアの東アジア進出を危険視するイギリスが巨文島と占領して圧力をかける。
    • 清朝は独立党のクーデタを鎮圧するとともに李鴻章がイギリスを調停。さらに清の援助で政権を回復した朝鮮に袁世凱が派遣され権限を振るう。
  • ④天津条約…1885年、悪化した日清関係を打開。両国軍が撤兵し、将来の出兵の際の事前通告等を決める。

(2)日清戦争

  • ①背景:甲午農民戦争…1894年、朝鮮南西部の全羅道で東学の信者が全琫準の指導で起こした反乱。朝鮮政府は清に鎮圧軍の派遣を要請。対抗して日本も出兵。日本は清朝に徹底鎮圧を提案するが拒否される。
  • ②勃発

豊島沖の海戦…94.7.27。日清戦争スタート!
黄海海戦 …94年9月。清国海軍の主力北洋艦隊を壊滅させる。
平壌の戦い…94年9月。清国陸軍を朝鮮から退却させる。

  • 下関条約(1895) →日本全権:伊藤博文陸奥宗光、清の全権:李鴻章
    • (a)条約の内容
      • 朝鮮の独立…朝鮮は東アジアの国際秩序「冊封体制」下にあったので、清王朝の属国であった。朝鮮の独立は冊封体制が崩壊し、東アジアが従来の国際秩序から脱し、西欧の国際秩序に組み込まれたことを意味する。
      • 領土の割譲…遼東半島(→露・仏・独の三国干渉で返還)、台湾、澎湖諸島
      • 通商上の特権付与 →翌1896年の日清通商航海条約で清は関税自主権喪失、領事裁判権承認
      • 開港場での企業の設立 → 内地企業権 の承認
    • (b)条約の影響…日本は大陸進出の足場を朝鮮半島に築き、極東で南下を目指すロシアとの対立を深めていく。     
  • 日清戦争の歴史的意義
    • (a)洋務運動の失敗…洋務運動が表面的近代化であったことが実証され、これを機に清朝明治維新を範とする立憲体制を目指す変法自強運動 に着手した。
    • (b)中国分割の開始…下関条約での内地企業権の承認が最恵国待遇により諸外国にも適用。帝国主義列強の資本投下を招いた。
      • ロシア:東北地方(満州)…東清鉄道の敷設権・大連、旅順
      • ドイツ:山東地方…膠州湾(青島市)
      • イギリス:長江流域…威海衛・九竜半島
      • 日本:福建地方…台湾・澎湖諸島
      • フランス:広東・広西・雲南…広州湾
      • アメリカ:中国進出に出遅れる…門戸開放宣言を出して対抗
    • (c) 冊封体制の崩壊…清仏戦争でのベトナムに続き朝鮮の宗主権を放棄。冊封体制が事実上消滅した。

6.日清戦争敗北後の清王朝

(1)変法運動

  • ①変法…日清戦争敗北後、日本の明治維新に習い議会政治を基礎とする立憲君主政の樹立を目指す
    • 中心;公羊学派(『春秋』の注釈の一つ「公羊学」を重視。社会変革・実践志向)
      • 康有為…公羊学派の立場から変法自強を提唱。
      • 梁啓超…康有為のもとで変法運動に活躍。辛亥革命後は司法総長などを歴任。
  • ②戊戌の変法…1898年6月~9月。光緒帝が登用した康有為・梁啓超らにより推進された政治改革。守旧派や保守派によりわずか3か月余りで失敗。
  • ③戊戌の政変…1898年9月。光緒帝の変法を、西太后を中心とする保守派が弾圧した事件。光緒帝は幽閉され、西太后の政治が復活した。

(2)義和団事件

  • ①民衆の排外運動の激化
    • 仇教運動…19世紀後半に中国各地で起こった反キリスト教運動。1860年の北京条約でキリスト教の布教が認められ、中国各地でキリスト教に関連する事件(教案)が起こった。
    • 義和団山東省を根拠地とした義和拳という武術を修練した白蓮教系の宗教結社。華北一帯の貧民・流民・下層労働者に広まり、勢力を拡大。「扶清滅洋」を唱えて武装蜂起した。
  • 義和団事件
    • 1900~1901年。山東で蜂起した義和団が北京に侵入。清朝義和団に同調して列強各国に宣戦布告した。8か国共同出兵が行われ、列強により北京は制圧された。
  • ③北京議定書(辛丑和約)
    • 義和団事件の講和に関する最終議定書。北京駐兵権、巨額の賠償金の支払いなどが決められた

(3)光緒新政

  • 西太后を中心とする清朝保守派による延命措置
  • ①かつて西太后自身が葬り去った変法運動(立憲君主政)に沿って行われる。
  • ②1911年 責任内閣制施行 →その構成は満州人皇族・貴族などが多数を占める
    • 清朝朝廷が約束した立憲政治が、結局は皇帝専制政治の延命のための手段にすぎないことを暴露。
    • 民衆や国政改革に真剣な努力を続けてきた立憲派の人々にも深い失望。

7.辛亥革命

(1)保皇派の動き

  • ①康有為…光緒帝を中心とした政治改革を進める。保皇派として孫文の革命派とは対立。
  • 梁啓超…日本で雑誌を刊行して康有為派の政治的立場を表明。日本の文献から多様な情報・思想を意欲的に吸収し、中国の国民形成のための啓蒙活動に努める。

(2)革命派の動き

  • ☆中国同盟会…孫文ばらばらであった革命諸団体の結集をはかり、日本の東京で組織。
    • 孫文がハワイで組織した興中会、章炳麟の光復会、黄興の華興会が結集。
    • 三民主義 (孫文が提唱した中国革命の基本理念)と四大綱領(実践プログラム)
      • 民族の独立…駆除韃虜(満州族清朝打倒)・恢復中華(漢民族の中国)
      • 民権の伸長…創立民国(共和国の樹立)
      • 民生の安定…平均地権(土地所有不平等の是正)

(3)辛亥革命

(3)-1.辛亥革命前夜
  • 中央政府立憲君主政・地方自治制の導入をはじめ、意欲的な改革→さまざまな矛盾を表面化
    • 1911年 責任内閣制施行 →その構成は満州人皇族・貴族などが多数を占める
      • 清朝朝廷が約束した立憲政治が、結局は皇帝専制政治の延命のための手段にすぎないことを暴露。
    • 民衆や国政改革に真剣な努力を続けてきた立憲派の人々にも深い失望。
  • ②地方勢力…郷紳層が清朝の改革に適応して、実質的な支配権を強めていく。
  • ③民衆…新制度導入と義和団事件の賠償金の負担を課せられ不満が強まる。
(3)-2.辛亥革命の展開
  • 背景:鉄道国有化問題
    • 民族資本家たちは列強に奪われた鉄道敷設権などの利権回収運動を展開するが、清朝政府は鉄道を担保に外国から借款を行うため幹線鉄道国有化を図る。
  • 第一革命
    • 1911.8   鉄道国有化に反対して四川で武装蜂起が勃発(四川暴動)
    • 1911.10.10 湖北省の武昌で新軍が武装蜂起し、清朝からの独立を宣言(武昌起義 )
    • 1911.11末 24省のうち14省が清朝から独立宣言。
    • 1911.12月 革命派・独立各省の代表が南京に集まり、孫文を臨時大総統に選出。
    • 1912.1.1  中華民国建国 in 南京 (臨時大総統;孫文) 
    • 1912.2   清朝総理大臣袁世凱、革命派と取引して宣統帝を退位させる →清朝滅亡
  • 第二革命
    • 1912.3 袁世凱孫文に代わって臨時大総統に就任→革命派は議会での政権奪取を狙う。
    • 1913.2 臨時約法による総選挙で孫文ら国民党が大勝 → 袁世凱は国民党を弾圧。
    • 1913.7 孫文は第二革命を叫ぶが失敗して東京に亡命 
    • 1913.10 袁世凱、正式大総統 →1914.1 国会停止・大総統の権限強化→1914.5「新約法」
    • 1914.7 孫文ら、中華革命党 を結成 (先行して6月に孫文が総理)
  • 第三革命
    • 1915.8 袁世凱、帝政運動→1915.12 翌年からの帝政復活を宣言→第三革命
    • 1916.1 袁世凱帝政開始 → 1916.3 帝政取り消し → 1916.6 袁世凱死亡
(3)-3.軍閥割拠
  • 袁世凱の死後、軍閥が北京政府の指導権を争う事実上の分裂状態に陥る。
  • 辛亥革命清朝の皇帝支配を終わらせたが、軍閥の戦乱が中国民衆を苦しめるようになる。

8.第一次世界大戦と東アジア

(1) WWⅠにおける日本の対外進出

  • ①ドイツ領占領…山東半島の青島を中心とする独租借地と太平洋上ドイツ領南洋諸島を占領。
  • ②二十一カ条の要求…日本の大隈内閣が袁世凱政府に提出した要求。山東の旧ドイツ権益の譲渡、中国東北地方南部・内モンゴルの事実上の日本支配、中国内政への干渉など。袁世凱政権は屈服したが、中国民衆の反日感情が高まった。
  • ③シベリア出兵…寺内内閣によるソヴィエト干渉戦争。原内閣も続行。反革命軍を支援し戦費10億円と死者3000を出して成果なく終わった。他国の撤兵後も最後まで軍をとどめて内外の批判を浴びた。

(2) WWⅠ後の中国

  • パリ講和会議
    • 中国は二十一カ条要求のとりけしや、山東のドイツ利権の返還を提訴したが列強によって退けられた。
  • ②五・四運動
    • パリ講和会議における列強の中国に対する処置に抗議し、5月4日に北京大学の学生を中心に抗議デモ発生
    • 条約反対や排日運動が各地に波及。日本商品の排斥やストライキが起こり幅広い層をまきこんだ愛国運動に発展
  • ヴェルサイユ条約調印拒否
    • 山東問題が不服としてヴェルサイユ条約調印は拒否したが国際連盟には参加し国際的地位上昇目指す。
  • 山東問題の帰結
    • ワシントン会議→中国に関する九カ国条約(イイポチアベフジオ)
      • イギリス・イタリア・ポルトガル・中国・アメリカ・ベルギー・フランス・ジャパン・オランダ
      • 門戸開放宣言(ヘイの三原則;門戸開放、機会均等、領土保全)を国際的に承認
      • これにより、1917年アメリカ参戦後に日米間で結ばれた石井・ランシング協定(日本の二十一カ条要求の承認)は失効。日本は二十一カ条要求で得た山東半島の旧ドイツ権益を中国に返還することを認めた。

(3)中国における大衆啓蒙

9.北伐(中国国民革命)

(1)第一次国共合作孫文の死

  • 1919.7 カラ=ハン宣言…旧ロシア政府が中国に有したいっさいの帝国主義的特権の放棄を宣言。
  • 1919.10 中国国民党…五・四運動の影響下、孫文が秘密結社から大衆政党への脱却を目指し中華革命党を改称。
  • 1921.7 中国共産党コミンテルンの支援。陳独秀が指導者。
  • 1923 孫文=ヨッフェ会談…中国国民党を改組する必要性を痛感。知識人を中心とする従来の運動方針に反省を加え、国民大衆も協調する国民革命の実現をめざすようになる。
  • 1924 国民党改組 (顧問ボロディン)
    • 第1次国共合作共産党員が個人の資格で国民党に入党する。
    • 「連ソ・容共・扶助工農」をかかげて、地方軍閥、打倒帝国主義の路線を打ち出す。
  • 1925.3 孫文の死 †「革命未だ成らず」

(2)北伐開始

  • 1925.5 五・三〇運動…上海の日本人経営の紡績工場での労働争議をきっかけとして、全国的反帝国主義運動へと発展する。
  • 1925.7 広州に中華民国国民政府(国共合作)を樹立
  • 1926.1 北伐開始 蔣介石率いる国民政府軍が軍閥を打倒し、中国統一を目指す!
  • 1927.1 武漢国民政府樹立…国民党左派(容共派)と共産党
  • 1927.3 南京・上海の占領
  • 1927.4 上海クーデタ…国民革命軍総司令蔣介石(国民党右派=反共派)が上海の共産党員・労働者を処刑。南京国民政府を樹立する。

(3)北伐再開

  • ①日本軍の干渉
    • 山東出兵…日本の田中義一内閣が国民政府の中国統一によって強力な政権が樹立されることを警戒し、山東出兵を行って北伐軍の北上を妨害!
      • →済南事件…1928年5月第二次山東出兵。日本居留民保護の名目で出兵し衝突を理由に総攻撃、済南を占領。だが北伐軍は衝突を避けて済南を迂回して北京に迫った。
  • ②北京政府の動向
    • (a)安直戦争(1920)○北洋軍閥直隷派(親英米の曹錕・呉佩孚) VS ●北洋軍閥安徽派(親日の段祺瑞)
      • もともと安徽派の段祺瑞と直隷派の馮国璋(ふうこくしょう)が対立をしていたが、馮国璋の後を継いだ曹錕が戦争に勝利した。
    • (b)第一次奉直戦争(1922)○北洋軍閥直隷派(呉佩孚)VS ●奉天軍閥(張作霖)
      • 1920年の安直戦争後、北京政府は北洋軍閥直隷派と奉天軍閥の連合政権を形成した。だが両者の対立が激化して戦争となり、直隷派が勝利した。敗走する奉天軍閥は日本軍事顧問の出動で立ち直ることができた。
    • (c)第二次奉直戦争(1924) ○奉天軍閥張作霖)VS ●北洋軍閥直隷派(呉佩孚)

(4)北伐完成

  • ①北京占領…1928年6月、北伐軍との戦いに敗れた張作霖は北京を放棄したため、蔣介石はほとんど無抵抗のうちに北京に入城した。
  • 張作霖爆殺事件…1928年6月。関東軍の将校らが、北伐軍に敗れて奉天に引き上げる張作霖を列車ごと爆殺した事件。日本軍部が中国東北地方の直接支配をねらっておこしたもの。日本史だと満州某重大事件。
  • ③張学良の帰順…張作霖の長男の張学良は父が爆殺されたのち、東北地方の実権を掌握。日本に対抗する為、国民政府の東北地方支配を認めた。これにより、中国統一(=国民革命)は一応完成した。

(5)南京政府:蔣介石の統治

  • ①経済:上海を中心に、銀行資本をとおして中国の経済界を支配していた浙江財閥と結ぶ。
    • 関税自主権の回復に成功!輸入関税を上げることで国内産業を保護し、さらなる工業発展を進める。
  • ②政治:米英の支援のもとに、国民党一党体制による統一政権を目指す。

(6)国共分離後の中国共産党の情勢

  • ①南昌蜂起
    • 1927年8月1日、中国共産党江西省南昌で起こした最初の武装蜂起。朱徳らの部隊3万が南昌に新政権を樹立したが、革命軍が準備不足であり、農民との結びつきもなかったので、失敗に終わった。しかし共産党はこの蜂起で初めて自らの軍隊=紅軍)を持ったので重要視されている。
  • ②中央委員会の開催…1927年8月7日に開催
    • (a)労働者・農民を基盤とする新しい共産党軍である紅軍を育成することを決定。
    • (b)地主階級の土地を没収して貧農に分配する徹底的な土地改革を推進することを決定。
  • ③ソヴィエト政権の樹立
    • (a)海豊・陸豊…広東省の県名。1927年11月から28年2月まで中国共産党解放区として、中国初のソヴィエト政権を樹立させた。28年初めに陥落し、革命軍の中心は井崗山に移った。
    • (b)秋収蜂起…1927年秋の収穫期に、共産党の指導下に農民の一斉蜂起が起こった。しかし国民党軍の攻撃を受けて失敗した。
    • (c)井崗山…秋収蜂起に失敗した毛沢東が1927年10月に到着して築いたソヴィエト政権の根拠地。28年4月には朱徳とも合流した。
  • 朱徳 ~軍人出身の中国共産党指導者~
    • 1927年の南昌蜂起に参加。28年4月に井崗山で毛沢東に合流した。主に軍事面を担当して、紅軍第四軍を作る。毛沢東とよく協力して国民政府側から“朱毛”と呼ばれた。
  • ⑤中華ソヴィエト共和国の樹立
    • 1927年の国共分離後、共産党は各地に革命根拠地にソヴィエト政権を築き、各地のソヴィエト政権を統合していく。
    • 1931年11月7日、江西省瑞金に主席を毛沢東とする中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立。

10.日中戦争

(1)満州事変から日中戦争の勃発まで

(2)安内攘外

  • ☆蔣介石の方針は「安内攘外」…国外の敵を討つためには、まず国内を平定しなければならないという考え。満州事変などの日本の軍事対応よりも、国内の統一を優先した。
  • ①蔣介石の統治
    • A)関税自主権の回復(1930)…1928年の北伐完成後蔣介石は国内統一を進め、列強に対しては不平等条約の撤廃を働きかけ、30年に関税自主権を回復させた。ちなみに領事裁判権の撤廃は太平洋戦争勃発後、列強が中国の協力を必要としてからである(1943)。
    • B)瑞金制圧(1934)…国民政府軍の包囲攻撃で中華ソヴィエト共和国臨時政府の首都瑞金を制圧。
    • C)幣制改革(1935)…それまで中国の通貨は基本的に銀で、紙幣は各銀行が発行していたため、通貨価値や通用範囲が不安定だった。国民政府は銀を禁止し、ポンドに連動した四大銀行が発行する銀行券を法定通貨=法幣と定め、金融的統一を推進した。これにより国家独占資本的金融支配が確立し蔣介石の権力が強化された。
  • 共産党の動き
    • A)長征開始…34年10月、南京国民政府軍の包囲攻撃を受けて瑞金を放棄して大移動を開始。
    • B)遵義会議…35年1月、モスクワ留学派からゲリラ戦を主張する毛沢東に党の指導権が移る。
    • C)八・一宣言…35年8月「抗日救国のために全同胞に告げる書」。日本帝国主義の侵略に対して、内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を訴えた。
    • D)延安到着…36年10月、陝西省北部の小都市。瑞金から延安まで1万2500㎞を移動した。

(3)西安事件 1936年12月12日

  • 蔣介石は「安内攘外」により共産党との戦いを優先させていた。当時張学良は西安共産党と対峙していたが、蔣介石が対共産軍作戦の督促にやってくると武力で監禁。共産党周恩来の説得により内戦の停止の合意が成立。以後抗日のための統一という歴史的転換が進展。

(4)日中戦争の展開

  • ①盧溝橋事件(1937.7)…日本と中国の軍事衝突。日中戦争の発端となる。
  • ②第二次国共合作(1937.9)…国民党と共産党が協力。共産党の紅軍は蔣介石の指導下に入り、八路軍と改称。
  • 南京事件(1937.12)…南京占領に対し多数の捕虜・民間人を殺害。国際的な批難を浴びる。
  • 重慶政府(1938~46)…国民政府は南京陥落後も武漢、さらに奥地の重慶に遷都して、ソ連アメリカの支援を受けつつ、抗日戦を継続。日本は短期間で中国が屈服すると思っていたが、長期戦に突入した。
  • 汪兆銘政権成立…蔣介石のライバルの汪兆銘日中戦争における共産主義勢力の拡大を嫌い、第三次近衛声明に応じて重慶を脱出。1940年3月に南京に新国民政府を樹立。日本の傀儡政権にすぎず弱体。

11.戦後中国史

(1)国共内戦中華人民共和国の成立

1945年
  • 9月2日、日本、降伏文書調印
    • ‣日本降伏後、国民党の腐敗と独裁に批判が出ており国家統一の在り方をめぐり国共対立。
  • 10月10日、双十協定
    • ‣国民党と共産党が結んだ停戦協定。国内和平・内戦回避などに合意した。
  • 11月、国共内戦始まる
    • ‣停戦協定が結ばれていたが、国民党はそれを破り、アメリカの支援を受けて攻勢。
1946年
  • 1月…国共停戦協定 → 政治協商会議
    • ‣米前参謀総長マーシャルの介入で停戦し、国共両党および少数党派、団体の代表が重慶に集まり開催した会議。平和に基づく建国の方針を確認した。
  • 7月…国共内戦本格化:国民党が停戦協定を破棄
    • ‣国民党の動き…総兵力でまさり、アメリカの支援も受けて軍事的に圧倒的優位。
      • 民衆の反発…国民党幹部が腐敗し、深刻なインフレが生活を圧迫し、反発。
      • 民族資本家の反発…米国からの借款・援助は米国資本に中国市場を開放したので不満。
    • 共産党の動き
      • 新民主主義…半植民地・半封建の性質を持つ中国社会において、当面の革命は資本主義を目指すブルジョワ民主主義革命でもなく、社会主義をめざすプロレタリア革命でもない。帝国主義勢力や封建勢力からの解放が必要で共産党労働者階級が指導しながらも、農民階級や他の民主主義勢力と協力して革命を進めるという新しい形の革命。
1947年
  • 1月 中華民国憲法…南京に遷都した国民政府が国共内戦の最中に施行。
  • 3月 人民解放軍創設
  • 10月 中国土地法大綱:地主の土地所有を廃止し、農民に耕地を与える土地均分化を徹底。土地を獲得した農民は内戦を地主に対する戦いとみなし、人民解放軍にぞくぞくと加わる。
    • 人民解放軍は47年半ばから反抗。49年末までに中国全土を解放。
1949年
  • 9月、人民協商会議
    • ‣北京において勝利を目前にした共産党が開催した会議。共産党の他、民主諸勢力、中小ブルジョワジー、知識人を代表する様々な党派の代表が集まり、新国家の体制について協議した。
      • 労働者階級を指導者とし、労農同盟を基礎とする。
      • ブルジョワ民主主義者と国内各民族も団結させて、反封建・反帝・反官僚資本を唱え、統一中国の平和と民主主義のために闘うことが示される。
  • 10月1日、中華人民共和国成立。
  • 12月、中華民国成立:蔣介石が台湾で建国。安保理常任理事国。71年に国連から追放。

(2)中華人民共和国建国後の展開

新中国の統治方針…漸進的に社会主義へ移行
  • 農民に土地を分配して封建的な地主制を廃絶 → 1950年6月、土地改革法
  • 財閥に握られていた近代的工業を国営化、中小企業を育成。伝統的な家族制度の打破
1950年
  • 2月 中ソ友好同盟相互援助条約
    • ‣日本に対する共同防衛と中国の復興と建設のための経済援助を約束。
    • ‣見返りとして中国はモンゴル人民共和国の独立を追認した。
  • 6月 土地改革法…農民に土地を分配して封建的な地主制を廃絶
  • 10月 朝鮮戦争への義勇軍参戦
1951年
  • 三反五反運動:国家機関での三害(汚職・浪費・官僚主義)に反対し、五害(贈賄、脱税、国家資材の窃盗、手抜きと材料のごまかし、経済情報の盗み取り)に反対する運動。運動が大成功をおさめ、ブルジョワ的残滓のある新民主主義内部におけるプロレタリアートの勝利とされた。
1952年
  • 農工業が建国前の水準を上回る → 共産党、政治的支配を強める
1953年
  • 第一次五カ年計画(~57)→農業と手工業の集団化、社会主義的工業化が実施される。
1954年

(3)大躍進の失敗

建国期
1958年 第二次五カ年計画 スタート
  • 「大躍進」…人間資本と精神主義に基づく生産増強運動
    • 人民公社…農村における生産活動と行政・教育活動等を一体化した組織。
    • 土法高炉による非科学的な鉄鋼増産
    • 無謀な農業政策…四害駆除運動、密植・深耕運動
  • 大躍進の結果
    • 工場労働者の疲弊と機械の消耗、農民の生産意欲の低下を招く
    • 1959年から3年連続の自然災害と大凶作→未曾有の経済困難が発生し、大量の餓死者が生まれる。
    • 毛沢東国家主席の座を劉少奇に譲る。
調整政策
  • 毛沢東らが進めていた大躍進政策が大量の餓死者を出して破綻したあと、劉少奇や鄧小平が行った経済政策。
  • 重工業建設のテンポを落とし、農業と工業生産の回復、農民の私有地を増やす。
毛沢東の逆襲

(4)文化大革命

文革の背景
  • 1949 中華人民共和国建設
  • 1953~57 第一次五カ年計画 → 強引な工業化、農業集団政策
  • 1958 第二次五カ年計画 「大躍進」失敗 
  • 1958 毛沢東国家主席の座を劉少奇に譲る。
  • 1961~ 調整政策
    • 劉少奇、鄧小平らが中心となり農業と軽工業生産の回復を行う。
    • 毛沢東の巻き返し;社会主義段階においても階級闘争が存在し、党や国家の幹部に残存するブルジョワ思想を取り除く革命を継続すべきだという信念を固める。
      • 修正主義化を防止する為、党内の資本主義復活をはかる実権派(走資派)から権力を奪取する権力闘争を展開!!
1966 プロレタリア文化大革命 !!
  • ①奪権闘争期
    • 大衆動員を図り紅衛兵組織→「造反有理」(謀反には理由がある)をスローガンに旧文化破壊
    • 1968年 劉少奇失脚 → 毛沢東の権力は回復するが、奪権闘争に勝利した後の方向性を示すことが出来ず。造反する学生、労働者、兵士は毛沢東思想を権威として暴走!! 
  • 林彪事件後 ~「鄧小平&周恩来」VS「四人組」~
    • ※1972 中ソ対立を利用してニクソンが中国に接近。1972年2月に訪中を実現。中国は外交政策の歴史的転換の中でも権力闘争を繰り広げる。
      • 文革初期に批判された鄧小平が再び復活!周恩来と協力して秩序の回復と経済再建にあたる。
      • 毛沢東の威信を背景とする江青(毛沢東第三夫人の女優)ら「四人組」は「批林批孔運動」を展開して、毛沢東の個人崇拝を強め、周恩来・鄧小平らの実務家と対決。

(5)改革開放

華国鋒時代(1976~81)
  • ②1977年
    • 7月 鄧小平復活! →「四つの現代化」…農業、工業、国防、科学技術
    • 8月 文化大革命終了宣言
    • 10月「二つのすべて」…毛沢東路線を継承することをアピール!「毛沢東の決定したことはすべて支持し、毛沢東の指示はすべて変えない」というもの。
  • ③1978年
    • 10月 鄧小平が日中平和友好条約の為に渡日。日本を見て改革開放を決意したとのエピソードも。
    • 12月 鄧小平が改革・開放政策を提唱! → 華国鋒は実権を奪われる。
  • ④1979年:経済特区の設置→外国資本や技術を導入するために設置。広東・福建4都市と海南島
  • ⑤1981年:華国鋒は鄧小平に批判されて失脚。
最高実力者鄧小平時代(1981~97死去)
  • 胡耀邦総書記(1982~87)
    • 1985:人民公社解体→ 農村への生産請負責任制導入:個々がそれぞれ政府から生産を請け負い、政府に納める生産分以上に生産した場合は自由に販売できるようになった!!
    • 1987:胡耀邦が失脚。政治的自由に寛容であったためとされる。後継は趙紫陽
胡錦濤時代(2003~12)