『冴えない彼女の育て方』を読んで消費社会に絶望だ・・・

おはなしの筋としては、地味子の世間的評価をあげようとするもの。
ただし、エロゲーやギャルゲーのヒロインとしての価値観によってである。
どうすれば「売れる」キャラクター表現を造詣できるかというメタ的な内容を扱う。
ヲタクの欲望や大衆消費社会を婉曲的に批判しているので、読んで絶望したのは私だけではないはず。
欲望のデータベース化や記号に反射しているだけの動物化とかそういうおはなし。

雑感

ヒロインは主に3人。原画担当のテンプレ系ツンデレ、シナリオ担当のクール系ツンドラ、そして趣味も特技もなく平凡な地味子である。主人公は、ツンデレツンドラの二人を率いて、地味子をエロゲヒロインとして大成させようと画策する!というのが大まかな流れである。主人公くんが企画者として「売れる」ヒロインのエロゲーのプロットを作っていくのだが、ヒロインが原画やシナリオの制作者としての事情を紹介することで、大衆文化における消費型社会が批判される。


まず原画の方は『こみっくぱーてぃー』でも扱われていたテーマだが「ヲタクの欲望は記号に反射しているだけ」と、痛烈にあてこすられる。ここでは現在放映されているアニメのその週に扱われた「記号」をタイミング良く提示することが重要であるという主張が展開される。そして消費型のヲタクというのは、その「記号」に反射し、webサイトのアクセス数を増やし同人誌にカネを落とすだけの豚に過ぎないと。絵は上手いだけでは自己満足で、時流に乗って栄えなければ、誰も賞賛してくれないし、他者からの評価が受けられなくては意味がないと。キャラゲーラノベも絵が良ければ売れるし、消費型オタクは絵しか見ていない。流行しているキャラを剥いて裸にしてればアクセスは増えるし、性行為をさせれば同人誌は売れるのだ。これに対して主人公くんは幼なじみパワーを使って制作者の思い入れが大事だと反論し、純粋にキャラクターの魅力に惹かれお絵かきをしていた過去を思い出せと諭していく。


そしてシナリオにおいてはキャラゲー批判である。作品中では、キャラゲーラノベにシナリオなんてものはあったものではなく、欲望に反射するイベントを機械的に並べただけだとの論が展開される。量産されるキャラゲーラノベは、「登場人物」が「出来事」を経験して「心情変化」させ、主人公くんとヒロインが「フラグ構築」し、最後は「大きな問題」を解消することでめでたしめでたし・・・という筋書きを消費しているだけに過ぎないと批判される。ここでは、文学的文章の思想論をやっているわけだ。小説というのは、ある個別具体的な登場人物達が個別具体的な出来事を通して心情変化させる。だが、それは個別具体的なひとつの事例ではなく、演繹して抽象化すると普遍的・一般的な現代社会の諸問題をあぶり出すことに繋がっていく。つまり、個別具体的な事例を用いて社会的な問題を描くのが小説と言えるので、テーマ性が重要になってくるのだ。このことを土台としながら、昨今のキャラゲーラノベは、ヲタクの欲望を喚起させるだけのテキストに過ぎないと揶揄されている。どこかで見たことのあるような属性で構成されたヒロインたちが、薄っぺらい主人公くんに好感度MAXで、適当に乳繰り合うだけと切って捨てられるのだ。


ラノベにおいてキャラクター消費の典型であるラノベ批判をしちゃうのだから面白いとされる。だがこれも消費され尽くしていく作品群に触れているからこそ、こうしたメタ的なおはなしが受け入れられるようになってきたのだろう。