ジャワ島の製糖業に中国の技術と労働力が導入されたことの背景にある中国側の国内事情

オランダ東インド会社は、17世紀から18世紀にかけて次第にジャワ島内部への支配を強めた。この当時、ジャワ島内部で発展した産業の一つが砂糖生産であり、砂糖生産に関わる技術や一部の労働力は中国から導入された。この背景にある中国側の国内事情を2行以(60字)内で記述しなさい。(東大2014-大問2-問2b)


ジャワ島とか製糖業とか書いてあると強制栽培制度を連想してしまうわね。
だけどこれは「南洋華僑」について書けば良いのでしょう?
しかも「国内事情」とあるので南洋華僑が東南アジアに引きつけられたプル要因は一切記述しないのよね?
中国側が南洋華僑を押し出したプッシュ要因だけ書けばOK的な。



そうだね。ただし時間軸が「17世紀から18世紀にかけて」だから・・・

  • 遷海令解除(1684年)
  • 人口増加による土地不足(辺境開発と地丁銀制)(18世紀)

自分だったらこれら二つを根拠に説明を書いてしまうと思う。



センセ、センセ。赤本には「17世紀から18世紀」という時代設定を「明末清初」と解説しているわ。
けどけど明末清初は「16世紀末から17世紀中頃」ではないかしら?
そして新大陸物産、トウモロコシとサツマイモによる人口増加を強調しているの。
確かに事実かもしれないけれど、時期がすこしずれる気がしますわ。



多分赤本は「南洋華僑のはじまり」に着目したのではなかろうか?
北虜南倭でご存じでしょうが、16世紀には明の貿易統制政策を打破する動きが活発化するんですよ。
で、福建や広東の出身者が国禁をおかして東南アジア各地に移住したのが南洋華僑のはじまり。
16世紀後半に明は海禁を緩和せざるをえなくなり、その結果貿易の代償として日本銀やメキシコ銀が大量に流入
これを受けて中国の貿易商人たちは、東南アジア各地に進出していき、中国人町を形成していきます。
赤本はこのことを根拠にしているのだと思う。



手元にある参考文献をめくってみたわ。

  • 遷海令の解除の影響について

一六八四年、海禁は解除され、沿海諸省には……四つの海関が設けられた。……南洋貿易の比重が高まったのがこの時期の一つの特徴である。福建省厦門は、清代における中国船の南洋への出港地として最大のものであった。ここから毎年出港する中国船は、十八世紀半ばの最盛期で一年に六〇〜七〇隻、行き先はマニラ(十数隻)、バタヴィア(十数隻)、ヴェトナム、タイなどを中心に、東南アジアの全域に渡っていた。東南アジアとの帆船貿易が盛んになり、経済的・人間的関係が密接になるにつれて、中国人のなかに、東南アジア諸地域に住み着いてしまう人々が出るのも不思議ではない。とくに山がちで人口の多い、福建は、人口圧力と海上交易依存度の高さから、東南アジア華僑を多く生み出す地域であった。(岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中公文庫 2008)

  • 17世紀〜18世紀における華僑について

華僑とは中国人(華)で外国に仮住まいする人(僑)の意味である。少数の例は古くからあるが、十五世紀前半に琉球王国に移住した貿易業者、17世紀末以降、中国での棉・桑など農業の商品作物化にともなうコメ不足によりタイ・ベトナムなどへ移住したコメ輸入業者、十八世紀からの東南アジア植民地化の砂糖園やゴム園で働く労働者、そして十九世紀中ごろのアメリカ横断鉄道の建設労働者などが続く。永住した華僑を「華人」とも呼ぶ。(加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中公文庫 2010)

  • 清代の人口増加の変化

清代中期の爆発的人口増加は太平の持続と穀物増産の進展によるほか、地丁銀制施行により人頭税は廃止されたことも影響している。人口増加は耕地不足を招いて流民や移民の数を増加させ、華北漢人の華南移住(客家)や、東南アジアなどへの国外移住(いわゆる華僑)などが進展していった。(『詳説世界史研究』山川出版社 2008)



やっぱり時期区分は「17世紀から18世紀」とあるから、中国の国内事情としては「遷海令の解除」と「人口増加」により東南アジアへの移住者が増えたことを指摘したいなぁ。